【217.チェルニゴフ①】
デスナ川を南下する。
川の流れが順行になった上、追い風を受ける形となって、航行はさらに順調……と思われた。
しかしながら、交易船の主要航路は、幾多の船が行き交っている。
のんびりと進む船。先を急ぐ船。
前者であるヴァティチの一行は、流れの速い中心から外れてキエフを目指すことにした。
「お前ら! 邪魔なんだよ!」
船夫たちは、気性が荒い。小さな帆船を蔑視する。
目立たぬようにしていても、嫌がらせのように波を起こしたり、わざと船を寄せてきたり……
その度に、ルーベンが櫂を操って、ライエルとウィルが無抵抗を示すため、笑顔で小さく手を上げた。
更なる一因は、姿を晒した王妃である。
「お嬢ちゃん! そんな小さい船より、こっちに乗らねえか?」
「大きい方が、好きだろう?」
「そうそう。俺の上にも、乗る事になるけどなっ!」
「ぎゃははっ」
優雅な帆船の旅。女連れ。
揶揄いも、下衆なものばかり。
「なんなのかしらね……もうちょっと、面白く言えないの? あんなの、バカを晒してるだけじゃない」
「……」
王妃が呆れると、一同は揃って苦笑した。
幾多の支流を取り込んで、デスナ川の川幅は広がってゆく。
最後の中継地はチェルニゴフ。キエフ大公の計らいで、宿の案内が提示されていた。
「デカ……」
人口25000人。
要塞都市が視界に入って、声を上げたのは最年少。
高低差を生かした土塁が築かれて、城壁が外周を囲っている。
更には玉ねぎのような教会の黄金ドームが陽光に照らされて、存在感を顕示していた。
「もっと、堅牢にできるわね……そうなったら、落とすのは、無理かもね……」
座ったままで呆れた声を上げたのは、トゥーラの王妃。
近付くにつれて無言になって、視線は徐々に上がっていった。
「どこに……着けまふか?」
「ちょっと、待ってね」
櫂を任されたルーベンが尋ねると、衣服の胸辺りからリアが紙片を取り出した。
「どこに入れてんだよ……」
「なんで? ここ以外に無いでしょ?」
ウィルが軽蔑を挟むと、王妃が平然と招待状を開いた。
「ええと……行くのは城下町じゃなくて、城壁の中みたい。空いてる桟橋でも。岸でも。どこでも良いんじゃないかな?」
「あそこ、空いてるよ!」
手紙の内容を伝えると、ウィルが腕を前にして桟橋を示した。
「おいっ! 無礼者っ! 近づくなっ! ここは、公の直轄の桟橋だ!」
「は、はぃ……」
川岸の衛兵が、貧相な帆船を排除する。
ルーベンが、思わず従った。
「あの……チェルニゴフ公の弟君。ヤロスラフ様に、お取次ぎしたいのですが!」
「……」
リアが呼びかけるも、返答がない。
「てめえらどきやがれ! 沈めるぞ!」
「ひぃ!」
「脅かすなよ!」
すると鎧を纏った偉丈夫に背後から罵られ、ウィルが言い返した。
「なんだと? このガキ……」
「お待ちください!」
ライエルが、槍を持って立ち上がる。
三倍以上の帆船を前にして、怯む姿勢は伺えない。
「なんだお前は?」
「私たちは、リャザンからの密使です。岸に上げてもらいたい」
「密使? 証拠は?」
「招待状があります」
「見せてみろ」
「渡すことは、できません」
「……」
美青年。青い瞳が訴える。
船上での割札などの確認は、たも網を介して行うが、大事な書状は渡せない。
「田舎者が。一番下流に止めて、持ってこい!」
「ありがとうございます」
じろりと目玉が動くと、最後はリアと視線が合った。
ライエルが感謝を伝えると、ルーベンが川下へと櫂を動かした。
「完全に、見下してたわね……」
「リャザンやムーロムは、元々チェルニゴフでしたからね」(*)
「そうなのか?」
リアの発言にライエルが答えると、ウィルの瞳がリアを覗いた。
「70年前までね。遊牧民からルーシを守るために、リャザンやムーロムにも、統治者を置いたの」
「へえ」
「リア様は、博識ですね」
「まあ、退屈だからね」
好奇心に富む王妃の生活を、妻から耳にする。
ライエルが賛すると、リアが溜め息交じりに吐き出した。
川岸に船が寄る。ウィルが真っ先に飛び降りて、ロープを手にしたライエルが続くと、二つの水しぶきが上がった。
「あぇ……ねえ。足が、動かないんだけど……」
「おんぶしてやろうか?」
同じ姿勢で筋肉が固まった。船上で腰を上げようとして、リアの両手が膝を押さえた。
「頼もうかな……」
「ほいよ」
水面を眺めた王妃が弱気を吐き出すと、膝下までを水に浸けたウィルが近寄って、背中を見せて腰を落とした。
「乗るよ?」
言いながら、倒れこむように身体を預けると、逞しくなった背中に目を閉じる。
両腕を肩越しに伸ばして手首を前で重ねると、膝裏にウィルの大きくなった手の平が伸びてきた。
「……」
仄かな背徳感。青年も回顧する。
氷上で滑って後頭部を打った冬。足を挫いた日。
彼女を背負うのは、ロイズの役目。
嫉妬を灯して、二人のあとを歩いた――
「よっと」
「ちょ? ちょっと!? きゃあっ!」
「うわわっ!」
意気込んだウィルが膝を伸ばすと、前屈みの姿勢まで正して、リアの臀部が落下した。
不慣れな体勢と重力に逆らえず、二人は背中から水面に崩れ落ちた。
「立つな! バカ!」
「なんだよ! 思った以上に、重かったんだよ!」
「な……なんだとコラ!」
「ぐえ」
ウィルが言い返すと、リアが幼馴染の首を背後から締め上げた。
「王妃様。失礼します」
川岸の杭にロープを結んだライエルが、じゃぼじゃぼと童心に帰った二人の元へ足を運んで、水面に腰を落としたままのリアを持ち上げた。
麻の衣服は水を含んで、踵と腰から水滴が垂れ落ちる。
「あ、ありがとう……」
「いえ」
リャザンでの一件を頭に浮かべた王妃は、頬を赤くした。
ライエルが短く答えると、そのまま岸まで小さな身体を運んだ。
「着替えは……」
「いらない。桟橋へ急いで! さっきの役人を見つけないと……リャザンの密使って話は、広まらない方が良い」
「すみません……」
「違うの。あれは、助かった。気を引いた筈」
ライエルの胸元で、王妃が労った。
「あれ? 居ないですね……」
「ごめん。恥ずかしいから、もう降ろして」
「あ、はい」
桟橋まで足を進めるも、対象の姿は消えている。
女を抱える男の姿に周囲の視線が集まって、リアの両足が大地に接した。
「あの……大柄な、鎧を纏った方は、どちらに行かれましたか?」
「あん? 頭なら、城に戻ってんだろ」
「……」
対象の帆船は、桟橋に付いて荷下ろしの真っ最中。
リアが近寄ると、船夫は物乞いの娘をあしらった。
「どうしよう……」
「おい! 邪魔なんだよ!」
「ごめんなさい……」
途方に暮れると、樽を転がす船夫の怒鳴り声。
行き交う人波から外れると、二人の足は川下に向かった。
「おい。女。ちょっと、顔を上げてみろ」
麻布で頭を覆ったリアの元に、一人の船夫が近付いた。
「いくらだ?」
「え?」
リアが瞳を上げると、船夫がライエルに尋ねた。
質問の意味が分からずに、美青年の目が泳ぐ。
「ちょっと! 私は、売り物じゃないわよ!」
「うわわっ! ちぇ。なんだよ……紛らわしいんだよ!」
情婦が足元の砂を握って男に投げつけると、船夫は尻尾を巻いて逃げ出した。
「まったく……」
「女性は、大変ですね」
「いっそのこと、情婦のふりをして、中に入るとか?」
「やめて下さい。守ることができません!」
異国の城内への単独行。
王妃が思い付きを呟くと、ライエルが遮った。
「じゃあ、素直に城門から入るか……」
「そうしてください」
濡れた衣服が冷気を纏う。
凍死が頭を過っては、理想を貫くことはできなかった—―
*リューベチ諸侯会議
1097年。リューベチで開かれたルーシ諸公による会談。
遊牧民への対策、諸侯による領土確認が行われた。
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