【220.チェルニゴフ④】
チェルニゴフ。教会群が見守る石畳の大広場。
「サーロ。できたよ!」
両手でトレーを支えた食いしん坊が、丸テーブルを囲む3人の元に戻った。
豚の背脂を塩漬けにしたものがスライスされて、ライ麦パンの上に載っている。
白と黒。コントラストが美しい。
かなりの高カロリー。
しかしながら、12世紀の世界では、庶民が口にすることは稀であったのだ。
「お待たせ! ヴァレーニキの山盛り! おまけしといたよ!」
「おっちゃん! ありがとう!」
サーロを頬張るウィルの背後から、威勢の良い店主とともに肩幅以上のトレーが現れて、木皿にそれぞれの具材別に盛られたヴァレーニキが運ばれた。
餃子のような食べ物で、生地に包んで茹でるだけ。
調理方法が簡単で、トゥーラでも主食の一つだが、具材に地域差が現れて面白い。
「俺は、肉から!」
「じゃあ、私は魚で」
「わ、わたすは、は、葉物から……」
「デザートから、行っちゃおうかな!」
それぞれに、故郷の味と比較する。
「ふむ。大きな魚の切り身。下処理が違いますね。少し大味ですが、塩の塩梅が絶妙です」
「さ、さすがれす。こえ、湖沼の味がすます……」
「このベリー、食べたこと無い……やっぱり暖かい方が、果実の種類が多いのね……」
「うめえ!」
3人が具材を眺める傍らで、ウィルはヴァレーニキを次々と喉に流し込んでいた。
「ちょっと! 落ち着いて食べなさい!」
「だって、美味いんだもん!」
「おかわり、させないからね!」
「ええ?」
一気に平らげてしまいそう。
王妃が声を荒げると、途端にウィルの肩幅が狭くなった。
再注文は二品。
主食は下処理をした鶏肉や魚肉をタマネギと蒸したもの。希少品である胡椒と、塩の塩梅が食欲をそそった。
デザートは、定番のチェリーや柑橘系のジャムを包んだもの。備え付けのサワークリームを付けて食す。
「食ったぁ。久しぶりに、腹いっぱい!」
「私も、夜は食べられないかも……」
ウィルが背中を椅子に預けると、王妃は前屈みになって腹部を触った。
残りの二人は、苦笑いを浮かべている。
「このあと、どうする?」
「俺はもう、動けねえ」
「あんたね……」
「とりあえず、宿に戻りますか?」
「そうね……」
「他に、何か?」
王妃が幼馴染に軽蔑の視線を送る中、ライエルが尋ねた。
「お城に行って、イリーナさんに礼を言わないと……」
「そうですね」
「感謝を伝えるのは、外交の基本だからね。付いてきてくれる?」
「はい」
こうして二手に分かれると、王妃はライエルを伴って城に向かった。
「イリーナ様?」
「はい」
チェルニゴフ公の弟。ヤロスラフの奥方への面会を申し出ると、衛兵から怪訝な声が上がった。
「あんたら。昨日、着いた者か?」
「あ、はい!」
次いで、衛兵の足が城門の奥に向かうと、詰所から、別の顔が覗いた。
「ヤロスラフ様とイリーナ様は、揃ってグルーホフに出掛けた筈だ」
「グルーホフ?」
「母君が、お住まいなのだ」
「そうですか……」
「心配するな。アガフィヤ様からの申し渡しには、『構うことなく、好きにさせろ』 と書いてある。好きに過ごせ」
「あ、ありがとうございます!」
不在を知って伏し目になったところで、色良い返事がやってきた。
恐らくは、キエフ大公妃の発言が、そのまま伝わっている。
大きな双眸を覗かせて、王妃は二人の衛兵に感謝を告げた――
チェルニゴフ公。公の弟。その妻。更には公の母親への手紙を衛兵に託して、トゥーラの王妃はチェルニゴフの公邸に背を向けた。
「あれは?」
街の全体を見渡してみよう。
丘の上まで足を延ばすと、遠方の平坦で、蠢く集団が目に入った。
「兵の調練? でしょうか……」
「みたいね……ああやって鍛えるのは、なんのため……かしらね……」
「……」
ライエルが答えると、王妃が呟いた。
「女性や子供を攫うため?」
「え……それは……」
「そうとしか、思えないんだけど?」
「……」
青い双眸は、憂いを浮かべる王妃に向けられた。
「すべての国が、守ることに徹すれば良いのに……」
「……」
専守防衛を掲げるトゥーラの王妃は、大いなる理想を口にした—―
宿に戻ると、衛兵から入浴を勧められ、一行はデスナ川の直轄地に向かった。
「良かった……言い出せなかったんだよね」
リアが配慮に感謝した。
水浴びと焚火でワンセット。退屈な道中では唯一の癒しだったが、都市部に入ってからは不可能だったのだ。
「公衆の……バーニャ?」
短い青草を間に挟んで、幾つかの丸太小屋が並んでいる。
どうやら女性用の小屋もあるらしく、王妃の足は軽くなった。
「じゃあ、一時間後ね」
衛兵から渡された身分証を女性の管理人に提示して、3人に手を振った王妃は、いそいそと丸太小屋に身体を隠した。
「一時間も風呂に入るのか? あれ、熱いんだろ? 蒸し野菜になっちゃうよ!」
「ウィル君は、初めてですか?」
「う……うん」
「入りますか?」
「す、少しだけな!」
こうして手荷物を預けると、素っ裸になった3人は、白い湯気を発している丸太小屋の中に入った。
「熱っ!」
「こ、これは……なかなかですね……」
白い湯気で視界が塞がって、3人は思わずたじろいだ。
「やっぱり、俺は無理だっ!」
「待ちな! 坊主!」
ウィルが踵を返すと、湯気の中から男の声が飛んできた。
「な……なに?」
「そこは、入口だ。出たきゃ、出口から出るんだな!」
「で、出口?」
ウィルが困惑して固まった。男の姿も見えないが、出口の扉も湯気の中。
「冷えるだろうが! さっさと扉を閉めやがれっ!」
「す、すみまへん……」
更なる怒号が違う方向からやってきて、慌てたルーベンが扉を閉めると、熱気が肌に付着した。
「と、とりあえず、座りましょう」
「そ、そですね……」
上方に備わる採光口からの光は弱々しい。
どうやら部屋は縦長で、左右の壁沿いには腰かけ用の丸太が設置されている。
「俺、こんなところ、絶対に無理だ……」
右側に腰を下ろしたところで、ウィルが弱気を吐き出した。
「少しの我慢です。足元が見えないのは危険です。出口が開くまで、待ちましょう」
「う、うん……」
人の気配は、十人くらい。
出口に近い側に座っていたライエルが立ち上がると、ウィルに場所を譲った。
「ぐ……でも……もう駄目だっ!」
「あっ」
1分も経たないうちに、ウィルが立ち上がって駆け出した。
咄嗟の出来事で、ライエルも止めることができなかった。
「うわっ!」
湯気の中からすっころんだ音がして、ライエルとルーベンが下を向く。
「うるせえって言ってんだろ!」
「ガキが! 入ってくるんじゃねえ!」
「素人は、すっこんでろ!」
次々と、怒号とともに、足蹴にされる鈍い音が湯煙の中で響いた―—
「もう、バーニャには、絶対に入らねえ……」
数分後。
全身の痛みに耐えながら、洗礼を受けた青年はデスナ川の水に浸かっていた。
「まさか、あんな猛者が集う場所だとは……」
「さ、殺気が……す、すごかったでふ……」
助けに入ったライエルも、皆の怒りが収まるまでは、動けなかったのだ。
「どうやら、入っちゃいけない小屋だったみたいですね……」
女性用の小屋は一つだが、男性用は3つ用意されている。
不用意に足を踏み入れて、ライエルは後悔を口にした。
「でも、気持ち良いな!」
しかしながら、熱波からの冷感を享受して、額に青あざを作った青年は、明るい声を発した。
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