【213.乗馬】
キエフへ向かう一行を見送って、御者となったラッセルは、マルマを荷馬車に乗せてトゥーラへの帰路を辿っていた。
「あーあ。リア様も、ライエルさんもいないのか。つまんないな」
荷台の柵に背中を預けると、マルマが吐き出した。
螺旋階段を上る道中は、今でも高揚を自覚する。
「マルマは、大丈夫そうだけど?」
「は?」
背後からの嘆きを耳にして、ラッセルが不思議そうに口を開いた。
「なんだかんだ言って、アビリさんや、他の仲間も居るしさ」
「まあ、あんたよりマシかもね」
「……」
「リア様が居ないと、愉しみが無いでしょ? 私たちがリャザンに居る間、萎んでたんじゃないの?」
「……」
図星である。
柑橘系の香る国王居住区の扉を開ける事ができるのは、尚書の特権。
螺旋階段を上る際。寝起き姿の王妃を想像するのが日課であり、願望となっていた。
邪な考えは無い。
憧憬の存在。或いは愛玩動物が、無防備な状態で近くにいることが、単に嬉しかったのだ。
「私も、あんたの相手はしてられないからね」
「……」
マルマが呟くと、無言の時間が漂った。
「あ、結婚したからってわけじゃ、ないからね! 夏に向かって、アンジェさんの補佐に忙しくなるんだから!」
懐妊はあくまで兆候で、確定したわけではない。
幾つかの感情を織り交ぜて、マルマは焦りを含んだ弁明をした。
「……そういえば、ライラが、困ってたよ?」
「え?」
「遠乗りに、誘ったんでしょ?」
「あ。ああ……うん……」
突然の話題変換に、ラッセルは戸惑った。
「あの子は、良いと思うよ」
「……」
「誘わないの?」
マルマは背中を押した。
彼の性格からして、社交辞令とは思えない。
「いや……俺なんか……」
「あのね。リア様を対象にしてる時点で、あんたは不遜なの。いい加減にして、他に目を向けたら?」
「……」
「ライラのことは、気になるんでしょ?」
「なんか、頑張ってるな……とは、思ってるよ……」
当初のポンコツぶりは、マルマを追い掛けたラッセルも知るところ。
それが仲介とはいえ、現在はマルマの後任。国王居住区の清掃を任されている。
他の女中との距離が遠い中。ラッセルの目には留まり易かった。
「あんたは知らないかもだけど、あの子を狙ってる男は、多いんだよ?」
「……」
「私と違って、綺麗だしね」
「それは……そうだね……」
「おい! 否定しなさいよ!」
「ちょっと。危ないって!」
マルマは腰を滑らせて近付くと、ラッセルの背中をげしげしと蹴り始めた。
「ご両親にも、『よろしく』 って頼まれてるの。お嬢様だからね。悪い虫が付かないようにしてるのよ」
臀部から翻ったマルマは背中同士を合わせると、得意気に胸を張った。
実際に、ライラを見かけた男から、紹介してくれという誘いは多かった。
ライラの外出時。ほっかむりを薦めたのはマルマで、彼女はそれを忠実に守っている。
「だから、居住区の清掃係なんだね」
「そういうこと」
抜擢の理由が腑に落ちて、尚書は感心を表わすと、同時に寂しさも灯った。
「咲いている花を、眺めていたいのは分かるけどね。でも、誰かに摘まれてしまうなら、自分で摘んだ方が良いんじゃない? 放っといても、枯れるわよ?」
「……」
「ねえ。ちょっと今の。リア様っぽくなかった?」
「あ、うん……ちょっと似てた」
螺旋階段で向き合ったら、話をしよう。
マルマの明るい声が、前向きを誘った—―
三日後。
炊事場の窯の前で椅子に座っていたマルマの下に、しずしずとライラがやってきた。
「ラッセルさんに、遠乗りに誘われたんですけど……」
「ほうなの?」
言えたんだ……
できあがったばかりのお菓子を唇で挟みながら、マルマは瞳を丸くした。
「で、どうするの?」
「どうしましょう……」
「嫌なの?」
「……わかりません」
素直な心情が届いた。
嗾けたのは確かだが、ライラの気持ちは不明である。
罪悪感は灯ったが、それでも嫌悪は無さそうで、マルマは安堵した。
「まあ、行ってみれば良いんじゃないの?」
所詮は他人事。舞台は整えた。
咥えた焼き菓子を右手に戻すと、マルマはこちらの背中も押してみた。
「……」
成功者からの施しか?
ライラの心には靄がかかった。
目標とする先輩は、恋敵でもあったのだ。
眺める対象が、やってきた馬車に乗り込んで、去っていくのを、立って傍観していただけの、情けない恋物語―—
実際のところ、マルマの行動は母性本能によるものではなかろうか。
見下している訳では決してない。贖罪のつもりもない。
尤も、受け取る側次第ではあるのだが……
約束の日。太陽が頂きを示すころ。
緊張を宿したライラが都市城門を抜けると、東へと足を進めた。
「こ、こんにちは……」
「あ。ごめんね。誘っちゃって」
角を曲がると、二頭の馬が城壁の馬留に繋がれている。
声を掛けると、水桶に鼻先を突っ込む栗毛馬を眺めていたラッセルが、細い瞳を上にした。
「いえ……」
尚書という立場にありながら、卑下する相手に長身の女中は恐縮をした。
「乗馬の経験は、ありますか?」
「ありません。移動は、馬車でしたので……」
「わかりました。では、先ずは乗るところからですね」
「あの……別々の馬に、乗るのですか?」
二頭の馬を前にして、ライラが不安を表した。
「そのつもりですけど……一頭に、二人で乗りますか?」
「あ……いえ、お任せします」
二人乗り。身体を密着させることになる。
思い起こして、ライラの頬には紅が生じた。
「乗りやすいように、用意しました」
「あ、ありがとうございます……」
ラッセルが得意気に腕を伸ばすと、食卓に並ぶようなテーブルが、城壁沿いに設置されていた。
場違いな絵面を前にして、ライラの瞳は見開いた。
「この馬は、トゥーラで一番大人しいやつなんで、大丈夫です」
「あ、はい……」
テーブルの手前にも、踏み台が置いてある。
ライラが階段を上るようにして、両足をテーブルの上に乗せると、馬の背中が腰の高さになった。
「よ、よろしくね」
首元に触れてみる。栗毛の硬い毛先が指先を弾くも、馬の耳は萎れたままだった。
ライラはおずおずと左足を伸ばして、鞍代わりに置いてある毛布の上に跨った。
「どうですか?」
「思ったより、固いですね」
馬のじんわりとした体温が、太腿を伝ってやってくる。
大人しい背中に安心を灯すと、ライラは首元に両手を置いてみた。
「手綱です。握っているだけで、大丈夫ですから」
「あ、はい……」
「じゃあ、牽きますね」
告げてから、口輪を手にしたラッセルが一歩を踏み出した。
「どうですか?」
「思ったより、揺れますね……」
「腰を落とすと、痛いかもしれません。膝で挟む意識を持って、動きに合わせて腰を浮かせると、楽になりますよ」
跳ねる椅子に座っているような感覚は、毛布では除けない。
膝立ちするように力を入れると、臀部の衝撃は少しだけ和らいだ。
「あの……」
「はい?」
「あのテーブル。持ってきたんですか?」
風を感じる余裕ができた頃。ライラが眼下のラッセルに尋ねた。
「はい。衛兵にも、揶揄われましたけど……」
「……」
薄い顔がはにかんで、ライラの心には温もりが灯った――
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