【198.度量】
改めて、二つの軍が対峙する。
北からミハルコが加わったキエフの軍勢は、当然ながら気勢を上げた。
「大した数じゃねえですよ!」
「ばか野郎! あいつらは、二人になったら厄介なんだよ!」
用兵の妙。男は何度も辛酸を舐めている。
若い異教徒が軽口をたたくと、年上の男が戒めた。
「止めるしかねえか…」
それでも収穫を得たからには、手放せない。
南側。覚悟を決めた軍勢が、じわりと前に動いた。
「いくぞ!」
だが一斉に、突撃したのはキエフ側。
ミハルコの声に呼応して、横陣が雪崩のように南下した。
「こっちも行くぞ!」
数に勝るのは南側。
しかしながら、受け身であることは否めない。
横陣のまま突っ込む筈もなく、ミハルコを中心とした錐陣変化の対応に遅れると、容易に一点突破を許した。
「潰せ!」
「くっ!」
それでも陣は厚い。上がる気勢。
殆どの刃が向けられて、キエフの守護者の口元が歪んだ。
「ぐあっ」
ミハルコを囲む軍勢の背後から、矢羽の雨。
全軍を率いた訳ではない。右からはベレンディ人の部隊長。左からはヴワディスワフが弓隊を率いて援護に回った。
「くそっ! 奴は囮か!」
完全に裏をかかれた。
大将が自ら危険を冒すなど、異教徒の思想には皆無である。
矢羽の対応で緩くなった包囲を抜け出すと、ミハルコは捕虜となったキエフの民を追うことなく、馬を返して、今度は南側で横陣に構えた。
「は?」
時間を割いてくれるなら、大歓迎。
畏怖を含んだ異教徒は、意図が不明となって、交戦を躊躇した。
「別動隊が、居るんじゃねえか?」
「あ」
一人の呟きに、彼らは若い指揮官の姿が無いことに気が付いた。
「迂回して、追うか?」
「いや、待て!」
分散しては、勝ち目がない。
異教徒の年長者が動きを制すると、好都合と口を開いた。
「あの若いやつの力量は、大したことねえ。捕虜の護衛は、俺の兄貴だ。数も少ない。負けるとは思えねえ」
「確かに…」
経験が違う。
自信を含んだ説明に、異教徒たちは落ち着きを取り戻した。
「だが、このまま睨み合うのか?」
「……」
お互いに、相手の背後に陣がある。
糧食を摂らないままの膠着状態は、双方にとって不毛だろう。
陣の交換でもするつもりか?
不明瞭な思惑は、やがて異教徒の間に不穏な感情を湧き起こした。
相手はミハルコだ。無意味な行動は起こさない。
最重要の任務を末弟に託すのは、理由が有る—―
果たして、答えは小一時間でやってきた。
南からの伝令が、キエフの軍勢の脇を走って辿り着いたのだ。
「西から……トルチェスクの奴らに襲われた…」
「なに!?」
ミハルコの居城。当然ながら、キエフに向かう往路では注視して、動きは無かった筈である。
襲撃を知ってキエフに向かったミハルコが、どうやってトルチェスクに残った軍勢を出せたのか…
「まさか……全部、読んだのか?」
居城からキエフへ向かう際、戦場を指定した。その上で、戦利品を抱えた部隊を誘導したのだ―—
現在、トルチェスクに兵は居ない。
勝つにはキエフを放棄して、空城となるトルチェスクに向かうべきだったのだ――
「無理だ……」
度量の違いを思い知る。異教徒は呟いた。
例え戦況が浮かんでも、行動には移せない――
「くそっ! 奴らの幕舎を襲うぞ!」
せめてもの抵抗。
年長者の放言に従って、キエフからの糧食は奪われた。
くれてやる。ミハルコは代わりに異教徒の糧食を奪ってから、末弟の元へと急いだ。
「兄さん!」
南から、末弟が高揚を隠さずに駆けてくる。
キエフの守護者と司令官は、頬を緩めて労った。
こうして彼らは奴隷として運ばれていた女子供を解放。或いは遊牧民に預けると、意気揚々とルーシの首都に凱旋を果たした――
同じ頃、ルーシの東端リャザンでは、兵装の準備に慌ただしかった。
スーズダリ大公を名乗るアンドレイの要請。
一年前。ノヴゴロド遠征で敗れたにも拘らず、今度は東のブルガール。(*1)
当然ながら士気は上がらずに、重たい空気が都市を覆った。
「派遣するのですか?」
国王執務室。ワルフは異論を唱えた。
リャザンやムーロムだけでなく、ノヴゴロドからも兵を募ったと聞いている。
意図するところは、周辺国家の弱体化…
「地図を見ろ。スモレンスクとは違うのだ」
「分かった上です。これ以上のスーズダリへの加担は、民の心が離れます。グレプ様。逃避行の屈辱を、忘れたのですか?」
「……」
およそ四半世紀前。リャザン及びムーロムは、スーズダリの侵攻を許した過去がある。
ワルフはスーズダリに靡くより、中立を示すべきだと訴えた。
「だが、アンドレイは、キエフ大公の兄貴だぞ?」
「……」
年長者のアンドレイ。キエフとスーズダリが一枚岩ならば、誤った現状認識とは言えない。
更にはリャザン公妃は手長公の長男の娘。すなわちアンドレイの姪である。
「ワルフ殿。父上は、なによりもリャザンの民が争いに巻き込まれる事を恐れているのです。スーズダリに靡くのも、民を想っての事なのです」
同席したグレヴィが、父の意見を擁護した。
スーズダリとの関係が悪化して、孤立無援となっては堪らない。
「そうですか。グレヴィ様も仰るなら…」
最悪は回避する。
実際に軍を率いる王太子に言われては、引き下がるしかなかった。
「お前なら、説得できたか?」
会談後。自室の窓際。椅子に座ったワルフは酒を注いだマグを右手で掴むと、闇夜を見上げて呟いた—―
厳冬期。この年の北西への行軍は、困難を極めた。
遠征軍は、ヴォルガ川を背にした城市ゴロデツにて合流する手筈だったが、悪天候に阻まれて、各陣営の足並みは揃わなかった。(*2)
最初に到着したのは、移動距離が最も短いスーズダリ大公の息子である。
「遅いな…」
「雪の量が尋常じゃありません。ノヴゴロドからの遠征軍は、大幅に遅れましょう」
ムスチスラフが苛立ちを表すと、軍司令官のボリスが慰めた。
欧州最大の河川。ノヴゴロドの南から、モスクワの北を東に走ってやがて南下。オカ川を取り込んで、カスピ海へと注ぐ母なる川は、氷床の上に豪雪を蓄えていた。
橇は雪壁に阻まれて、視界は吹雪で閉ざされる。
一年前。スーズダリの侵攻を受けたノヴゴロド。それでも略奪遠征の誘いに乗ったのは、食糧事情悪化の解消を目論んだのだ。
「くそっ。引き返すか?」
「今更か?」
立往生。雪洞で身体を寄せ合う陣営に、不満の声が上がった。
「そもそもな。アンドレイが居なきゃ、こんな事になってねえんだよ!」
侵攻によって商人が逃げ出して、食糧も消えたのだ。
賢公であったロマンが要求通りに下野をして、代わってノヴゴロドの公に就いたリューリクは、キエフとの繋がりよりも、スーズダリの顔色を窺った。
「市長官は、反対したって聞いたぞ?」
「ああ。それをリューリクが、民会に諮ったんだ」
「それで?」
「『空腹も神の試練である』 市長官は言ったらしい。でもな、リューリク派の教会は、欲に眼が眩んだんだ!」
「教会の奴ら、スーズダリから金を貰ってるって話だぜ?」
「あり得るな。所詮あいつらは、戦場には来ねえからな!」
「……」
灯すのは、生死の格差。
いつの時代でも、軽く扱われる命が在る。
市民の器である国よりも、神の存続を望む者。声高に叫ぶ者。
国力衰退を招く愚策とは、常に為政者によって構築されるのだ—―
「ムーロムとリャザンはどうした?」
ゴロデツで無為に時を刻む事になった総大将は、暖炉前の椅子に座って右膝を細かく上下に動かしていた。
「そろそろ着く筈ですが…斥候も帰ってきません。いかがでしょう。我々も、南下しては?」
「そうだな…」
軍司令官の意見を容れると、スーズダリの一行は、ヴォルガ川を南下して、オカ川との合流地点に向かった—―
*1 ブルガール
ヴォルガ・ブルガール。西から東へと移動したトゥルク系の民による国家。
*2 ゴロデツ
手長公ユーリーによって、対ブルガール対策に建てられた、ヴォルガ川沿いの城砦。
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