【211.西航①】
ギャン泣きが続く国王執務室に背を向けて、王妃と女中の二人は螺旋階段を下った。
「大丈夫ですか?」
「泣いてるうちは、大丈夫でしょ。ライラ。泣き止んだら、上がって行って」
マルマが尋ねると、王妃が平たく言い放った。
「は、はい……でも、なんて言えば?」
「……」
自分で考えろ―—
頭に浮かんだが、思い止まった。
「あの子は一人だから。傍に居た方が良いかな。マルマなら、分かるでしょ?」
「はい……」
全部は伝えない。
王妃はあとを託すと、地階の国王執務室に退避した。
「ライラ。今の状況で、一番大事なことは、なんだと思う?」
階下に向かった王妃の足音が途絶えると、マルマが後輩を見上げた。
「え? なんて声を掛けるか……ですか?」
「違うでしょ。アレッタちゃんの安全」
「……」
言いながら、マルマは反転して階段を上った。
扉の前で膝を屈すると、聞き耳を立てて中の様子を窺った。
「暫くは、待ちますか」
溜息を吐き出すと、マルマは螺旋階段の最上部に腰を下ろした。
両者の泣き声は、次第に萎れた。
幼児の泣き声が先に収まって、少女のすすり泣きが残ったのを認めると、立ち上がったマルマが扉を開いた。
「泣き止んだ?」
膝を曲げたエフェミアが、石床に打ち伏している。
網かごから這い出して、アレッタがエフェミアの亜麻色の髪を掴もうとしていた。
「まあ、誰もが通る道だよね」
ライラが入って扉を閉めると、マルマが先輩風を吹かせた。
「『出来ないことが分かった』 『知らないことを知った』 それだけでも、成長なんだよ?」
「……」
膝を屈すると、亜麻色の後頭部に語ってから、振り返って視線を上にした。
「ライラなら、分かるでしょ?」
「……はい」
瞳を合わせると、ポンコツだった女中が頷いた。
「リア様が言ってたよ。『川に飛び込んで、初めて泳げないって知るんだから』 ってね」
「なんですかそれ……そんなふうに……知りたくない……」
マルマが視線を戻すと、伏したままのエフェミアが、馬鹿な王妃に楯突いた—―
地階の国王執務室。リアが扉を閉めると、簡易なベッドに腰を下ろした。
「春になったら、キエフに行こうかな」
「……」
大きな瞳は机に向かうロイズを捉えたが、返答は戻ってこなかった。
キエフ大公からの招待状。
無下にしないとするならば、何らかの返信は必要である。
「どう思う?」
承認が出るとは思わない。
それでも王妃は可能性に賭けてみた。
「まあ、ダメとは言わないよ?」
「え?」
予想外の返答に、細い首が伸び上がる。
「安心できるだけの材料が、欲しいけどね」
リアの方に身体を向けると、ロイズはため息交じりに口を開いた。
「……わかった。考える」
「はい」
真剣となった双眸が見つめると、ロイズは小さく頷いた――
3階の国王執務室。
涙を止めたエフェミアは、二人の先輩女中と共に清掃作業を行っていた。
「リャザンでは、持ち場ってものが、あったもんね」
「はい……」
冷たい石床を3人で拭き掃除。
マルマが会話を求めると、エフェミアが腕を動かしながら答えた。
「リア様も言ってたけど、トゥーラは、みんなが何でもやるの。代わりが何人もいるリャザンとは、違うんだよ」
「……」
所作や行動には、理由がある―—
「思ったんだけどさ……」
「はい」
「リャザンで、孤立したんじゃないの?」
「……」
尊敬する王妃に倣ったのか、無遠慮にマルマが尋ねた。
「今でもそうだけど、女中なのか、公女なのか、ハッキリしなさいよ?」
「でも……」
「でもじゃないの! 私たちが困るの! 『扱い辛い』 って、思われちゃうよ? トゥーラでも、同じことやるの?」
「……」
居場所を変えても、自らが同じでは、道は細いまま。
社会の当然の理を、マルマが語った。
「どっちかの派閥に入れば良かったのよ。身分の高い低いに拘わらず、公女として振舞って、高慢だったんじゃないの?」
「……」
「良い機会だから、リア様を見習ったら?」
普段から、勢威は見当たらない。
「嫌ですよ……」
「なんで?」
「だって、エフロシニア様みたいになりたいんだもん……」
「そりゃ、両極端かもね……」
高貴でありながら、柔らかな佇まい。
リャザン公妃が頭に浮かんでは、マルマも納得せざるを得なかった―—
翌日。マルマはアビリとエフェミアに声を掛けると、小枝拾いに出かけた。
「……」
少女の心が晴れた訳ではなかったが、前日の出来事を認めては、重ねて醜態を晒すことは止まった。
「あの子、どうしたの?」
「実は……」
並ぶ二人の後ろから、網籠を背負った少女が一定の距離を保ってついてくる。
視線は下がって、足取りは明らかに重かった。
「良かったじゃん」
「……」
事情を耳にして、足を止めた黒髪のポニーテールが翻ると、少女の瞳が思わず上がった。
「他の人は知らないんだよ? 今日からよろしくね。新人さん!」
「……」
胸元に手が伸びる。
マルマの先輩に促され、エフェミアはおずおずと右手を差し出した。
「大体ね。あなたみたいな新人さんは、大歓迎なんだから!」
「……」
握手を交わすと、アビリは少女の隣で足を並べた。
「ライラなんて、二十歳で入ってきて、全く動かなかったんだからね?」
「全く?」
エフェミアの瞳が思わず上を向く。
労働奉仕は7歳から。当時の時代背景からは、ありえない。
「最初に桶の掃除を頼んだの。使ったあとの桶が10個くらいあって、『これ、外で洗うから、運んどいてね』 って言ったら、5分くらい動かないの。『何してるの?』 って聞いたら、『全部ですか?』 って。流石に呆れたわ」
「……」
数年前。リアとロイズが城主として赴任する直前のこと。
「言われた仕事はやるんだけどね。でも、言わなきゃ何もしない。今でもそうだけど、いちいち言われなきゃ、仕事が無いって、思ってんじゃない?」
「確かにそういうとこ、ありますね……」
「だから、あんたに任せたんだよね」
「それは……なんとなく、分かってました」
アビリの告白に、後輩は苦笑いを浮かべた。
「いちおう言い訳しとくけど、戦いの準備で、構ってられなかったのよ」
「それも、わかってました」
当時から先輩は、視野が広かった。
一人に忙殺されるのは、組織の遅滞を招くと見越したのだ。
「というわけで、あなたには、期待してるからね!」
「は、はい……」
アビリに上から見下ろされ、少女の頬が赤に染まった。
石橋でアビリと別れると、小枝の詰まった編み籠を背負ったマルマが城門を潜って、エフェミアが続いた。
小枝の仕分け作業。
食堂の石床に網かごを置いたところで、廊下から王妃が現れた。
「マルマ。決定じゃないけど、旦那様を借りるからね」
「はい?」
突然の宣言に、茶色の瞳が大きくなった。
「今度は、どこへ?」
「大公に呼ばれたから、キエフに行ってくる」
「……リア様だけですか?」
「相談中。スモレンスクを通ることになるからね」
「……」
ドニエプル川。水路での移動。必ず立ち寄ることになる――
「わかりました……」
西航の人員には、含まれない。
戸惑いと寂寥感を隠さずに、王妃の側仕えは同意した。
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