【196.フセヴォロド】
1170年の冬。キエフを狙って遊牧民が南西からやってきた。
キエフ大公グレープは、キエフの南方80キロ。トルチェスクを治めているキエフの守護者に討伐を命じると、太い眉毛に奥目の瞳を備える男は、末弟のフセヴォロドを初めて陣に加えた。
キエフが狙われた理由は、大公グレープの体調が思わしくなかったからである。
軍勢を整えるため、ミハルコはキエフに赴いてから出陣せざるを得なかった。
引き連れたのはポーランド出身の司令官。更には懇意にしている遊牧民たちである。
南からやってきた異教徒は、キエフの北側へと迂回した。
初動の遅れは目論み通りであったのだ。
彼らの狙いは付近の集落群。
家屋や馬小屋に火を放ち、秋の収穫を終えた蔵を襲うのだ。
当然ながら女や子供。金品も対象である。
存分に略奪を働いた遊牧民は、西へと動いてから南を目指し、ブグ川を利用して領地に戻ろうとした—―
「西へ向かいます!」
奴隷を伴っての移動は遅れを生むが、氷結した河川の移動は敏速を呼ぶ。
キエフを出立したミハルコは南西方面に向かうと、やがてフセヴォロドとヴワディスワフを下流に促して、自身は真っ直ぐに敵の本陣を目指した。
ブグ川の上流部。
捕らえた女たちを馬橇に載せ、麻縄で縛っている異端者のところへキエフの守護者が追いついた。
「ミハルコだ!」
「くそっ。こんなところにまで!」
遊牧民にとっては、南に住まう悪魔である。
そんな男に北から襲われて、たちまち彼らは混乱に陥った。
一人の肩を馬上からの槍で突き刺すと、ミハルコは草原に降り立った。
「どこから来ました?」
馬から降りて狼藉者の襟元を掴むと、奥目の瞳が鋭くなった。
「ひい。助けてくれ……俺は、族長に従っただけなんだ……食っていくためには、仕方なかったんだ!」
「そんなもん。お前が自立をしなかった。自立を怖がったんだろうが! 知るか!」
目玉を震わせた懇願を、ミハルコは舌打ちしてから吐き捨てた。
「どこから来た! 言え!」
「ひいぃ……」
恫喝の中。ミハルコは男の衣服や腰ひも、髪飾りなどを見回して、貝殻やサンゴの装飾品を認めると、自身の治める領地よりも更に南。ブグ川の下流域に生息する者だと見極めた。
「女性を先に! 残った者の救助を!」
薄着の者も多かった。ミハルコの指示により、雪原に放り出されたキエフの民が真っ先に救われた。
「あぁ…」
浅黒い肌の男たちが近づいて、震えている女たちの喉が低い悲鳴を鳴らした。
キエフの守護者が率いても、遊牧民は異教徒だ。
「怖がらなくていい」
白い柔肌を晒す女たち。
異教徒の族長が促すと、仲間が馬車から毛布や麻布を引っ張り出して、震えている身体の上に放り投げた。
「馬車に乗れ。キエフに戻す」
「あ、ありがとうございます…」
男の指示は落ち着いている。
女たちは平静を取り戻し、羅列となって馬車へと乗り込んだ。
「こいつらは、どうします?」
ベレンディ人の族長が、縛り上げた異教徒に視線を移してミハルコに尋ねた。
「お好きなように」
短く答えると、ミハルコは馬上に戻って南へと駆け出した。
更なる追撃戦。遊牧民が続々と後に続いた――
「さて、どうする?」
残った者は十数名。彼らの任務は女子供をキエフに戻すこと。
一人が尋ねると、年長者は馬車から牛刀を取り出して、白の混じる大地に固められた異教徒に向かった。
「おい! 全員立て!」
捕えた人数は30余。負傷者多数。よろよろと立ち上がった者から順番に、いきなり首を掻っ切った。
「ひいぃ!」
「立たなかったら、全員殺す!」
立ち上がろうとした者が、腰を落とす。
途端に通告が飛んできて、よろよろと幾人が立ち上がっては、鋭い刃が喉元を襲った。
「おい、槍を持ってこい!」
悲鳴が上がるたび、異教徒が白の混じる大地に転がった。やがて切れ味が悪くなって、男は助太刀を頼んだ。
一人が加わると、やがて言葉を発する者はいなくなった―—
「お前たちは、助けてやる。馬車に乗れ」
穂先が舞ったのは、自身の胸より上だった。
視線を下げた年長者は、足を震わせながら見上げる2人の少年に安堵を与えると、続けて忠告をした。
「お前たちは、南で暮らせ。大人になっても、絶対に北には来るな。分かったか?」
「……」
「分かりました…」
一人が無言で頷いて、別の少年は震えながら声を発した。
「助けるのか?」
「熊や狼と一緒だ。ナワバリってのがあってな。越えたらどうなるか、教えてやるんだよ」
全員殺しては伝わらない。
未来を率いる者にのみ、託せることがある。
仲間が口を挟むと、年長者は馬へと足を戻しながら意図を語った。
「じゃあ、頼んだぞ」
「へい」
年長者は子供たちを乗せた馬橇が南へ走るのを見送ると、自身は助けた女子供を乗せた馬車へと乗り込んだ。
「のんびり行くか」
馬車の荷台は家屋のように囲われている。
10代半ば。男は好みの女を引っ張り出して伝えると、別の馬車へと乗り込んだ。
得意満面な男たちは、英雄となるべくキエフに向かって出発をした―—
異教徒を打ち倒し、氷結したブグ川を南へと下るミハルコの軍勢は、少数であった。
初戦は名前を生かした強襲が実ったが、次戦は甘くない。
川面には、百以上の橇の航跡が残っている。
「急ぐ必要はありません!」
先行する土煙を目標にして、ミハルコは適切な速度を求めた。
一方で、ミハルコの指示により、先に南へと向かったヴワディスワフは、捕虜を率いて重くなっている馬橇を認めると、先回りを図って彼らの脚が鈍るのを待ってから、橫撃を果断した。
「ヴワディスワフだ!」
「くそっ。こんなところで!」
馬の配置変更に伴う休息中。異教徒にとっては最悪な状況が具現した。
多数であるがゆえ、命が惜しい。
多くは一目散。橇の御者は馬と荷台を分離して、四方八方に駆け出した。
「思ったより、多いですね…」
「そうだな。あとは、フセヴォロド次第だな」
部下の発言は、敵の総数。
寡兵だと知ったなら、再び襲ってくるに違いない。
ヴワディスワフは本格参戦は初となる、友の末弟の名前を口にした。
この時16歳。後に大巣公と呼ばれる男である。
後にスターリンにも影響を与えたとされる、初代モスクワ・ロシア皇帝。雷帝イヴァンの血筋へと繋がってゆく―—
「行くぞ!」
目的は、離散した敵の参集を防ぐこと。
声変わり前の高い声。フセヴォロドは軍を錐の陣形で三つに分けると、遊撃戦を開始した。
統率の取れた騎馬隊が、単騎に敗れる事は無い。
孤立となっては襲われる。異教徒は恐怖心を生み出して、更に遠方へと散っていった。
「もう、大丈夫か?」
「恐らくは…」
頬の紅潮したフセヴォロド。錐の陣形の中心で辺りを見回すと、部下の回答に穂先を下ろした。
「司令官の元に、戻ろう」
息遣いは荒いまま。若い指揮官は安堵を吐き出した。
いつの間にか、最後列は松明を持っている。
冬の太陽は曇天の中では朧となって、天空はそろそろ闇を迎え入れようとしていた――
「終わっていませんよ」
「……」
やれやれと幕舎に入って腰を落としたフセヴォロドが、ヴワディスワフに帰還の算段を尋ねると、無機質な声が戻った。
「奴らもここまで出向いて、収穫なしでは帰れない。必ず朝には襲ってきます。女子供を抱えては、今度はこちらが不利となる。絶対にあなたは、私から離れないように」
「……はい」
鋭い眼光で司令官が含めると、フセヴォロドは唾をごくりと飲み込んだ。
夜明け前。
若い指揮官は目覚めると、夜襲が無かったことに安堵した。
途端に両の太腿が痛みを発して、前日の緊張感と運動量を自覚した。
「来るぞ!」
襲撃に気付いた見張りの声。
微かに浮かぶ地平線の先で、火の手が覗いた。
それぞれの馬に飛び乗って、再び複数の錐の陣。
フセヴォロドを背後に置いたヴワディスワフは、先陣を切って飛び出した。
「怖いですか?」
「……」
人馬の大群がやってくる。
ヴワディスワフが尋ねるも、反応は無い。
「大丈夫です。あなたは先代の血を引いている。行きますよ!」
叱咤の声。フセヴォロドは槍を持つ手に力を入れて、跨った鞍を太腿で固定した。
(神のご加護を…)
緊張が増してゆく。朝の痛みは消えていた—―
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