【195.鳴鐘】
キエフとノヴゴロドが襲われた1170年にも、ようやく冬が訪れた。
アレッタは1歳となって、目の前のものを指で摘めるようになり、マルマが焼き菓子を口に運ぼうとすると、あーと声を出してねだるようになってきた。
「主人が、ロイズ様に感謝をしておりました」
城の最上階。訪れたのは、秋の収穫から冬支度が終わって、報告に上がった女中頭のアンジェである。
リアが促して暖炉前のテーブルを挟んで向き合うと、穏やかに口を開いた。
「あの人が、何かしましたか?」
マルマの淹れた紅茶が運ばれると、手を伸ばそうとするアレッタを胸に抱えた王妃は不思議そうに尋ねた。
「リャザン領のままでしたら、キエフにも、ノヴゴロドにも向かったかもしれません」
「……」
「もしかしたら、ライエルだったかもしれない。リャザンから、そのまま派遣されたかも。そんな話を、昨晩したのです」
「そうかもしれませんね」
「……」
仮定の話であるが、二人の会話を耳にして、暖炉の炎を整えていたマルマの心は引き締まった。
将軍の妻となる。
そういう覚悟を、持たなければならない—―
「リャザンから、打診はあったみたいです。でも、断ったとか。ご存じでしたか?」
「はい。『一度干渉を許したら、未来も危ういものとなる』 そんなふうに、言ってましたね」
「……」
静かな時間が流れると、アンジェは感心したように頷いた。
「スモレンスクを退けて、トゥーラの力をルーシに示した。静かな冬を迎えられるのは、ロイズ様のおかげです。宜しくお伝えください」
「はい」
改まったアンジェが小さく頭を下げると、続いてリアの赤みの入った前髪が、幾つか垂れ落ちた。
「ところでマルマ」
「ひゃい?」
突然に上司から名を呼ばれ、背中を暖炉に向けていたマルマの声が上ずった。
「ライエルとは、どうなってるの?」
「え? どうなってる? とは?」
「ちゃんと、通ってるの?」
「え…」
「あなたの生活が変わらないなら、この冬は、ターニャをウチに招くからね!」
「……」
鍵番の任務は、彼女の誇りである。他人に譲るなど有り得ない。
アンジェの発言を察すると、マルマの口が噤んだ。
「そういうことなら、ラッセルに頼むかな」
「そうしていただけると…」
「もう、朝早くに馬が来ることも無いだろうし、大丈夫でしょ」
「……」
続いた会話には、マルマの身体が固まった。
かくして冬支度は追加され、場外と鍵番の部屋とを繋いでいた鐘付きの麻紐を、三階の居住区にも繋ぐことで終了を迎えた—―
主な任務の最終日。寒空の下。マルマは石橋の上で振り返り、城に向かってぺこりと頭を下げてから、婚約者の家に向かった。
寂しいと感じる一方で、彼女は愛情を希求できる愉悦を自認した。
優しい義母。未来の旦那様。
今夜は城には戻れない。
退路を断たれた状況で、マルマは覚悟を胸に宿した—―
「今夜は、帰りません」
「え?」
「……」
夕食時。突然の宣言に、ライエルは驚きの声を発して、ターニャの動きはスプーンを掲げたままで止まった。
「正確には、帰れません。追い出されました」
「……」
「というわけで、今夜から、ご厄介になります」
最後には椅子から立ち上がって、二人に向かって茶褐色の髪を垂れ下げた。
「あは。あなたって、ほんとに面白いわね!」
木製のスプーンを口元に、ターニャは思わず笑い声を発した。
「アンジェに言われたの。『今夜、泊まる用意してウチに来て』 って。そういうことなのね」
「……」
若い二人の動きは固まって、耳まで真っ赤になっていた。
「頑張ってね。しっかりしなさいよ」
食事を済ますと、ターニャは通達通り、にこやかに室内の二人に手を振って、松明の明かりと共に寒空の中へと足を進めた。
何を頑張るのか…
心に灯ったマルマは呆れたが、ライエルには緊張が走った。
二人の行為は、未遂に終わっているのだ。
一度は城の中。ハンガリーの高貴な女性が去ったあと、マルマの手配で夜中に鍵を開け、ライエルを自室に招いたのだ。
しかしながら、石橋の上には門番が居る。
普段通りに背筋を伸ばして堂々と渡れば良いのだが、早足で、首を竦めての入城は、どうしたって怪しい。
バツの悪さを感じては、お茶と昔話に終始して、そういった雰囲気にはならなかった―—
二度目は彼の家。
夕食後にライエルと2階に赴いて、二人きりになった部屋でキスをした。
しかしながら、階下には母が居る。
浮かんでしまっては、為すことができなかったのだ—―
「とりあえず、お茶を淹れるね」
「あ、うん」
二人並んでターニャを見送ると、扉が閉まったところでマルマが口を開いた。
ライエルは炊事場に向かう新妻の背中を眺めると、手持ち無沙汰となったのち、椅子を一脚ベッドの前に設置して、ちょこんと寝具に腰を下ろした。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
紅茶の入ったマグを2つ手にして戻って来ると、マルマは左手の方をライエルに差し出して、自身は彼の右側に腰を下ろした。
「あちっ」
立ち昇る湯気の中、唇を尖らせて紅茶を啜ると、想像以上の熱さに青年の口元が悲鳴を上げた。
「……」
頬の緩んだマルマが手にしたマグを椅子の座面に乗せると、ライエルも釣られるように右手を伸ばした。
「夜は、長いですよ」
二つのマグが接すると、ライエルの横顔を覗いたマルマが声を送った。
「……」
縺れた緊張が、するりと解けた気がした―—
瞳が向き合って、唇を寄せて、細い右手が男の胸に触れると、女の髪の毛が大きな手のひらに包まれた。
「マルマリータさん。好きです…」
「はい…」
女が応えると、二人は息苦しくなってから、ゆっくりとベッドに倒れた。
「あの……」
「はい」
「どうすればよいか、わかりません」
「……」
暫くの間、見つめあう。
性の知識は、先輩女中から。
ライエルが真顔で口を開くと、大きな手のひらに頭を乗せたマルマが擦り寄って、キスを求めた――
トゥーラ城の北東。
ウォレンの住居では、暖炉前で膝を屈したアビリのポニーテールが、子供たちの標的となっていた。
風圧を首筋に感じて振り向くと、10歳くらいの男の子が黒髪の先端目掛けて寸止めパンチを繰り出していたのだ。
「ごめんなさいね。わんぱく盛りで」
「い、いえいえ。ありがとうございます」
初対面。ウォレンの母親が白い腕を伸ばしてマグを差し出すと、アビリは恐縮しながら受け取った。
両親が居て、祖母が居て、兄夫婦も住んでいる。
一家の中でウォレンの肌だけが浅黒いのは何故なのか…
あれこれと理由は探しても、アビリが尋ねることは無かった。
そういう時代であったのだ――
「主の恵みを。トゥーラに。ルーシの世界が、穏やかでありますように…」
城の東側。ライラの家屋には、掌を二つ合わせたくらいのイコン画が掲げられている。
十字架を胸前で握った母娘は、両膝を石床に接して祈りを奉げていた。
やがて材木商を営む父親が外から戻って、今度は三人で祈りを重ねることになる。
「ロイズ様を迎えてから、トゥーラは、本当に穏やかになったね」
「うん」
祈りを終えてから、二人で紅茶を淹れて、ソファに腰を落として安穏を求めると、ライラより少し低い目線から、母親がしみじみと口を開いた。
「ロイズ様を遣わしてくれた、主に感謝だわ」
「……」
「ああ。もしかしたら、あの方が神の化身…」
「崇めすぎでしょ。お母さん」
娘が窘めた。ロイズ様が神ならば、伴侶は女神ということに?
赤い髪の女神様?
そもそも、あの人は、神を信じたことすら無いのでは?
ライラは紅茶を口に運びながら、上目となって王妃の姿を思い浮かべた。
翌日の朝早く。
国王居住区に取り付けたばかりの鐘が鳴り、飛び起きたロイズが階下に走った。
「もう…一体なんなの? こんな時間に…」
外は暗い。やがて伴侶が戻って来ると、右手を目尻にやりながら、ベッドで身体を起こした王妃が気だるそうに尋ねた。
「リア。早馬が、二つ来たよ…」
「は? 二つ?」
想定外の返答に、狭い眉間に皺が寄る。ロイズは文書を開いて読み上げた。
「遊牧民が、キエフを狙って、ミハルコが討伐に向かった…これは、スモレンスクからだね」
「…毎年毎年、本当に懲りないわね。どうせ返り討ちに遭うでしょ」
グレープが大公に就いてから、キエフの地盤は固まっている。
たとえ周辺の集落を襲っても、割に合わないのは明らかだ。リアは両手を上にして吐き捨てた。
「もう一つは、ワルフから。えーと…『スーズダリから通達が来た。ブルガールに攻め込むと。リャザンにも派兵の要請が来た』 だってさ」
「……」
読み終えて、ロイズがリアに視線を送ると、赤い髪が垂れ下がっていた。
「……リア?」
「どいつもこいつも…自国で何とかしなさいよ! バカなの!?」
小さな王妃は両の拳を震わせると、顔を戻して訴えた—―
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