【214.言伝】
白樺の林を左右に眺めながら、キエフに向かう一行は、春を迎えて水量の増したウパ川を、西へと向かっていた。
チラチラと、時おり人馬の姿が目に入る。
風上に向かう船足を、馬に乗ったヴァティチの居住者が、のんびりと見守っているらしい。
その度に、足元の弓を掴むライエルの隣で、ウィルがにこやかに右手を振っていた。
「ねえ。交渉して、オカ川まで運んでもらったら?」
「確かに、その方が早そうですね……」
「できそう?」
「聞いてみる!」
リアの提案を発端に、ウィルが船から川岸にジャンプした。
土手を駆け上がっていく青年の背中を眺めながら、ライエルの両足が川岸に収まると、王妃の手を取って下船を助けた。
「アレッタか? 大きくなったな……それに、綺麗になった……」
頭を覆っていた麻布を剥がすと、赤い髪が風に泳いだ。
土手を上ってリアが近付くと、ヴァティチの中年男性が上から賛美した。
「ありがとうございます……」
「ルシードには、世話になったからな。条件次第で、引き受けよう」
伏し目になったリアが瞳を戻すと、男はにこやかに微笑んだ。
認識は無かったが、恐らくは集落の長である。
「私たちが向かう先は、ご存じですか?」
「キエフだろ?」
「私たちは、招かれました。ここに、大公からの手紙が有ります」
「それで?」
小さな右手が胸元を抑えると、男の口角が上がった。どうやら交渉を愉んでいる。
「見ての通り、貢ぎ物を持っている訳でもありません。路銀もギリギリです。後払いでお願いできますか?」
「仕方がない。それは、飲んでやろう」
「ありがとうございます。それでは、お金で買えるものを一つと、お金では測れないものを一つ。持ち帰ります」
「ほう」
「ご入用のものは、ございますか?」
両手を広げると、最後は上目遣いで尋ねた。
「これといって、思いつかないな。任せるとしよう」
「……わかりました」
指定された方がありがたい。
それでも表情だけは変えないように、王妃は伏し目になって答えた―—
その日の夜は、ヴァティチの集落で過ごすことにした。
円形の髪飾りを付けた女性たちが、酒と食事の用意を始めると、方々で焚火が起こされて、男たちが囲んだ。(*)
ルーシの国家が興る以前から、彼らは大地で生きてきた。
西からやってきたヴァイキングに屈することなく、分散した集落に築いた強固な絆と、地形を生かした戦術によって営みを繋いできたのだ。
聖公が記した『教訓』にも、「二年続けてヴァティチの支配を目論んだが、敵わなかった」 と記されている―—
「余興の相手を、お願いします」
トゥーラの客人は、焚火を囲んでの食事中。
木椀に入ったスープを愉しんでいたライエルに、ヴァティチの若者が話し掛けてきた。
「喜んで」
歳は同じくらい。右手には、槍を持っている。
察した美将軍は、足元の槍を手に取ると、立ち上がって一番大きな篝火の前に向かった。
「お! 始まるぞ!」
「開けろ開けろ!」
「俺は、カモサに10枚!」
「乗った!」
即席の闘技場が現れて、同時に賭場が開かれた。
集計係が湧き出して、木の札を証紙代わりに手渡している。
「どっちが勝つと思う?」
「ライエルに決まってるでしょ」
王妃の護衛たるもの、負けは許されない。
興奮気味にウィルが尋ねると、リアが短く答えた。
「構えて!」
両者の間で立会人が腕を掲げると、空気が張り詰めた。
「行きます!」
ライエルより背丈は低くとも、腕の太さは同じくらい。
頭を低くして、カモサは正面から突っ込んだ。
「はあっ!」
鋭い三連の突きを繰り出すも、見切ったライエルは左に動いた。
すると追い掛けるようにして、槍が昆となって空気を横に切り裂いた。
「くそっ!」
「これは……ありがとうございます」
通常より細い槍。それでも軌道変更には相当な腕力が必要だ。
腕のしなりが独特なのだろうか……
紙一重。後ろに跳ね飛んで躱した美将軍は、初見の武芸に微笑んだ。
「美しいわね……」
しばらくすると、ヴァティチの女たちも、足を止めていた。
力量差は明らかで、ライエルは穂先を下げたまま、小刻みな重心移動を繰り返す。
眼差しは真剣で、礼儀を欠いている訳では無い。
「はあ……はあ……」
カモサの肩が揺れている。仲間の前。無様は晒せない。
なんとか穂先を。せめて、触れるにはどうしたら……
会場の空気は決着の行方に移ったが、裁く決め手を逸した立会人は、焦りに襲われた。
「では」
数歩を後ろに刻んだライエルが、穂先を初めて前にした。
「へ?」
警戒心。
カモサが肘を畳んだ刹那。美将軍は一気に足を運んで、槍を大地に突き刺すと、同時に跳ね上がり、空中で体勢を入れ替えると、カモサの背後に降り立った。
「……」
ヴァティチの若者は、動けなかった。
「勝負あり!」
立会人が右手を掲げると、輪になった観客から歓声が起こった。
賭けに負けた者でさえ、演舞に諸手を上げている。
「ラィエルさんは、槍が似合いまふね」
「すげえ……」
ルーベンが呟くと、リアの隣で、ウィルの瞳は見開いた。
「くそっ!」
「立て。人は敗れた時にこそ、真の姿が見えるのだ」
カモサが腰を落として悔しがる。
届いた声に見上げると、族長の顔が覗いた。
「……」
癇癪は起こさない。それでも自身に対する怒りが残る。
不貞腐れながらも、カモサは自らの足で立ち上がった。
「お見事。手抜きナシ。恐れ入りました」
賞賛に戸惑っているライエルに、カモサを背後に従えた族長が近付いた。
「ありがとう。勉強になりました」
「……」
初見の武芸には驚いた。世間は面白い。
ライエルが右手を差し出すと、下がっていたカモサの右手がゆっくりと上がった。
「息子よ。顔を上げろ」
指先が触れたところで、族長が囁いた。
カモサが視線を上げると、対峙した男は微笑んでいた。
「また、お願いします……」
武芸を追及する姿勢―—
感服を宿すと、ヴァティチの青年は伏し目になって呟いた。
「喜んで」
勝者が成り立つのは、敗者があってこそ。
賞賛と拍手に包まれる。
顔を上げたカモサの頬に赤みが差すと、やがて高揚が訪れた—―
歓迎の宴が続いた翌朝。
ウイルが目覚めると、そこらじゅうに男の体が様々な体勢で横たわっていた。
「起きましたか?」
顔を上げると、馬車の車輪に背中を預けたライエルから声が掛かった。
馬は荷台から外されて、のんびりと草を食んでいる。
「おはようございます」
「おはよう」
瞼は半開き。ウィルが口を開くと、整った顔立ちが微笑んだ。
朝日を浴びる美男子は、彼から見ても絵になった。
「ずっと、起きてたんですか?」
「いやいや。早めに眠ったんですよ」
「……」
そういえば。
宴の主役だったのに、いつの間にか抜け出して、部族の相手はルーベンさんが務めていたような……
吃音を揶揄われるようなことはなかったが、酒を次々に勧められていた。
「アレッタは?」
「中ですよ」
「……」
美男子の瞳が上に動くと、ウィルは護衛としての未熟を悟った。
昨夜のアレッタは、酒の気配から退避して、女性たちの中に居た—―
しかしながら、その後の記憶がない。
一方で、ライエルは護衛の対象を追っていた—―
「でも、よく起きれたね……」
果たして、睡眠は足りているのか?
不思議に思って聞いてみた。
「え? 寝る時に、『起こしてください』 って、リア様に伝えただけですよ?」
「……」
それが、浮かばなかったのだ……
返答に、ウィルの口は開いたまま固まった—―
*円形の髪飾り(ヴィソチノエ・コリツォ)
女性の装飾品。部族を判別するために、模様や様式がそれぞれで異なっている。
また、この時代、男性でも耳飾りを付けていて、文様の複雑さ。材質によって身分の上下を表した。
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