【203.市井の声】
ミハルコが、ドロゴプージを訪ねて数日後。
キエフからの使者として、ヴィシェゴロドを治めるダヴィドが改めてジミルヴィチの下に赴いた。
「謹んで、お受けする」
このときは夫妻揃って正装で身構えて、丁重に使者をもてなした。
二人の兄を羨望の眼差しで見つめた青年期。
偉大なる祖父の名を冠した彼は、ついに大公だった父と後妻だった母の願いを叶えたのだ—―
1171年2月5日。
ジミルヴィチは軍馬を従えずにキエフに足を踏み入れた。
形ばかりの歓迎が行われ、ハンガリーから嫁いだ女性は上機嫌。
金門の前。馬車から降りた夫妻はしばらく足を止めると、やがて自らの足で門を潜った。
しかしながら、多くの市民は怪訝であった。
当然である。
何度もキエフを狙った謀反人。習わしに従わず、約束を反故にして、ルーシの混乱を幾度も招いたのだ。
キエフの守護者は、どうしてアイツを推したのか……
意図するところは分からずに、血統による習わしであると説かれては、燻ぶった不満が消化されることはなかった。
「序列より、能力でしょ……」
キエフの人事を耳にして、トゥーラの王妃が上から目線で呟いた。
「リャザンでは、一緒だったんですよね? そんなに酷いのですか?」
スモレンスクからの一報を届けたラッセルは、いつもの席に座る赤い髪を見下ろした。
「そうね……なんと言っても、行動がね……」
「無茶苦茶?」
「というよりは、キエフの椅子に座りたい。それだけの人……」
短評を加えると、リアの脳裏に襲われた恐怖が蘇り、思わず身震いをして、両手を腕に預けた。
暗闇と、麻の袋で全身を包まれた、忌まわしき感触……
「では、願いを叶えたら、どうなるんですか?」
「え? さあ? 考えたことなかったな……」
リアの思考が止まった。きっと、誰かに倣った振る舞いとなるのだろう。
そんなことを、漠然と思った。
「それよりも、いくら習わしだからって、周りがよく許したわ……」
「やっぱり、無茶苦茶な人なんですね……」
「そうね……知りたきゃ、マルマかライエルにでも聞きなさい」
自らは語れない。リアは突き放すように上目を送った。
「は!? リア様を攫った!?」
「う、うん……」
階下に下りてマルマを見つけると、質問の答えにラッセルの瞳が開いた。
「……」
「お、おーい」
口を開けて固まっている。
マルマは数秒後、男の肘に右手を伸ばした。
「許すまじ……絶対にコロス……」
「ちょ、ちょっと?」
猫背のままで振り返る。壁に向かって男が呟くと、マルマは腕を前に伸ばした。
気持ちは分かっても、相手はキエフ大公である。
王妃の許諾を得たらしいので狼藉を語ったが、殺意を表す背中を眺めては、後悔が過った。
「でも。少し前に、大公妃が来たでしょ? リア様は、許してるみたいだよ?」
「……」
妖艶な雰囲気を纏う高貴な貴婦人は、確かに王妃と遠乗りに出掛けるほど親しかった。
マルマの表情は柔和なままで、沸き上がった怒りは緩やかに沈下していった。
「それにしても、私って凄くない?」
「は?」
「キエフ大公妃とは話が出来て、大公様とも面識があるんだよ?]
「確かに……」
誰かの婚約者になろうとも、彼女のことは好きなのだ。
目の前で開花した明るい表情に、一息ついたラッセルの心は満たされた—―
一方で、多くの者が抱いた懸念は、トゥーラの北方で立ち昇った。
「なに!? じ、ジミルヴィチ!?」
「は、はい……」
「ミハルコが、推したのか?」
「そ、そのようです……」
20年前に、惨めを食らった。(*)
ルーシを引っ掻き回す謀反人。それだけはありえない。
側仕えのプロコビィからキエフの人事が伝わると、面長の周囲を髭で囲ったスーズダリ大公は、ボゴリュービィに建てられた白亜の住居で憤った。
「ミハルコを呼べ!」
「そ……それが……ミハルコ様は、『キエフのことはキエフで決める』 と述べられたとか……」
「なんだと!? それがどうした!」
「そ、そのように言われましても……」
未だ10代。膝を落とした細身の従僕は、怯えながらも目線を上にした。
「スモレンスクに使者を送れ! スーズダリが援護すると伝えろ!」
「は、はい……」
こうしてプロコビィは吹雪の中に足を進めると、一頭の馬が牽く小さな橇に乗ってスーズダリの城市に向かった。
「なに!? スモレンスクのロマンを大公に?」
「は、はい……」
「また、勝手なことを……」
軍司令官のボリスが思わず嘆いた。ルーシの総てを握っているわけではない。
隣では、アンドレイの息子が俯いて、両の目尻を右手で覆った。
ブルガールへの略奪遠征から戻った直後。さすがに出兵はあり得ない。
「とりあえず、スモレンスクに伝えるか……」
「そうですね……それにしても、ミハルコは何を考えているんだか……」
手長公が拘ったキエフの椅子を、息子たちが継いでゆく――
ルーシの安定を望むなら、一族が担った方が良いのでは?
ムスチスラフは幼馴染の心を訝しんだ。
「アンドレイは、スーズダリの公に留まるつもりとか? それならば、キエフに意見を述べる権利はあっても、決する権利は無かろう」
スモレンスクに赴いたボリスが意向を伝えると、高官のデクランが突き放した。
「……しかし、年長者の意見は、最も尊重されるべきでは?」
「それならば、キエフで大公となれば良い。北の辺境から眺めているだけでは、治世などできるはずもない。そもそも、ノヴゴロドを攻めるなど、やっていることは、秩序の破壊ではないのか?」
「……」
1年前。スモレンスクは仕方なく兵を送ったが、戦闘は眺めたのみだった。
ノヴゴロドを巡る事実と大義を示されて、食い下がったボリスは押し黙るしかなかった。
「その……ロマン様は……キエフの椅子に、拘りは無いのですか?」
無言の空間となったのち、ボリスは恐れるように問い掛けた。
「ロマン様の血縁は、ご存じであろう? 叔父のイジャスラフ大公。父であるロスチスラフ大公。従兄のムスチスラフ大公。何れの方も、民に愛されていた。習わしに則った即位だったので、民も安らかだったのだ」
「……」
「中でも、ムスチスラフ様は大きな功を成したにも拘らず、ロスチスラフ様に大公の椅子を快く譲った。なかなかできることではない。そんな姿を、ロマン様は見ていたのだ」
「……」
エンジ色の服を着た、彫りの深い顔立ちが淡々と歴史を語った。
権力の椅子よりも、大事がある――
気概を示されて、ボリスは黙って瞳を落とした。
夕刻。消沈したボリスはスモレンスクの酒場に身を置いていた。
身分から、石畳の大広場を紹介されたが、冬の閑散期。一人酒は殊更に寂しすぎると、一般大衆が集う酒屋を選んだ。
「偉大なるロマン様に、乾杯!」
背後で盛り上がる市民たち。
出兵しなかった選択を、市井の人々は歓迎しているのだ。
「それでもな、俺はもう一度、スモレンスクから大公様を出したかったぜ!」
「静かに時を待つ。俺たちの公らしくて、良いじゃないか!」
「俺は、ちょっと物足りねえけどな……」
「お。言うねえ」
「腕が、なまっちまう」
「それな」
「お前の腕なんて、変わらねえから心配すんな!」
「あ、コノヤロ。言いやがったな!」
『はははっ』
「……」
市井で耳を傾けて、世情を計る。
ずんぐりとした身体を椅子に沈めたボリスは、会話を肴にマグを傾けた。
「トゥーラで負けたのは、良かったな!」
「良かったのか?」
「おいおい、負けた訳じゃねえよ!」
「そうだったな。あれは、壮大な事故だったな!」
「事故だ事故!」
「事故万歳!」
『わははは』
「……」
ボリスの眉尻が上がった。
そういえば、リャザンから自治を任された場所がある……テーブルに肘を預けると、過去の記憶を辿った。
「ベインズさんが言ってたよ。変な女に、誑かされたって話だぜ?」
「おんな? 詐欺師か?」
「そこまでは、知らねえ。でも、ブランヒルさんもカプスの旦那も、停戦を望んだのは本当だろ?」
「……らしいな」
「フリュヒト様の停戦交渉。俺、ついていったぜ?」
「ほんとか?」
「ああ。カルーガの先までな。俺たちは、川の手前で待機だったけどな」
「……」
フリュヒトの名前を耳にして、ボリスは会話の信憑性を高めた。
ドルツクやヴィテプスク。スモレンスクは10年前、西側に勢力を伸ばした――
当然ながら東にも向くと思ったが、ぱったりと動きが止まった。
ヴァティチの森が躊躇を生んだか、リャザンとの関係悪化を恐れたか……
そんなところだろうと釈したが、どうやら事実は違うらしい。
「トゥーラの女……」
赤い顔となったボリスは、地図を頭に描いて呟いた—―
スーズダリに戻ったボリスは、ボゴリュービィに赴くと、正方形の高台に建てられた、白亜の住居を訪ねた。
「なに!? ロマンとは、会えなかったのか!?」
「は、はい……」
「……」
大公を名乗ろうと、認めてはいない。
使者が赴いた。同列の高官同士で話せばよい。
スモレンスクの立場が明示され、アンドレイは言葉に詰まった。
「あの……」
「なんだ?」
「ユーリーでさえ、キエフを獲れなかったのです。覇業が困難であることは、覚悟の上でありましょう?」
「……それで?」
ボリスは性急を咎めた。
「ここは、ひとまず静観しては……」
「黙れ! あいつがキエフ大公!? ミハルコめ! 俺へのあてつけか!?」
「しかし、習わしと言われては……」
「そんなもの、関係あるか! お前はあの馬鹿が、大公に相応しいと思うのか!?」
「い、いえ……」
スモレンスクの大義は尤もだ。
それでも、眼前からは叱責が飛んでくる。
アンドレイの激高に、ボリスは逃げるようにしてスーズダリに戻った―—
数時間後。雪が斜めに走る夜。
ボゴリュービィの白亜の住居では、プロコビィの歓喜と苦痛の声が響き渡った――
 




