【205.ムーロムの少女②】
母が亡くなって4年後。9歳になったエフェミアは、初めて客人をもてなした。
相手はヴァティチの田舎者。属国の后様。
ルーシの血統は含まれず、単なる政治的な配慮との事だった。
それでも肩書は憧れのリャザン公妃と同列で、少女の興味は強くなる。
義父に頼んだエフェミアは、来訪したばかりのトゥーラの一行と会ったのだ。
初対面の印象は、野暮ったい。
麻の衣服は庶民のもので、持参した毛布は何度もの直しが窺えた。
ふふんと鼻が鳴る。しかしながら、あからさまに見下してみたものの、経験と教養の差が露見して、おまけに女中だと思っていた人物が王妃と知って、立場はあっさり逆転したのだ。
それからは、まるで三姉妹のような感覚に陥って、楽しい日々を送った。
要因は、トゥーラからの客人が、王妃と女中でありながら、主従の関係とは思えなかったのだ。
自然と末妹の立場に収まった―—
一年後。誕生した赤子と共に客人が居なくなって、寂しさが募った。
姉たちと触れ合うことで浄化していた学び舎の滞在時間は、再び辛いだけのものとなり、苛立ちは時にクラスメイトや女中として入った年下の後輩に向けられた。
「私、間違ってないもん!」
夕食時。女中頭から相談を受けたデディレツが尋ねると、エフェミアは口を尖らせた。
「お前は、5歳から城に居るんだ。他の子が未熟でも、仕方がないだろう?」
「そんなの関係ないもん! お皿の一枚も洗えないって、あり得ない!」
「それを教えるのが、先に入ったお前の役目だろ……」
「教えてるもん!」
「いや、言い方ってのがあってな……」
相手は見習いも含めた市井の子。既に経験を積んでいた7歳当時のエフェミアの力量と比べては、難儀だろう。
泡のような顎髭を拵えた上級士官は、溶けない養女の不満に溜息を吐き出した――
翌日。エフェミアは女中頭の呼び出しを受けると、妊婦となった侍女の側仕えを命じられた。
「あなたも、ウラジーミル様の子供だもんね……」
「はい。そうなりますね……」
一方はムーロム公。一方は、キエフ大公の継承権を持つ男。
しかしながら、生まれてくる子供はエフェミアと同じ庶子である。
城から離れた小さな住まい。ベッドで横になる細腰の侍女から同情が届くと、傍らの椅子に座った少女は素直にそれを受け容れた—―
それから数か月。小さな命の誕生に、手を握って励まし続けたエフェミアは、母親以上に破顔となった。
同じ境遇の男の子。
きっと霧中を彷徨うに違いない。
やわらかい掌が小指を掴んで、少女は落涙の中で姉になろうと誓った―—
「行ってきます」
翌朝を迎えると、学び舎に向かう少女の足取りは再び前向きとなっていた。
周りの態度は決して変わらない。
しかしながら、「バカの相手はしないに限る」
心に灯すと、身体に取り付いた重石が幾らか剝げ落ちた気がした—―
1171年を迎えると、グレヴィ王子と太った軍師が北西に赴く事になり、リャザンの領内は慌ただしくなった。
それでも二人の庶子の周りは穏やかで、エフェミアはマルティーと名付けられた男の子の元へ足繫く通った。
「エフェミアさん」
「……はい?」
ブルガールから兵が戻って数日後。
学び舎に向かう道中で、少女は黒い帽子を被った牧師から随分と丁寧な声をかけられた。
「今日からは、お好きな席を選んで、構いませんので……」
「はい?」
続いた発言に、エフェミアは強烈な違和感を灯した――
勤勉意欲の高い頃。彼女は教会の前方に陣取っていた。
庶子であり女中であろうとも、上級士官の養女である。
ところがある日。牧師に指摘され、最後列に座るよう命じられたのだ。
「ねえ。神様の前では、みんなが平等じゃないの?」
「ん? そうだな……席や序列に優劣はあろうとも、参加する者は、等しく神の声を聞いている。これは、平等ではない。お前は、思うのか?」
夕食の席で不満を吐き出すと、泡のような顎髭を拵えた養父が助言を送った。
「だって、好きな席に座る権利は、等しく与えられているんだよ? 強制するなんて、おかしいでしょ?」
「そうだな……例えば聖書の朗読で、牧師になりたい。或いは、川沿いの家から時間を掛けてやってくる。そういう者たちが、いつも後ろの席で聴いている。それは、正しい状態だと思うのか?」
「……」
「性格もある。劣る者が席を譲ってばかりの状態は、平等だと言えるのか?」
「それって、私が優しくないってこと?」
「そうではない。だが、思い当たることがあるのなら、改めた方が良いかもな」
「……」
表情を汲み取ったデディレツは、諭すように言葉を結んだ――
「好きな席? 何故ですか?」
突然に前言が翻って、エフェミアは牧師に尋ねた。
「あなた様の身分が、変わったのです」
「……」
黒い帽子を胸に当て、牧師は腰から曲がって理由を告げた。
「エフェミアさん! あなたって、本当に幸運ね!」
「え?」
牧師が離れると、遠巻きだった女生徒が、二人の友人を引き連れて話し掛けてきた。
「あなたのお父様かもしれないジミルヴィチ様が、キエフ大公になられたのよ!」
「ウラジーミル! お父様の名前よね!?」
「え? え?」
事態が呑み込めない。
父はムーロム公。
ウラジーミル・スヴァトスラヴィチ。10年前に亡くなっている……筈である。
「噂になってるわよ? あなたが姉で、マルティー様が弟!」
「……」
「だってあなた、キエフ大公様をお迎えしたのでしょう?」
「え? うん……した? かな?」
一度だけ、女中頭とマルティーの母。二人と並んで男の前に立った記憶が覗いた。
「ほらやっぱり! 普通は10歳の下女なんて、お相手させないもの!」
「……」
どうやら概要が見えてきた。
リャザンに滞在していた男がキエフ大公になったらしい。
ウラジーミル。
聖公や名君モノマフの名は特別で、キエフ大公の娘ではないかと脚光を浴びている―― という訳だ。
それにしても……公言していたムーロム公の娘という言説は、どこへ行ったのか?
「私が、あなたを『マルティーのお姉さん』 って呼んでるから?」
答えは意外なところから。
リャザン城の地階に移ったマルティーの母親が、暖炉前の椅子に座って変化の根源を語った。
「私が……お姉ちゃん?」
「うん。今の立場は、そうでしょう?」
「確かに、そうですけど……」
「あなたのためにも、キエフ大公の娘という肩書は、悪くないと思うけど?」
「……」
生まれたばかりのマルティーは可愛くて、確かに姉という心持ち。
しかしながら大公の娘として振舞えば、父の存在が希薄になるようで、返答は濁った。
それから一週間経っても、変化は無かった。
そればかりか女中として働く時間さえ、気遣われるようになったのだ。
「今日は、学校、行かないの?」
「うん……」
「なんで?」
「みんなが仲良くしてくれるから」
「……」
ベッドの上。マルティーを膝に置いた母親の眉尻が、思わず下がった。
「だってそうでしょ? 祈りの順番も、施しも、私を先に行かせるの! なんで?」
「それは、序列っていうものがあってね……」
「何それ! 私は、何も変わってないもん!」
戻った回答に、エフェミアは瞳を向けて抗った。
「私は、今の方が幸せだけどな」
「……」
「この子を、暖炉のある部屋で、お医者様の居る場所で、育てられるのよ? それを受けるのが、悪いとは思わないわ」
新米の女中から、世子の母へと成り上がった10代の女は、瞳を下にして、しみじみと感謝を口にした。
「大公様の子?」
「そうよ……」
うっすらと瞳を開いたマルティーは、母の乳房を求めた。
言い知れない不安を抱えたエフェミアは、静かに部屋を後にした—―
夜になってベッドに入ったエフェミアは、一人の女性を思い浮かべた。
『リャザンに居場所が無かったら、いつでもいらっしゃい』
別れ際。声を掛けられた。
あの人は、難しい立場を理解していたのだ。向かうなら、甘える形になってしまう。
それでも、頼りたいと思った—―
「トゥーラに?」
「はい」
朝を迎えると、リャザン公妃の元に向かった。
「何故? 理由を聞かせて頂戴」
暖炉の前。椅子に座った姿にも、気品が立ち昇る。
エフロシニアは覚悟を問うように、少女の発言を求めた。
「怖いのです」
「怖い?」
「私は5歳から、女中として働いて、嫌なこともあったけど、楽しいこともありました」
「……」
「今更、キエフ大公の娘として、生きることはできないです」
背筋を伸ばして、少女は灯った感情を、真っ直ぐに伝えた。
「そうね……あなたは、賢いわね。だけど、不器用なのね。あの子もマルティーも、残念に思うでしょうね……」
「……」
「私もだけど……」
「え?」
思わぬ発言に、エフェミアの瞳が開いた。
「ムーロム公の娘だから、あなたを近くに置いた訳では無いのよ? あなたの姿勢を買ったの。だから、残念」
「あ、ありがとうございます……」
「良いわ。手紙を書いてあげる。一回り大きくなって、戻ってらっしゃい」
「……はい」
憧れの女性から評価され、頬の染まったエフェミアは、亜麻色の髪を垂れ下げた。