【37.小さな願い①】
上空に広がった薄い雲の下。
防御柵の一つをついに倒して、侵略軍の士気は一段と上がった。
「あそこだ! 弓隊、正面を叩け!」
気を良くしたスモレンスクの副将の声が南側で弾むと、全身に鎧を纏った一団が林から進み出て、左手に盾を持ち、右手に弓矢を携えて壕へと走った。
目的は同じ目線。新設された石積みの防御壁に隠れる、弓兵の排除である。
「怯むな!」
防御柵にできた隙間は、明確な指標。
それは即ち、守るトゥーラの射手にとっても同様であった。
平行に、或いは上から、飛んでくる矢羽の数が一段と増してゆく。
それでも仲間の檄に鼓舞されながら、スモレンスクの兵士達は一つの防御柵を排除した、壕の右側だけをひたすらに目指した。
「梯子を持って来い!」
ブランヒルの声に林の中から登場したのは、長さ1メートル程の梯子であった。
国から持参、或いは行軍途中に作成したものであったが、無防備な状態で運ぶのは困難である。
「いけ! 投げ入れてやれ!」
しかし、状況は変化した。
右側に射撃が集中し、それ以外の脅威が格段に減ったのだ。
盾すら持たない鎧だけを纏った二人組の兵士たちが、梯子を前後に持って左へと次々に走り出した。
「頼んだぞ!」
壕の中で奮闘する先発隊には頭が下がる。
無防備な姿を晒す時間は一瞬たりとも減らしたいが、梯子を投げ入れた兵士たちは、一様に励ましの声を送った。
「任せろ!」
姿は見えずとも、大きな力。
先発隊の中で、率先して指示をしていた一人の男が、彼らの声に呼応した。
(こういうのも、悪くない)
男の名は、ヴィスカ。
階級社会が連綿と続くスモレンスクの貧民街に生まれて、18年。
そこで生まれた多くの者がそうであるように。
彼もまた、幼い頃からの生きる術は、窃盗という名の悪事であった――
―――――――――
彼が5歳のある日。
僅かばかりのお金を手にした母親と、左手を引かれるままに歩いていると、両脇に野菜や食器。雑貨が並ぶ朝市へと足を踏み入れた。
キョロキョロと視線を泳がせた少年は、やがて正面から歩いてくる、ツギハギの入った麻のローブを纏った、自分達と同じようなみすぼらしい格好をした母子を視界に入れた。
路の中寄りを母親が、商品棚の居並ぶ側を、子供の方が歩いている。
視線が彼らを追って、ほんの数秒後。
サッと子供の左手が動くと、ヴィスカは店先に並んでいるタマネギが一つ消えるのを、ハッキリとその目で確認をした――
心に澱の無かった少年にとって、彼の素早い動きは衝撃だった。
「……」
思わず足を止めた少年に、盗っ人はすれ違いざまに母親の向こうから視線を寄越すと、ニヤリと口角を上げたのだ――
それから数日後。
ヴィスカは胸の高鳴りを覚えながら、母親に右手を引かれて市場を歩いていた。
当然のことながら、意図して母親の左側を選んだ。
分かっていた。やってはいけないこと。
それでも。己が置かれた境遇と理不尽に、抗う意思が勝ったのだ――
母が世話する痩せた土地。小さな畑で獲れるタマネギが、人の行き交う市場では倍近い大きさで所狭しと並んでいる。
その一個一個が、輝いて見えたのだ。
「……」
身体を左に傾けて。ヴィスカ少年は、意を決して左手を伸ばした。
「え?」
しかしながら、その刹那。母親に右腕を引っ張られた――
悪を伸ばした指先から、大きなタマネギは遠ざかっていった――
(どうして?)
少年は母親を見上げたが、どんな言葉も返ってくることはなかった。
その代わり、灰色の混じる曇った空を背景にして、黒いローブを纏った母の頭が、微かに左右に動いた――
それから一年が経った頃。
普段と同じように早朝に家を出て畑仕事をしていた母親が、ふらっと崩れるようにして倒れると、そのまま命を落とした――
数日前から熱を出していた少年は、その日の朝、だいぶ良くなったんだと母に告げ、畑仕事を手伝おうと起き上がったが、雲が重そうだからと止められていた。
ボロボロの薄い毛布を何枚か重ねられ、母の優しさに無理やり眠った彼が次に目を覚ますと、外には小さな雨が舞っていた。
「かあさん?」
ヴィスカ少年は、薄暗い小さなあばら家で、母の面影に呼びかけた。
当然ながら、返事は無い。
木造の薄い屋根を墨のように濡らしてゆく雨音が、小さな彼の胸中に、大きな不安を抱かせた――
「……」
川沿いの土手の上。
ヴィスカ少年は、息を切らして畑へと走った。
やがて飛び込んできたのは、彼の口へと運ぶ為に採ったであろう、しなびたエンドウを手にしたまま、地面に倒れた母の姿であった――
それからの事は、覚えていない。
絶望に襲われ、その場で崩れ落ち、思いのままに泣き叫ぶ姿に誰かが気付いたか。
次に残る母の記憶は、川沿いの畔に敷かれた藁の上で、あの日のままの衣服を着て、上を向いて横たわっている痩せ細った姿であった――
誰かが天に向かって言葉を吐くと、冷たくなったぬくもりに、短い藁がいくつも重ねられ、やがて、炎が覆った。
嗅いだことのない異臭が沸きあがり、濛々と黒煙が上っていくその場景は、どこか別の世界の出来事のようだった。
何を考えていたのか、何を想っていたのか………
ただ、生きる糧を自らの手で得なくてはならないという事だけは、ぼんやりと理解できていた――
小さな畑は、翌日には他人の手に渡っていた。
「こんな畑でも、貸し賃が要るんだよ。アンタに、払えるのかい?」
ボロボロの衣服。母を思わせる痩せた女の人が、自分たちの畑だと訴えた少年に、現実を教えた。
「……」
言葉が出なかった……
そういうものだという漠然とした理解。それをしなければならない。しかし――
「これは、アンタの取り分だよ」
新しい畑の持ち主は、ぶっきらぼうに言いながら、母が育てた小さなエンドウをいくつか摘み取ると、汚れた麻布で丁寧に包み、立ち尽くすヴィスカ少年に向かって放った。
「……」
少年がそれを目で追うと、足元、小さな雑草がまばらに混じる赤土の上に落ちた端切れから、しなびた母の分身が、ぽろっと姿を覗かせた。
「……ありがとうございます」
発した言の葉は、精一杯の抵抗――
少年は、一声を絞りながら、地面に墜ちた、母からの最期の糧を手に取ると、零れ落ちる涙を隠すようにして、その場を走り去った。
「さよなら……」
数時間後。黒く焼け焦げた土の上。
夕陽が沈みゆくドニエプル川の畦に立ったヴィスカ少年は、握り締めたエンドウをぱらっと撒くと、やがて小さな声で別れを告げた――
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