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小さな国だった物語~  作者: よち


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37/218

【37.小さな願い①】

上空に広がった薄い雲の下。

防御柵の一つをついに倒して、侵略軍の士気は一段と上がった。


「あそこだ! 弓隊、正面を叩け!」


気を良くしたスモレンスクの副将(ブランヒル)の声が南側で弾むと、全身に鎧を纏った一団が林から進み出て、左手に盾を持ち、右手に弓矢を携えて壕へと走った。


目的は同じ目線。新設された石積みの防御壁に隠れる、弓兵の排除である。


「怯むな!」


防御柵にできた隙間は、明確な指標。

それは即ち、守るトゥーラの射手にとっても同様であった。


平行に、或いは上から、飛んでくる矢羽の数が一段と増してゆく。


それでも仲間の檄に鼓舞されながら、スモレンスクの兵士達は一つの防御柵を排除した、壕の右側だけをひたすらに目指した。


「梯子を持って来い!」


ブランヒルの声に林の中から登場したのは、長さ1メートル程の梯子であった。

国から持参、或いは行軍途中に作成したものであったが、無防備な状態で運ぶのは困難である。


「いけ! 投げ入れてやれ!」


しかし、状況は変化した。

右側に射撃が集中し、それ以外の脅威が格段に減ったのだ。


盾すら持たない鎧だけを纏った二人組の兵士たちが、梯子を前後に持って左へと次々に走り出した。


「頼んだぞ!」


壕の中で奮闘する先発隊には頭が下がる。

無防備な姿を晒す時間は一瞬たりとも減らしたいが、梯子を投げ入れた兵士たちは、一様に励ましの声を送った。


「任せろ!」


姿は見えずとも、大きな力。

先発隊の中で、率先して指示をしていた一人の男が、彼らの声に呼応した。


(こういうのも、悪くない)


男の名は、ヴィスカ。


階級社会が連綿と続くスモレンスクの貧民街に生まれて、18年。


そこで生まれた多くの者がそうであるように。

彼もまた、幼い頃からの生きる(すべ)は、窃盗という名の悪事であった――



―――――――――


彼が5歳のある日。

僅かばかりのお金を手にした母親と、左手を引かれるままに歩いていると、両脇に野菜や食器。雑貨が並ぶ朝市へと足を踏み入れた。


キョロキョロと視線を泳がせた少年は、やがて正面から歩いてくる、ツギハギの入った麻のローブを纏った、自分達と同じようなみすぼらしい格好をした母子を視界に入れた。


(みち)の中寄りを母親が、商品棚の居並ぶ側を、子供の方が歩いている。


視線が彼らを追って、ほんの数秒後。


サッと子供の左手が動くと、ヴィスカは店先に並んでいるタマネギが一つ消えるのを、ハッキリとその目で確認をした――


心に(おり)の無かった少年にとって、彼の素早い動きは衝撃だった。


「……」


思わず足を止めた少年に、盗っ人はすれ違いざまに母親の向こうから視線を寄越すと、ニヤリと口角を上げたのだ――



それから数日後。

ヴィスカは胸の高鳴りを覚えながら、母親に右手を引かれて市場を歩いていた。

当然のことながら、意図して母親の左側を選んだ。


分かっていた。やってはいけないこと。

それでも。己が置かれた境遇と理不尽に、抗う意思が勝ったのだ――


母が世話する痩せた土地。小さな畑で獲れるタマネギが、人の行き交う市場では倍近い大きさで所狭しと並んでいる。

その一個一個が、輝いて見えたのだ。


「……」


身体を左に傾けて。ヴィスカ少年は、意を決して左手を伸ばした。


「え?」


しかしながら、その刹那。母親に右腕を引っ張られた――


悪を伸ばした指先から、大きなタマネギは遠ざかっていった――


(どうして?)


少年は母親を見上げたが、どんな言葉も返ってくることはなかった。

その代わり、灰色の混じる曇った空を背景にして、黒いローブを纏った母の頭が、微かに左右に動いた――



それから一年が経った頃。

普段と同じように早朝に家を出て畑仕事をしていた母親が、ふらっと崩れるようにして倒れると、そのまま命を落とした――


数日前から熱を出していた少年は、その日の朝、だいぶ良くなったんだと母に告げ、畑仕事を手伝おうと起き上がったが、雲が重そうだからと止められていた。


ボロボロの薄い毛布を何枚か重ねられ、母の優しさに無理やり眠った彼が次に目を覚ますと、外には小さな雨が舞っていた。


「かあさん?」


ヴィスカ少年は、薄暗い小さなあばら家で、母の面影に呼びかけた。


当然ながら、返事は無い。


木造の薄い屋根を墨のように濡らしてゆく雨音が、小さな彼の胸中に、大きな不安を抱かせた――


「……」


川沿いの土手の上。

ヴィスカ少年は、息を切らして畑へと走った。


やがて飛び込んできたのは、彼の口へと運ぶ為に採ったであろう、しなびたエンドウを手にしたまま、地面に倒れた母の姿であった――




それからの事は、覚えていない。


絶望に襲われ、その場で崩れ落ち、思いのままに泣き叫ぶ姿に誰かが気付いたか。


次に残る母の記憶は、川沿いの(あぜ)に敷かれた藁の上で、あの日のままの衣服を着て、上を向いて横たわっている痩せ細った姿であった――


誰かが天に向かって言葉を吐くと、冷たくなったぬくもりに、短い藁がいくつも重ねられ、やがて、炎が覆った。


嗅いだことのない異臭が沸きあがり、濛々(もうもう)と黒煙が上っていくその場景は、どこか別の世界の出来事のようだった。


何を考えていたのか、何を想っていたのか………

ただ、生きる糧を自らの手で得なくてはならないという事だけは、ぼんやりと理解できていた――




小さな畑は、翌日には他人の手に渡っていた。


「こんな畑でも、貸し賃が要るんだよ。アンタに、払えるのかい?」


ボロボロの衣服。母を思わせる痩せた女の人が、自分たちの畑だと訴えた少年に、現実を教えた。


「……」


言葉が出なかった……


そういうものだという漠然とした理解。それをしなければならない。しかし――


「これは、アンタの取り分だよ」


新しい畑の持ち主は、ぶっきらぼうに言いながら、母が育てた小さなエンドウをいくつか摘み取ると、汚れた麻布で丁寧に包み、立ち尽くすヴィスカ少年に向かって放った。


「……」


少年がそれを目で追うと、足元、小さな雑草がまばらに混じる赤土の上に落ちた端切(はぎ)れから、しなびた母の分身が、ぽろっと姿を覗かせた。


「……ありがとうございます」


発した言の葉は、精一杯の抵抗――


少年は、一声を絞りながら、地面に墜ちた、母からの最期の糧を手に取ると、零れ落ちる涙を隠すようにして、その場を走り去った。


「さよなら……」


数時間後。黒く焼け焦げた土の上。


夕陽が沈みゆくドニエプル川の畦に立ったヴィスカ少年は、握り締めたエンドウをぱらっと撒くと、やがて小さな声で別れを告げた――

お読みいただきありがとうございました。

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