【212.西航②】
1171年の春。
オカ川の氷解を認めて交易商人の船舶が行き交い始めると、ライエルが交渉に赴いて、トゥーラの王妃のキエフ行きが決まった。
「良いのですか?」
外遊の効果は計り知れないが、危険も半端ない。
国王執務室。いつもの席に座った二人から伝えられると、薄い顔の尚書がロイズに訊き返した。
「キエフ大公から、招待されたからね……」
「甘すぎませんか?」
「そうは言ってもね……」
諫言は理解する。ロイズは続けて口を開いた。
「結局さ。リアは僕のものだけど、僕だけのものじゃないんだよね……」
「あのね? 私は、モノじゃないからね?」
「そうだね。ごめん……」
「でも……言われて悪い気はしないのよね……なんでだろ?」
「そんなの……私が言ったら、怒りますよね?」
「当たり前でしょ」
尚書の踏み込んだ発言に、王妃の鋭い視線が向けられた――
数日後。都市城門を抜けたところ。
「絶対に、リア様から離れちゃダメだからね!」
歩む小さな背中を前にして、マルマが旦那を叱咤した。
「勿論です」
青い瞳は前を向いたまま。ライエルが短く応えた。
責められることは無かったが、王妃をさらわれた、リャザンでの失態が消えることは無い。(*1)
胸に燻ぶった自責を晴らすには、次の任務を果たすしかないのだ。
「マルマも、行くと思ってたよ」
側仕えと護衛役。リャザンと同じ構成は、自然な流れ。
夫妻の背後から、細身の尚書が口を開いた。
「行きたかったけどね。リャザンとは違うから……」
納得済みのこと。
未訪の地。夫の緊張は、想像を絶するに違いない。
「それに、どうせ行けなかったから……」
言いながら、マルマは腹部に両手をあてがった。
「……」
ライエルの頬は赤く染まったが、死角となったラッセルが気付くことは無かった――
晴天の下。都市城門から西に15キロ。
水際の枯れた葦たちが、馬車に移った一行を出迎えた。
雪解けの水を湛えるウパ川は、母なるヴォルガ川へと緩やかに下っている。
「お気ぉ……つけて」
御者から水夫となったルーベンが、右手を差し出した。
先ずは王妃が小舟に乗り込むと、船の中心で腰を下ろした。
「頼んだわよ!」
「うん」
荷物を積み込んで、マルマの双眸が夫を見上げると、短い声が戻った。
「……」
二人を眺めるラッセルは、築かれた絆を受け容れた。
この場に国王が居ないのは、更なる信頼の証なのだろう。
王妃は膝を抱えた状態で、積み荷と一緒に固まっている。
「では、お願いします」
「はい」
ライエルが腰を下ろすと、杭に繋がれたロープが外された。
ウパ川からオカ川に。連水陸路を利用して、デスナ川からドニエプル川を南下する行程は、およそ半月の予定である。
マルマとラッセルが見送る先で、小さな積み荷は小さく右手を振っていた。
優雅な帆船の旅路。……なんてことはない。
松の木で作った簡易な舟。緩やかな流れでも、障害物は命取り。
上半身を晒したライエルが右舷を受け持って、ルーベンとリアが左舷で櫂を動かした。
加えて陸上移動ほどではないにしろ、襲撃には要警戒。
3人の足下には、弓矢と盾が並んでいる。
「アレッタ!」
一時間ほど経った頃。右岸から若い男の声がした。
久しぶりに幼名を耳にして、振り返ったリアの表情が綻んだ。
「あの方は?」
「カルーガに住んでる、幼馴染。良い経験になると思って、誘ってみたの」
「そりは……助かぃます」
見るからに武芸を嗜んでいる。
予想外の助っ人に、二人の水夫は喜んだ。
「『アレッタを守れ』 って、言われた!」
リアが間に入ってお互いの紹介を済ますと、ウィルが嬉しそうに任務を伝えた。
「それだけじゃないからねっ! 船だって、漕いでもらうからね!」
「うん! 任せといて! いっぱい練習したんだよっ!」
「そうなの?」
「うん!」
「……」
自身に満ちた表情は、鍛錬の密度を物語る。リアは養父に感謝した――
青年を加えると、北風に乗って南下する。
のんびりとした道中で、3人の男は互いの生い立ちを語り合い、親睦を深めた。
王妃は短い釣竿を両手で握って、背後での語らいを、船の艫に座って聞いていた。(*2)
「操船は、どこで覚えたのですか?」
「リャ、リャザンでふ。オカがわで、魚ぉ捕りながら……あと、商人さんに」
「商人に? 珍しいですね……」
弓の扱いのみならず、船の扱いにも長けている。
ライエルが尋ねると、ルーベンはゆったりとした語り口で、恥ずかしそうに吐き出した。
「しゃ、しゃべるのが、に、苦手で……ひ、一人で川に出るのは、す、好きだったんれす」
「……」
吃音は、蔑みの対象。
ならばと彼は、孤独の道を究めた。
決して単純な話ではない。
周囲の理解と支援。本人の勇気が要ったことだろう。
マルマと出会う前。
父を亡くして求道者のような精神を培ったライエルは、静かに頷いた。
「キぇフの任務も……グレンさんが、勧めてくれますた……」
「……」
数年前。スモレンスクとの防衛戦。
上司はラッセルの指揮権を剥がすと、数人の候補者からルーベンを選んだ。
吃音の指揮官は、士気の低下を齎して、伝達にも支障が出るに違いない。
「言いたいことは分かる。だがな、人材は、使ってこそ育つんだよ」
ライエルが人選の経緯を尋ねると、上司は愚直な能力を買ったと答えた。
当時は訝かったが、結果として彼の評価を押し上げて、自信となり、軍の陣容は厚みを増した――
果たして自身には、成せた選択だったのか?
武芸に於いては肩を並べるも、劣ることが多すぎる――
ライエルは、現在地を自覚した。
ウパ川は、南からの支流を加えると、西に向かって流れゆく。
予定以上の行程に安堵して、3人は支流の手前で夜を迎えることにした。
「あいたた……」
「もうちょっと、休んでも良かったな!」
「明日からは、風上に向かいます。思ったようには、進まないかもしれません」
「の、のんびりと、い、行きましょう……」
数時間も揺れていた。
リアが膝を伸ばすと、痛みが走った。
船上での移動はままならず、全員の関節が固まっていた。
「ウィル。背中を貸して」
「え?」
リアが歩み寄る。お互いの背中を合わせると、肘を交差する。
柔らかな肌。思わぬ行動に、青年の心は戸惑った。
「いくよ!」
「あー、伸びるー。気持ち良い!」
ウィルが前屈みになってリアを背負うと、開放感が溢れ出た。
「えと……王妃様? 見えそうですので……」
「え? ちょ。ちょっとウィルっ! 戻してっ!」
「え? なんで?」
「なんでもっ!」
ワンピースの裾が広がった。
船を引き上げたライエルが土手の途中で視線を逸らすと、リアの悲鳴が草木を揺らした――
やがて網籠を持ったリアが小枝を拾うために土手を上ると、二本の鎌を持ったライエルが、一方をウィルに手渡した。
延焼を防ぐため、枯草を根元から刈ったのち、火を起こすのだ。
ルーベンは土手の上。
王妃様を見守りながら、周辺の監視に当たっている。
「ウィル君が来てくれて、助かりましたよ。リア様を、守り切れません」
当初から、人数不足を懸念した。
火種や松明。煙が昇るだけでも、人の注意を引いてしまう。
「アレッタは、たぶん大丈夫だと思ってるよ?」
「え?」
「ルシードさんが、話を通してると思うから」
「……」
危機感のない発言に驚くと、ライエルは続いた名前を思い起こした。
ヴァティチの森の、統率者―—
「その……ルシードさんと言うのは?」
「うん? アレッタとロイズの親父だよ。血は繋がってないけどね」
「……」
「あれ? 言っちゃ、マズかったかな……」
「そうですね。ここだけの話にしましょう。情報は、危険を招きます。あまり、王妃様のことは話さないようにして下さい。ヴァティチを抜けたら、スモレンスクです」
「うん……」
ウィルは苦言を受け入れた――
「もう一匹、欲しかったね」
「十分ですよ」
夕食時。焼き上がりを眺める王妃が残念な思いを吐き出すと、ライエルが慰めた。
リアの釣果は3匹で、人数には届かなかったのだ。
「その……竿先を、少し動かスて、エサが踊ってるよぅに、見せると……良いかもでふ」
「……あのね。もっと、早く言ってくれる?」
「も、もすわけ、あ、ありまへん……」
「確かに。遅すぎるよっ!」
ウィルが笑顔で揶揄った。
物怖じしない最年少。発言には、嫌味を感じない。
「ロイズは上手だったけど、アレッタは下手くそだったもんなっ!」
「下手なんじゃなくて、追い込み漁の方が好きだったの!」
「まあ、そういうことにしといてやるよ」
手のひらを上にして、ウィルは鼻で笑った。
「あんたね。そういうこと言うと、バラスわよ?」
「な、何をだよっ!」
「あんたが、好きだった人」
「な……お、お前っ! 絶対言うなよ! 絶対だかんな!」
形勢逆転。
立ち上がった青年は、頬を赤くして罵った―—
*1 第169話「強奪」参照
*2 艫 =船の後方部。船尾。
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