【199.ブルガール遠征①】
1171年初頭の厳冬期。ブルガールに向かった略奪遠征の一行は、リャザン及びムーロムからの一行と合流を果たすべく、猛吹雪を背に受けながら氷結したヴォルガ川を南下していた。
「おい。飯があるぜ」
暗い視界の左側。最後尾の兵士が漁村の薄明かりを捉えた。
「そろそろ野営だろ? 俺たちは、あっちで過ごそうぜ」
「そうするか」
橇の手綱を引き絞ると、二人の口角はニヤリと上がった。
「前にも声を掛けるか?」
「いらねえよ! 偵察だ。朝に戻ればいいだろ」
続いて馬頭を左に向けると、年上の男は眼前の馬尻を鞭で叩いた。
「どれにしますか?」
「一軒だけ選べ」
川岸は確認できない。雪は膝にまで達している。
視界に入った3軒の民家は数十メートル間隔で、若い男が尋ねると、移動に嫌気が差した年長者がぶっきらぼうに命じた。
「じゃあ、左で」
両側に助けを求められたら面倒だ。若い男は左右に視線を動かすと、光の薄い方の民家を選んだ。
「当たりだな」
足を進めると、煙が微かに上っている。経験を基にした嗅覚が、男の口角を引き上げた。
「お邪魔しまーす」
ドアノブに手をかけて、年長者が扉を押し開けた。
途端に暖気が頬を通り抜け、スープの匂いが鼻腔を擽った。
「大当たり」
テーブルを囲んで食事中。30代と思わしき両親と、10代半ばの姉弟。
動きの止まった対象を認めると、男の口角が引き上がった。
「イワン! 逃げて!」
察した母が叫ぶと、男児が椅子を転がして立ち上がり、年長者の脇を擦り抜けた。
「おい、逃がすな!」
「ちっ」
振り返った若い男は数歩を刻んで槍を構えると、男児の背中に穂先を伸ばした。
細長い足が宙に浮く。胸から前に飛び込んで、少年の身体は深い雪の中へと沈んだ。
「おまっ」
父親は、立ち上がると同時に年長者の槍に襲われた。
胸と腹。二発を食らって、椅子とテーブルの間に膝を落とすと、やがて床へと頭を落とした。
「い、いやああああ!」
両手を開いて母親が叫び出す。女児は座ったままで固まっている。
動かない父の背中を踏み歩いた年長者が、母親の右腕を掴んで引っ張り上げた。
「た、助けて!」
身体を起こされて、そのまま床に引き落とされた。
「大人しくしろ!」
「む、むごっ…」
背中に回った年長者は、右腕を伸ばして女の口元を塞ぐと、そのまま前のめりに覆い被さった。
「……」
見開いた女の眼。時間は静寂を呼び込んだ。
男の分厚い右手には、冷たいものが垂れ落ちた。
「先に、やっちまうか」
「ひ…」
男は色香を認めると、女の臀部を弄った。
「民族浄化の時間だ」
低い声。腰ひもを解いた男が下半身を露わにすると、若い男は娘を部屋の隅に転がした――
「未だありますよ。食べますか?」
夜明け前。
目を覚ますなり、男たちは厨房に火を入れて、スープを皿に取ってテーブルで食事を摂り始めた。
足元には父親だったものが背中を丸めて転がっていて、母娘は部屋の隅で腰を落として、壁に背中を当てていた。
露わになっている下半身。母は床に膝を屈して重ねるも、娘はボロ人形のようになって細い足を投げ出している。
床には垂れ落ちた赤い鮮血が、生娘だった事を告げていた―—
「ほら、大事な十字架だ」
槍を手にした若い男が玄関扉に足を向けると、年長者が椅子の下に転がっているイコンを拾い上げ、床に接した女の子の小さな手のひらに落とした。
「神の試練だよ」
嘲りではない。
本心からの言の葉が、女たちの鼓膜を空虚に揺らした―—
「あれ?」
「どうした?」
年長者が吹雪の中に身体を預けると、目の前の若い男が足元に視線を落とした。
「いや、ガキの姿が無くって…」
「逃げたか?」
「手応えは、あったんだけどな…」
「もう終わったことだ。行くぞ!」
出発時間に間に合わない。
年長者は急かしながら足を進めると、若い男を追い抜いた。
翌日も、曇天の薄明り。スーズダリの軍勢は、収まらない吹雪を背に受けて、オカ川の合流地点を目指した。(*)
気配は雪が消している。
松明の明かりは見えないか……猛烈な吹雪の向こう側を、皆が注視した。
「そろそろか?」
「み、見えましたっ! 右です!」
ムスチスラフが苛立ちを含んで口を開くと、ボリスがうっすらとした光源を認めて高い声を発した。
隊列を止めると、軍司令官は一頭の馬を橇から外して飛び乗って、配下から松明を右手で受け取ると、雪の中へと消えていった。
「グレヴィ殿! ワルフ殿!」
北側の岸に近付くと、軍勢は川土手を風除けとして、冷めた鍋に残った灰汁のように固まっていた。
「ボリスどのが来た?」
声に気付いた兵士からの一報に、大柄な身体が雪洞から飛び出した。
「ワルフ殿! 無事でしたか!」
「申し訳ない。どうにも動けない有り様で」
「この雪です。風上に向かって進むのは無理でしょう。もっと早く気付くべきでした」
こうして二つの軍勢は合流を果たすと、ノヴゴロドからの遠征軍を待つことにした―—
「遅い!」
合流部の砦に約十日。椅子に座ったムスチスラフは、痺れを切らして訴えた。
「少数ですが、向かいましょう」
「そうするか…」
「ワルフ殿。いかがですか?」
軍議の場。ボリスは並び立つリャザンの軍師に尋ねた。
「懸念が一つ。ここは、我々の土地ではありません。立往生している我々と違って、ブルガール人は、易々と移動をするでしょう」
「それで?」
「兵糧を分けましょう。南側に雪洞を作って、保管するのです。退却時、先ずはゴロデツに向かって、欺くのです」
「なるほどな」
「よし! いよいよだな!」
「いえ。ムスチスラフ様は、ここに留まって頂きます」
背筋を伸ばした総大将が意気を起こすと、見下ろす形でボリスが諭した。
「な…何故だ!?」
「ノブゴロドからやってくる者たちを、迎える者が必要です」
「そんなもの、誰でも良いだろ!」
「いいえ。スーズダリという大木は、光を浴びている枝葉だけではありません。どっしりと構える根幹も、軍には必要です」
「……」
こうしてボリスは口を結んだ総大将を残して、リャザンの陣営と共に東へ向かった—―
小雪となった日。隊は2000にも満たなかったが、遠征軍はヴォルガ川の両岸に軍を派遣して、5つの村と城市を次々に襲った。
「次に行くぞ!」
「ボリス殿! お待ちください!」
勢いに乗ったボリスの声を、ワルフが制した。
軍勢は、奪った金品や女子供を運ぶため、進軍の度に減っている。
「どうした?」
「この先は、川幅が広い。我々は、少数です。はっきり言って、潮時です」
「……分かった。では、もう一つだけ! 行くぞ!」
議論の余地は無い。
折衷案を明示して、ボリスは槍を持った右手を高々と掲げると、更に東へと駆け出した。
立往生から放たれて、士気は高い。ワルフは不安を抱きながらも、仕方がないと諦めた。
「グレヴィ様。あなたは、引き返して下さい」
「……そうしよう」
領主の息子を残して、ワルフは東に向かった。
(あいつなら、引き返しただろうな…)
弱さを自覚する。彼の脳裏には、微笑む幼馴染の姿が浮かんでいた—―
果たして、ブルガール人は軍装を整えていた。
ゴロデツの南に在る集落で、少年の一家が襲われた。
情報は東へと伝わって、続報は無かったが、警戒態勢は敷かれたままだったのだ。
「来たぞ! スーズダリの奴らは、ヴォルガからやってくる!」
進軍に気付いた斥候が、ブルガールの陣営に駆け込んだ。
「数は?」
「1000も居ない!」
「よし、出るぞ!」
軍団長の掛け声に、凡そ6000の軍勢が、広いヴォルガの雪原を西へと駆け出した――
「急ぎましょう!」
スーズダリの陣営は、最後の襲撃を終えていた。
女子供は橇に乗せ、男は叩き殺す毎度の工程である。
「ボリス殿! 手筈通りに!」
ワルフは言いながら馬に跨ると、先ずは1台の馬橇と200騎を従えて、東へと走った。
「ここらで良いでしょう」
3キロほど進んだか。ワルフはケルテネツ川の河口で下馬をして、備えた斧を取り出すと、馬橇の舳先を叩き壊した。
「どうするんです?」
「ここで、北に引き返した。そう思わせる」
訝しんだ部下の声。ワルフが明確な意図を伝えた。
翌日の昼。
「奴ら、北に向かってます!」
「根城はゴロデツか? だが、おかしいな……」
壊れた橇を見つけたブルガール人が、舳先の方向を認めるも、違和感を口にした。
女子供を引き連れて、遠回りするとは思えない。
「隊を分けるぞ! 半分は、ヴォルガを進め!」
こうして6000が二つの3000となり、西と北に向かった―—




