【204.ムーロムの少女①】
ジミルヴィチが大公となって半月後。リアの元にキエフから手紙が届いた。
「誰から?」
「キエフ大公妃から」
「なんて?」
「約束通り、遊びに来いって……」
トゥーラ城の最上階。
暖炉に浸りながら手紙を開いたリアの正面で、いつものテーブルを挟んでロイズが尋ねると、およそ14か月前のやり取りが再び繰り返された。
「行くの?」
「どうしようかな……正直、行きたくないな……」
「なんで?」
想定外の返答に、夫は重ねて尋ねた。
「帰ってこれない可能性がね……」
「……」
それは許せない。
即答したいところだが、相手はキエフ大公で、ロイズは明言できなかった。
「また、春になったら考えるわ」
「……」
周囲の諸侯であれば小躍りするような内容を、小国の王妃は涼しい顔であしらった。
西から手紙が届いた翌日。東の宗主国から手紙が届いた。
「誰から?」
「リャザン公妃から」
「……」
尊大な態度とは言わないが、相手は圧倒的に地位が上。
友達感覚で語っているが、それで良いのか?
ロイズは伴侶の魅力と理解しながらも、何かを損なうこともあるのでは? と危惧をした。
「そうは言ってもね……総ての人から好かれるなんて、無理でしょ? だったら気にして長所を削ぐなんて、マイナスにしかならないわよ」
ある日の会話。
ロイズは当時を思い起こして、重ねて発言することは控えた。
「で、なんて?」
「ちょっと身分の高い人が、トゥーラに来るみたい」
「え? 身分が上? 誰?」
「うーん……今は、内緒にしとこうかな」
「……」
リアの口角が僅かに上がった。
隠しごと? 答えを濁されて、ロイズの眉尻が沈下した―—
「エフェミア……ほんとに行くのか?」
「行く! こんなとこ、居られない! 暫く、実家に帰らせていただきます!」
「いや、お前の実家は、ここだろう……」
「じゃあ、私の弟子たちが、しっかりやってるか、見てきます!」
「お前、弟子ってなあ……」
オカ川を見下ろすレンガ造りの都市城壁。
城に近い住居で10歳になる女の子が金切り声を吐き出すと、泡のような顎髭を育てる40代半ばの上級士官は呆れ果てた。
「一体、何があったんだ?」
「なんにもない!」
「いやいや、そんな筈が無いだろう?」
「私には、何にもないの! 私は、何も変わっていないの!」
「……」
怒りの原因が分からずに、デディレツは戸惑うばかりであった—―
リャザンで育む、学びの場。
ムーロム公の血筋を自覚しながらも、5歳から下女として働いていたエフェミアは、7歳になって新たな教養を求めた。
識字率を上げるため、リャザン公妃は身分の格差に拘らず、意欲のある者には門戸を開いた。
講義の内容は、聖書の音読。キリル文字の取得。司祭や牧師との語らい。
季節に1回ほど、リャザン公妃が視察に訪れる事があり、この時ばかりは歓呼の声が沸き上がる。
中でもエフェミアは、彼女を崇拝していた。
気品に満ちた佇まい。知識と教養。普段は優しい笑顔でありながら、間違いを指摘する厳しさも併せ持っている。
女中として仕える喜びと、公女としての目標。
彼女の講義では、美声を最前列で拝聴し、うわの空で眺めては注意を受けることもしばしばであった—―
講義は同年代が集う形で行われ、当然ながら身分に準じた序列が築かれる。
異端に対する排除思想。
公女の気概を持ちながら、下女として働くエファミアは、同年代にとっては理解不能。蔑みの対象となっていた。
「おい! お前の親父って、ほんとにムーロム公なのか?」
「そんなわけねえよな!」
「……ほんとだもん」
「だってこいつ、真冬に薪を運んでるんだぜ? おかしいだろ!」
「そうだよな! そんなに身分が高かったら、仕えるわけ無いよな!」
「こいつの手、ボロボロなんだぜ?」
「……」
同年代の少年が、机に座るエフェミアを囲んで三人がかりで責め立てる。
なんで?
働くことは、尊いこと。
それなのに、働いたら負けという風潮は、どうにも我慢が出来なかった――
母が亡くなった冬の夜。
齢5歳のエフェミアは、暖炉の前に置かれた椅子に座って、チリチリと揺れる赤い炎に視線を向けていた。
すると、たまに見かける男の人がやってきて、暖炉の火を整えると、傍らに置いてあった薪の束を一つ抱えた。
「おっと」
薪が抜け落ちて、高い音を発すると、エフェミアの足元に転がった。
重たい空気の中で口を噤んでいた女の子は、スッと椅子から降りると薪を拾った。
「持ってきてくれるかい?」
薪を掴んだ右手を差し出すと、見上げた先で、泡のような顎髭を拵えた男の目尻が下がった。
「あら、デディレツ様。ありがとうございます」
「これは、エフロシニア様……」
食堂に入ると、真っ直ぐな立ち姿。気品の漂う女性から声がかかった。
「そちらは?」
「あの方の……一人娘です。薪を落としてしまったら、拾ってくれて」
「そうですか……」
二人の視線が注がれて、エフェミアは固まった。
憐れみと、困惑と……
未来に対する漠然とした不安が、小さな身体を襲った。
「こっちに、いらっしゃい」
膝を曲げた女性が手のひらを広げると、エファミアは薪を落として駆け寄った。
「この子は、私たちで支えましょうか……」
「はい」
高貴な香りが鼻腔に触れて、母の面影を見出した。
咽び泣く少女を胸にして、エフロシニアは孤独を拭うことにした―—
「……」
散々泣いた少女が目を覚ます。見慣れない部屋に戸惑うも、彼女はベッドを整えてから部屋を出た。
「あら、起きたの?」
洗濯物を胸に抱えた女性が廊下で少女を見掛けると、足を留めた。
「あなた、水仕事はできる?」
「……」
公女でありながら、母は女中として働いていた。
働くことは、生きる事。
問い掛けに、未来を想ったエフェミアはこくりと頷いた。
彼女の生存本能が、否定することを拒絶した――
「エリーナの子? 可愛い!」
「そうそう。上手上手!」
職場の先輩は好意的で、家事や雑用を受け持った。
その日一日褒められて、得意気になった少女は随分と救われた。
「あ、デディレツ様」
午後になり、泡のような顎髭を蓄えた男が現れると、職場の空気が締まった。
「エリーナの子は、来ているか?」
「あ、はい……」
「連れて行って、良いか?」
「あの……デディレツ様の、元に?」
「ああ。そうしようかと思っている。この子は、ムーロムの公女で、リャザンの子だ」
「……畏まりました」
最初から、政治戦略の1ピース――
誰かの養女にと考えるも、女中頭は上級士官の思惑を受け入れた。
「だいたいお前、生意気なんだよ!」
「何かあると、城に逃げ込みやがって!」
学び舎からの帰り道。
年上の男児が幼稚な放言を吐き出すと、足の止まったエフェミアが大きな瞳を預けた。
「あのね? 私は仕事をしているの。リャザンのために」
「そ、それがどうした? 俺だってな! 兵士になるんだよ!」
「……ふーん。それは大そう立派ね。私は『今』 の話をしているんだけど?」
「う……」
「それで、兵士になるの? デディレツ様に、伝えといてあげる。『将来、ステキな3人が入ります。きっと立派な兵士になるでしょうから、シゴいてください』 ってね」
「お前! そーいうのが嫌いなんだよ!」
「痛い!」
男児の一人がエフェミアを突き飛ばした。
尻もちをついた少女が顔を顰めると、少年たちも怯んだ。
「おい! 何をやってるんだ!」
すると町の牧師が飛んできて、間に入った。
「だって、こいつが……」
「下女など相手にするな! お前たちは、リャザンの名士になるのだろ!」
「う……」
「……はい」
「わかりました……」
講師でもある大人の一喝に、少年たちは矛を収めるしかなかった。
三人が立ち去るのを認めると、黒い帽子を被った牧師は、地面に両手を付けたままの少女に目を向けた。
「お前も、意地を張るのはやめろ! デディレツ様を、困らせる事になるのだぞ!」
「……」
公女の身分を放棄しろ—―
しかしながら、他人から言われたくらいで、受け入れるわけにはいかなかった――
お読みいただきありがとうございました。
感想等、ぜひお寄せください(o*。_。)o