【200.ブルガール遠征②】
小雪の舞う中を、ワルフは200の手勢でヴォルガの支流を北に向かっていた。
彼が知るところではなかったが、簡易な囮は効果を発揮して、ブルガールの軍勢を半数に割っていた。
「このまま、ゴロデツに?」
「いや、オカ川を目指す」
「できますか?」
「……分からんな」
北に向かったと思わせて、自身は西に向かいたい。
降雪量は減っている。橇の航跡は残る筈。
部下の問いかけに、ワルフは正直な思いを口にした。
「林を通るぞ!」
白樺の林や松林を目に入れて、ワルフは氷結した河川から一旦外れる形で馬頭を向けた。
やがて林の中で西に向かう一隊を設けると、自身は北に向かって、更には航跡を消すために木の幹を蹴ったりしながら進んだ。
林を西に抜けた一隊は、再び北に向かってワルフと合流を果たした。
「オカ川は、左ですよ?」
「分かっている」
部下の忠告を退けて、ワルフは再び林の中に隊を進めると、同じ動きを繰り返した。
「次の林で、西に向かう。数人はゴロデツに行ってから、ヴォルガを下れ」
ゴロデツの砦には少数が残っている。囲まれては全滅必至。
ワルフは仲間を逃がすべく、糧食と空の橇を積んだ一隊を派遣した。
「リャザンの人は、優しいですね」
「ん? そうか?」
北西に向かう一隊が離れると、スーズダリの従士から声が掛かった。
ワルフにとっては当然の配慮だが、彼らは違和感を起こすらしい。
正面からの粉雪を受けながら、明確なる相違に彼はまたもやトゥーラの幼馴染を想った――
ワルフの思惑通り。ヴォルガ川の支流を北に向かったブルガールの軍勢は、橇の航跡を追っていた。(*)
「他に、航跡は無いか?」
「見当たりません」
「囮かもしれんな……」
「どうします?」
「だが、金品を運んでいるかもしれん」
どうやらヴォルガを西に向かった軍が本隊だ。
それでもブルガールの軍団長は、構うことなく北へと馬を走らせた。
「川を外れて、林に向かってますね……」
「何かあるな……」
白樺の林の中に踏み込むと、航跡の分岐を認めた。
加えて意図的な降雪が、行く手の判断を遅らせた。
「お頭! 北で合流してます!」
「ち。時間稼ぎの罠かよ」
軍団長は顔をしかめると、再び北へと向かった。
「今度は、松林です!」
「これは……西に向かっているのか?」
航跡は、再び枝分かれ。
しかしながら、比重は明らかに西側に傾いていた。
隊を分けると、軍団長は自ら西へと馬を進めた。
「ちっ。結局北かよ……」
林を抜けると、またもや航跡は北を向いていた。
苛立ちを覚えた軍団長。オカ川は既に南西方向となっている。
どうやらゴロデツに入ったのち、クリャージマ川を伝ってスーズダリに戻るらしい。
「ゴロデツに向かうぞ!」
襲撃を受けた集落は、ゴロデツの南側。
情報とも合致して、軍団長は次の松林では惑うことなく北へと馬を導いた—―
一方で、ヴォルガ川を西に引き返したスーズダリの司令官は、焦りの中に居た。
ヴォルガの緩やかな登り傾斜。深い侵攻が仇になり、更には攫った女子供が加わって、馬の疲労が蓄積されている。
「あと三日。いや、せめて一日……」
勇み足を自覚して、ボリスは神に願うしか無かった。不本意ながらも捕虜を置いて戻ることさえ考えた。
リャザンの軍師の忠告は、正しかったのだ。
敵の姿は見えないが、不穏は明らかに漂っている。
粉雪が流れる東から、今にも松明の薄明かりがぽつぽつと浮かびそうなのだ。
「野営だ!」
それでも馬の限界を認めると、ボリスはヴォルガの南岸。林の中で一夜を過ごすことにした。
「司令官! 雪がまた強くなってきました! 動かずに、追っ手をやり過ごすのはどうでしょう?」
「なに?」
一人の従士が意見を述べると、ボリスの眼光は鋭くなった。
「このままなら、航跡を消してくれます! ヴォルガを進んでは、追いつかれます!」
「……」
「または、スーズダリではなく、ムーロムに向かっては?」
「貴様! ムスチスラフ様を、見捨てるというのか?」
「このままヴォルガを進んだら、敵を引き連れて戦う事になります。どちらが危険ですか? お考え下さい!」
ムーロムに最短で向かうなら、ヴォルガを外れる事になる。
「ん……む……お前の意見は分かった。一晩、考えさせてくれ」
焦りが渦巻くも、長い夜を前にして、ボリスの頭は冷静を取り戻した――
「我々は、ムーロムに向かう!」
翌朝を迎えると、雪が航跡を消していた。
数的劣勢は明らかで、ボリスは総大将の成長を祈念した。
「おい! お前!」
「はい!」
「途中で、オカ川との合流部に向かえ」
「分かりました」
ボリスは進言した従士に任務を与えると、並走することを許した―—
「なに? ムーロムに向かった?」
オカ川の合流部。
ボリスの派遣した従士が戦況を伝えると、総大将の頬が引き攣った。
「私が提案いたしました! 目的は、戦う事ではありません!」
「……それで……ボリスは、呑んだのか?」
「はい!」
「そうか……分かった……」
「あ、ありがとうございます!」
自尊心を満たした従士は、直立となって声を張り上げた。
面食らった総大将は、一旦冷静になってから、戦況を頭に描いた。
「……では、お前に任務を与える」
「はい!」
「対岸で、囮になれ」
「……え?」
自信に溢れた従士の顔は、みるみる蒼白となっていった。
金言であろうとも、怒りの対価は払うべし――
「おい……俺は、バカだと思うか?」
「いや、お前は英雄だ。間違いない」
こうして勇気ある若者は、防寒の一式を仲間から受け取ると、吹雪の中を単身で北に向かった――
ヴォルガを西に進むブルガールの軍勢は、吹雪を正面に受けていた。
「敵は近い! オカ川までに追いつくぞ!」
橇の航跡は見えずとも、雪原には歪みが覗いている。
軍団長は明確な目標を掲げると、目の前の馬尻を鞭で叩いた。
「何か見えます!」
右前方。従士の一人が黒い違和感を認めると、軍団長は右の手綱を引っ張った。
「おい! 生きてるか!?」
一人の男が雪洞の中に居て、暖色の毛布が雪洞の上に載っていた。
軍団長が若い男の頬を叩くと、瞼が僅かに開いた。
「よう……遅かったな……」
「仲間は、どうした?」
「俺だけ、逸れちまってよ……」
「……」
意図したものだろうか。男の消沈が、時間の経過を装った。
「どうしますか?」
「引き返すか……」
従士が尋ねると、立ち上がった軍団長が呟いた。
こうしてブルガール人は引き返した。
雪洞の中。冷たくなった男の口角は、僅かに上がっていた―—
ムーロムに着いたのは、総大将が先だった。
意図したもので、軍司令官はムーロムの手前に陣を敷き、総大将の通過を待ったのだ。
「ムスチスラフ様! やりましたな!」
「俺は、何もしていない!」
ムーロムの城に入るなり、ボリスが笑みを浮かべて作戦の成功を讃えると、客間の椅子に座ったムスチスラフの眼光は鋭くなった。
「何を言いますか! あなたの下に必ず戻ると、我々は吹雪の中を走ったのです!」
「……」
「リャザンの軍師など、我々を生かすために、北へ向かったのですよ!」
「北へ?」
「そうです! 無事なら、三日で戻るかと」
「お前はそう言うけどな……寒い中、俺だって散々待ったんだよ!」
怒りを両の拳に乗せると、ムスチスラフはテーブルを叩いた。
動けぬままの鬱憤は、彼の自尊心を裂いたのだ。
「……あなたより、ノヴゴロドの者たちは、何の成果も無かったのですよ?」
「……」
「彼らの犠牲は、我々の比ではありません!」
しかしながら、ボリスは怯まなかった。
アンドレイの腹心として、俯瞰の視点で訴えた。
「……ところで、私が遣わした者は?」
「さあな」
労いと昇進を伝えたい。
幕舎を覗いたが、見出した若者の姿は無かった。
ボリスが居場所を尋ねると、視線を下にしたままで短い答えが戻った。
「私の部下ですよ?」
「お前のじゃない! 親父のだ!」
「……」
視線を変えぬまま、ムスチスラフは吐き捨てた—―
「おい! 俺が遣った伝令は、どこ行った?」
翻ったボリスは再び吹雪の中に足を戻すと、幕舎で従士たちに尋ねた。
「死にましたよ」
「……は? ……なぜ?」
「虫の居所が悪かったんでしょう。ブルガールの餌になりましたよ」
「餌……」
「ボリス様」
返答に固まると、ボリスの元に一人の従士がやってきて、あらましを届けた。
「そうか……ありがとう……」
軍司令官は従士の左腕に触れてから、肩を落として吹雪の中へと戻った—―
*ヴォルガの支流 =ケルテネツ川
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