【221.チェルニゴフ⑤】
キエフへの往路の最終日。
王妃の赤い髪を、夜明けの光が照らす中、一行は宿屋の主人と衛兵に別れの挨拶をして、デスナ川に向かった。
「ねむ……」
「おはようございます」
髪を麻布で覆った王妃が不満を零すと、背後から聞き覚えのある声がやってきて、振り返る。
「おはようございます。今日はキエフまで、宜しくお願いします」
リアは微笑みを作った。
「出航まで、もう少し掛かります。朝食でも、どうですか?」
「良いな!」
縮れた金髪も、朝の光を浴びている。
ミハルコが微笑むと、最年少のウィルが元気に応えた。
「あれが、乗船する船になります」
デスナ川を望む丘の上。
丸テーブルに案内されたところで、ミハルコは眼下の帆船を示した。
「でっかいな!」
「はい。安全が第一ですから」
ウィルが駆け寄って、柵に両手を預けた。
周囲では、同じように乗船前の食事を愉しんでいるグループが、それぞれの丸テーブルを囲んでいる。
「ところで……」
「はい」
一同が席に座ったところで、王妃は頭部を覆っていた麻布を外した。
「ご存じかと思いますが、私たちは、トゥーラから参りました。それなりの身分の方と、お見受け致します。お名前を、伺っても?」
折り畳んだ麻布を膝に乗せると、王妃は改まって正面に座った男に尋ねた。
「さすがに、隠し切れませんね。いつから?」
両の手首がテーブルの上に置かれると、男の目尻が下がった。
「最初に声を掛けられたとき……水夫の恰好でしたけど、汚れていなかったので……」
「なるほど」
「あと、水夫にしては、傷痕の数が多いので……」
「それは……長袖にしておけばよかった……」
頬が綻んで、男は小さく頷いた。
「ミハルコ・ユーリエヴィチと申します」
「ミハルコ……」
「ご存じなのですか?」
王妃が繰り返すと、右側に座るライエルが尋ねた。
「キエフの、守護者……」
「守護者……」
「スーズダリ大公の、弟……」
「え?」
返答に、青い瞳がミハルコに向かった。
「でもね。ミハルコさんは、キエフ側……ということで、宜しいですか?」
「そうですね……」
当然ながら、宗主国とトゥーラは同じ立場。
キエフやノヴゴロドへの遠征を繰り返し、その度に派兵を求めるスーズダリには、辟易している。
「何故、ここに?」
「いやあ……あの大公が政治的に惹かれる方。しかも、女性ということで、興味がありまして」
「……」
王妃が尋ねると、ミハルコは両手を組んで身体を前にした。
「えと……それは、大公妃では?」
「え?」
「お誘いを受けたのは、大公妃です」
「……」
ミハルコを、大きな瞳が突き刺した。
「いや……そうなのですか? 私はてっきり、大公が呼んだのかと……」
「私は、大公妃だと思います」
「え? いや……私は、大公妃様とは、会話が無くて……」
「でしたら、認識を改めた方が宜しいかと」
「……」
強気の発言が、ミハルコの眼前から届いた。
夫の軍事行動を、自身は何度も止めている。
妻から見れば、恨むべき存在――
「一方からの視点では、全体は映りません。隣のライエルも、リャザンで一緒でした。あの人は気安く近付いて、要求だけは高いのです」
「そうなのですか?」
「まあ……こちらの王妃様と同じで、明るいのは確かなのですが……」
会話の対象は、大公妃。
ライエルは、苦笑するしかなかった。
「ヴァレーニキ、お待たせしましたっ!」
「やっと来た!」
ミハルコが王妃の発言を含んだところで、朝食がやってきた。
ウィルが諸手をあげて喜ぶと、店主からトレーを両手で受け取った。
一時間後。
自己紹介を終えた一行は、ミハルコに案内されて、帆船に乗り込んだ。
「すげえ。全然揺れねえぞ?」
「お願いだから、大人しくしててね?」
きっと、大国の使節と見做されている。
ウィルが興奮を表すと、リアの眉尻が下がった。
「わ、わたすが、見てまふので……」
「お願いね」
ルーベンが子守を買って出て、リアはため息を吐き出した――
たっぷりの水を湛えたデスナ川を、流れに任せて南下する。
頭部の麻布を剥いだ王妃は、船の艫に足を置き、離れていくチェルニゴフの教会群を眺めた。
「大公の治世を、どう思いますか?」
「……」
人影が近付いて、王妃に尋ねた。
予想通りの展開に、リアの足は向きを変えなかった。
「どう……とは?」
「思ったままを、話してください。お世辞を言えるような方なら、あの大公が招くとは思えない」
リアが答えを濁すと、ミハルコの奥目の瞳が微笑んだ。
「正直、今の状況は、信じられません。だからこそ、私は、ここに居るので……」
「危険を承知で?」
「殺すまでは、しないと思うので……」
「なるほど」
納得をしたミハルコは、リアの横顔を見るかたちで、艫のへりに腰掛けた。
「高い評価の理由は?」
「第一に、大公就任に当たって、遊牧民の襲撃がありません」
「確かに……何しろ、一緒に襲っていた側ですからね」
「そうですね」
大公の過去に触れると、二人は思わず吹き出した。
「恐らくは、遊牧民に労いの品でも贈っているのでは? 大公妃がハンガリーの公女ですから。遊牧民も、背後から討たれたくはないでしょう」
「確かに」
「大公のお父様は、それも見据えてハンガリーとの結びつきを強くした……考えすぎでしょうか?」
「どうでしょうね……ただ、結果として、今が在るのですから、評価しなければなりません」
「……」
ミハルコの兄であるスーズダリ大公にとって、ジミルヴィチは、父の代から続く仇敵のはず。
にも拘らず、穏やかな表情で功績が認められ、リアは静かに頷いた。
「ジミルヴィチを大公に推したのは、ミハルコ様と聞きました」
「そうですね」
「でしたら、相承したのではないですか?」
「……考えすぎですよ」
王妃が瞳を合わせると、ミハルコは嫌って視線を下にした―—
「ところで、あなたが描く治世とは、どのようなものですか?」
しばらくの時間を置いてから、ミハルコが尋ねると、頭上に広がる帆布が、風を捉えた。
「争いの、ない世界……」
赤い髪が広がった。王妃は前を見据えて呟いた―—
湖のようなデスナ川の水面には、淡い陽光が走っている。
「できそうですか?」
「……わかりません」
彼の口調には、嘲笑は含まれない。それでも、リアの瞳は陰った。
「ですが、争いばかりの世界にも、今は、光が射しています」
リアが続けると、視線はミハルコに向かった。
縮れた金髪が、陽光を浴びている。
「……何が、言いたいのですか?」
「いえ……」
問われると、王妃は答えを濁した。
その先は、無責任な要望で、軽々しく発言できるものではない。
「実は、大公から、あなたの話を聞きました。ロスチスラフ様の治世を、讃えているとか?」
「はい。せめて、あと一年。生きていらしたら……」
「そうですね。施策としては、アリですね」
「……」
ミハルコは、戦場の部外者をあしらった。
リアが語るのは、遊牧民の監視に諸侯が当たった、1166年の政策のこと――
「それでも、新たな治世の形を示すことは、できた筈で……」
「確かにそうですが、力なき正義は、ただの空論です。従わせるだけの威光があってこそ、人は動くのです」
「……」
ミハルコの正論が、リアの声帯を貫いた。
「それよりも、権力の移譲こそ、最大の課題なのですよ」
「……」
続けると、緑を含んだ奥目の瞳が、真っすぐに向けられた。
大公の跡目争いを、排除する―—
遺恨の残る相手にも拘わらず、ルーシの習わしに戻した彼の功績を、リアは改めて胸に落とした。
現在だけではない。未来に繋がる治世。
それこそは、彼女が願う世界の形――
「それで……ミハルコ様の、評価は?」
時間を置いてから、今度はリアが尋ねた。
「よくやってるんじゃないですか?」
「……」
縮れた金髪が、僅かに風に泳いだ。
「長く続くかは、怪しいですけどね……」
「そうですね……」
言いながら、ミハルコが足下に視線を落として、王妃は微かな違和感を覚えた―—
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