【216.火打石】
連水陸路の旅路は、約50キロ。
一行は、のんびりと、馬車に揺られてチェルニゴフ公国の最北の地。ディブリャンスクに向かっていた。(*1)
国境をスモレンスクと接するも、現在の両国の関係は不干渉。
キエフを中心とする秩序に従って、程よい緊張感の中に居た。
「今日は、ここまでだな」
地平線に太陽が隠れるのと比例して、星の数が増してゆく。
御者となった年長者が呟くと、一行は野営の準備を始めた。
「無理を言って、すみません」
リアは足を進めると、松明を右手に持って、荷台に立て掛けられた船底を確認する年長者に感謝した。
「仕事が舞い込んだ。感謝をするのは、こっちの方だ」
「……」
無機質に、男は結んだロープの張りを念入りにチェックした。
松林や白樺が点在する大地は、連水陸路の主要な航路とは異なっている。
安全と実績を求めた小さな王妃は、キエフ大公妃に仲介を依頼したのだ。
「これ、火の近くに置いておきます。あとで、召し上がってください」
「ああ」
手のひら大の麻袋。中には、マルマが拵えた焼き菓子が潜んでいる。
伝えると、王妃は焚火を起こしている息子の元に向かった。
「これ、食べてね」
「……」
一行の中で、光り輝く、唯一の女性。
キエフの招待客ということで、緊張を宿したが、実際はケラケラと笑う小柄な婦人。
従者とも気兼ねなく接しているばかりか、遊牧民にも話しかけてきて、青年は頬を染めて戸惑った。
「暮らしは、どう?」
「どうって……変わらないよ……」
「そっか……」
言いながら、王妃は腰を落とすと、火を起こす様子を覗いた。
鉄と石。ガシッっと音が鳴り響くと、松ぼっくりを薄く削ったほくちが、火の粉を受け止めた。(*2)
「上手だね」
力加減と角度が重要で、リアの腕力では上手くいかないことが多いのだ。
男が藁を近付けると、無事に炎が先端に乗り移った。
締まった空気の中で、藁が赤を纏って炭となり、小枝が炎を受け止める。
パチッと空気を震わせて、増した光源が二人の頬を照らした。
「綺麗だね」
人の営みの、創成期。
太古に想いを馳せながら、小さな身体が満天の星空の下で呟いた。
「……」
遊牧民の息子は顔を上げ、リアの横顔に視線を移した。
やがて小さな白い右手が小枝を摘むと、小さな炎と戯れた。
「綺麗だな」
青年は、本心から呟いた。
服の材質は変わらない。華美な装飾も、一切ない。
しかしながら、遊牧民とは違う清楚な佇まい――
「ね」
同意だと受け止めて、小さな顔は動くことなく炎の明かりを浴びていた――
「おはよぅ……ござまふ」
王妃が荷台の上で瞼を開くと、朝の光とルーベンの声がやってきた。
「重い……」
小さな身体には、全ての毛布が乗っていた。
好意を含む悪戯は、幼馴染の発案だと思われる。悪い気はしなかった。
「また、やってるの?」
肢体に触れぬよう。ルーベンが毛布を取り除く。
擦れた金属音を耳にした王妃が身体を起こすと、ウィルと遊牧民の青年が、ライエルと槍の穂先を交わしていた。
「私が、頼んだのだ。起こさぬようにと、言われたのでな」
「……」
年長者の発言に、王妃は改めて鍛錬を重ねる3人に目を向けた。
ウィルは果敢に挑んでいるが、遊牧民の青年の動きには躊躇が見られた。
「立派な原石でも、目に入らなければ、磨かれることはない」
形や色彩が目に留まる。
路傍の石を拾うにも、理由があって、何かしらの行動が、人の興味を引き寄せる。
親として。後進を育てる商人として。中年の男は呟いた。
馬を西に進めて数時間。
緩やかな起伏を越えると、デスナ川に向かって下ってゆく。
春を迎えたディブリャンスクの浅瀬には、小さな船が連なっている。
レンガ造りの砦が視界に入ると、交易証を示すため、年長者が息子に御者を任せて駆け出した。
「もっと、近付けばいいのに……」
「ダメですよ。気付かれない方が、良いのです」
砦から一番離れた場所で車輪が止まってウィルが吐き出すと、ライエルが理由を口にした。
対象は、麻の毛布を頭から被って、砦に背を向けている。
「せえの!」
土手の傾斜を利用する。
下車をして、麻のロープを外して荷台から船を落とすと、ライエルとルーベンが左右から、リアとウィルが後方からデスナ川へと押し出した。
「わっ! ちょ、ちょっと待ってっ!」
短い草の上。橇のように滑った船は勢いを増した。
「きゃあっ! ぐぇっ」
ロープを握った遊牧民の息子は船に飛び乗るも、王妃は勢い余って前のめりにすっころんだ。
「アレッタ! 大丈夫かっ!」
踏ん張って、身体を翻す。ウィルの足が傾斜を登った。
「あいたた……」
両膝と腕を擦り剥いて、胸から落ちたらしい。
自力で仰向けになった王妃が頭を上にして、続いて上半身を起こした。
右肘付近の擦傷は、赤い鮮血が滲んでいる。
「大丈夫そう?」
「折れては……いないかな……」
ウィルが両膝を青草に落とすと、王妃は肘に付着した枯草を指先で掃った。
「痛っ!」
「水、持ってこようか?」
「大丈夫」
言いながら、王妃は猫のようにぺろぺろと、傷口を舌先で転がした。
じんわりと、錆びた鉄器の味がする。
「こっちもか……」
言いながら、王妃はワンピースの裾を捲り上げると、膝小僧にできた擦り傷も舐め始めた。
「……」
突然に、白い素足が露になって、ウィルは視線を下方に背けた。
水辺では、流された船を助けようと、水夫たちが集まっている。
立ち上がったウィルはリアの足元に移動して、幼馴染に背を向けた。
「ありがとね」
「まったく……アレッタは、無防備すぎるんだよっ!」
「かもね……でも、そんなところが良いんでしょ?」
「……」
腰を落としたウィルの忠告を、王妃はあしらった。
「そうだけど、気を付けろよっ!」
「はいはい」
デスナ川の土手の上。穏やかな風が流れると、スカートの裾が広がった。
「ったく……」
背中の気配を感じながら、青年は顎の先端を、揃った膝頭に預けた—―
出航の用意が整って、リアが真っ先に乗り込んだ。
「良かったら、帰りも、頼ってくれ」
続いてライエルが船に乗り込むと、遊牧民の父親が、短い商談を口にした。
「恐らくは」
毛布に包まった王妃が小さく頷くと、ライエルが答えた。
同年代。土手に並んだ遊牧民の息子とウィルは、顔を見合わせて、またの再会を誓い合った。
「あと、お姫様」
「はい」
「お菓子は、美味かった」
毛布の中から大きな瞳が覗くと、年長者は微笑んだ―—
*1 ディブリャンスク = 現在のロシア領内。デスナ川の右岸(西側)。ブリャンスク。
*2 ほくち = 点火具。火の粉を炎に育てるための材質。乾燥したキノコなども有効。