【215.傍観者】
大地が緑を示す前。
大仰な護衛たちの中心で、キエフに向かう一行は馬車に揺られていた。
「軍勢を率いてるみたいだな!」
広漠な大地を進むほどに数は増していき、今では300くらいか。ウィルが興奮気味に口を開いた。
周囲の雰囲気は穏やかで、それぞれが馬上で談笑しながら西に向かっている。
「ウパ川は渡れない。北へ向かうが、良いか?」
「お願いします」
キエフを最短で目指すなら、渡河をして西へ行く。
カモサが荷台に近付いて、ライエルが頷いた。
ルーシの縄張りは、いくら護衛であろうとも、足を踏み入れない。
徹底した管理もまた、彼らの安全を担っている―—
やがて、オカ川への流入部に辿り着く。
「では、お気を付けて」
「ありがとうございました。帰りにまた、立ち寄ります」
ウィルとカモサが槍術をライエルから習う傍らで、トゥーラの王妃はヴァティチの族長と一時の別れを交わした。
「スモレンスクとチェルニゴフは、大丈夫だと思いますか?」
「スーズダリ大公に唆されても、ロマンは動かなかった。チェルニゴフとキエフ大公は繋がりが強い。キエフに向かう使者を襲うことは、無い筈だ」
「そうですね」
族長の微笑んで、リアは小さく頷いた。
情報収集が、彼らの最も秀でた掌理。
当然ながら、義父を通してトゥーラへと伝わっている。
やがて一行は、北風に助けられながら、小舟でオカ川を遡上した。
「止まれ!」
20メートル弱の川幅を進むこと一時間。
右側の茂みから馬頭が覗くと、船は停滞を余儀なくされた。
「大丈夫です」
襲撃ならば、声を掛けずに撃って来る。
素早く槍を手にしたライエルが、盾を構えたルーベンとウィルを制した。
咄嗟に蹲った王妃の背中を、幼馴染が跨いでいる。
「久しぶりだな」
現れた人物は、膨らんだ上腕筋をひけらかした。
「人が悪いですよ。ブランヒルさん」
聞き覚えのある声。
口を開いたライエルの、目尻が下がった。
「誰?」
「さあ……」
足の位置はそのままで、呆然となったウィルが尋ねると、ルーベンも立ち上がった。
「あ……」
「知ってるの?」
ウィルの股下から、王妃の高い声。
やがて4人を乗せた帆船は、緑が芽吹く川岸で、下馬をした男に近付いた。
「人数は、これだけか?」
「はい」
「お人好しだな。相変わらず」
尋ねると、戻った女の声にブランヒルが呆れた。
「外交の基本は、信じることですから」
ライエルの手を借りて船を下りると、王妃の双眸が男を見上げた。
「危ういな」
「当然。相手は選びますので」
「それは……光栄だな」
瞼を閉じてから、王妃は再び瞳を上にした。
怒りに震えた別れから数か月。停戦協定を結ぶと、大国からの干渉は無くなった。
背景には世情の変化が在るにせよ、平和な時間を享受している―—
「何故、ここに?」
支配地の南端で、見たところ、単独行。ライエルが尋ねた。
「様子を見に来たんだよ。頼まれてな」
「……」
送る文書の宛名は、彼の弟分。
ブランヒルが見据えると、カルーガで受けた告白を思い起こして、リアの頬が紅くなる。
「それは、ありがとうございます」
「ああ。そのうち、会いに行ってやれ」
リアがお礼を述べると、ブランヒルは視線を横にした。
「改めて、お礼を述べたいのですが……帰りは?」
「わからんな。お前らに付き合う義理は無い」
「そうですね……」
「ウパ川を、使うのか?」
「はい」
「話だけは、しといてやるよ」
「ありがとうございます」
「……」
萎れた大きな瞳が見開いて、ブランヒルは看板娘が大人になった姿を思い起こした。
「アレッタ! どうするの? 良い風が吹いてるよ?」
「あ、うん」
「そうだな。早く行け」
「はい」
待ち倦んだウィルが催促をして、やがて4人は船上に戻った。
(惚れるなって言う方が、ありゃあ無理だな)
数分後。土手の上。
流れていく帆船を眺めながら、ブランヒルは弟分の心情を馳せてみた—―
「チェルニゴフ。初めて来たな!」
北風の恩恵を受けながら、オカ川を遡上する。
集落と思わしき建物が現れて、ウィルが身体を前にした。
丸太で築かれた一番高い建築物の屋根には、十字架が掲げられている。
「やはり、キエフに近づくと、空気が違いますね」
「そうか?」
「わ、わかりまふ……」
ライエルが南西を眺めると、ウィルが振り向いて、ルーベンが頷いた。
ヴァティチの牧歌的な雰囲気は薄らいで、整然と整えられた黒い畑や牧柵が目に入る。
「なんか、出てきたぞ?」
「祈りが、終わったのでしょうか……」
「祈りってなんだ? 『雨よ、降ってくれ』 とか願うのか?」
「恵みを祈るのですから、間違ってはいないですね」
教会から出てくる人の羅列を認めると、ウィルの疑問がやってきて、ライエルが答えた。
「なんで、教会でやるんだ? 光だって雨だって、空から来るんだぞ?」
「それは……」
「ウィルは、偉いね」
「ん? 何が?」
「不思議だなって思うこと。それが大事なの。忘れないでね」
「そうか? えへへっ」
唐突に褒められて、ウィルの頬は綻んだ。
「あの……ロイズ様は、神の信奉者ではないのですか?」
「マルマから、何か聞いてるの?」
トゥーラには、築城と並行して建てられた、古びた教会が一つだけ。
前の統治者に深い信仰心は無かったが、それでも記念日には教会に赴いた。
対して今の国王夫妻には、宗教に対する忌諱すら感じるのだ。
「いえ……特には……」
「私もあの人も、ウィルと一緒だからね。水や大地に感謝と祈りを捧げてきたのに、いきなり神様なんて言われても、信じることは難しいわね……」
「そうですか……」
988年。
洗礼を受けたウラジーミルは、キリスト教を広めるために、土着の信仰を破壊した―—
集落を眺める王妃に視線を移しても、リャザンで生まれ、信仰が身近にあったライエルは、不思議な別の世界を思い描くことはできなかった。
「神様がやってきて、ルーシは平和になったの?」
「それは……どうでしょうか……」
「神様に救われた。神様に殺された……いったい、どっちが多いの?」
「……」
大きな双眸が、ライエルに向かった。
「神様がいなければ、殺された人は生きていた。じゃあ、救われた人は、全員死んでたの?」
「それは……」
「違うでしょ? 他の何か。家族。恋人。食事。書物に救われたんじゃないの? だったら、神様ってなんなの?」
「……」
思いを吐き出すと、王妃は背中をへりに預けた。
西で暴れる十字軍。
宗教は、多大な災いを齎している―—
「そろそろ、何か見えませんか?」
「あれ……でふか?」
ルーベンがライエルの声に応えると、松林の向こう側に、ぽつんと白い旗が現れた。
親子だろうか。二人の遊牧民が土手に座っていて、こちらに気付くと、年長者が立ち上がった。
「キエフまで、宜しくお願いします」
「……確かに」
下船したライエルが、キエフとチェルニゴフの紋章の入った、割札替わりの麻布を男に手渡した。
連水陸路を利用して、デスナ川へと向かうのだ。
傍らの松の木々には、4頭の馬が繋がれている。
「人手が足りん。手伝ってくれよ」
年長者が指示すると、麻のロープを結んだ船を全員で土手の上に引っ張り上げて、更には丸太を船尾に括りつけ、舳先を持ち上げて、斜めになった馬車の荷台に船底を預けた。
「ご苦労さん」
「なかなか、きついですね……」
普段使わない筋肉が、悲鳴を上げている。
3人が腰を落とす傍らで、立ったままのライエルが服を脱ぎ、上半身を露にした。
「どうする? 出発するか?」
「お願いします」
年長者が尋ねると、王妃が答えた。
やがて船を引き摺る二頭立ての馬車が先を往き、船主を荷台に乗せた馬車が監視を兼ねて後から続いた。
「そ、そぅぃえば……」
「なに?」
丸い乾パンを皆が持つ中で、ルーベンが口を開くと、リアの顔が向けられた。
「トーラにも、キリット教を学んだ人が、た、たくさんいまふ。気を付けまふように……」
「それ、いつの話をしてんのよ……」
「も、もすわけ、ありません」
「ぷっ。くくっ。いいわ。ありがとう」
思わずリアが吹き出した。
「ルーベンさん、面白いな!」
地平線に接する夕陽の中で、4人の笑い声が沸き起こった――
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