【189.承諾】
美将軍の求婚を受け入れた――
マルマの意思表示は、瞬く間に城内に知れ渡った。
殆どが予期した通過儀礼であったが、二人だけ、身体の固まった者がいる。
一人は猫背の尚書。
逃げるように二階に上がったラッセルは、口を半開きの状態で、中広間から南側の空を眺めていた。
間違いであってくれ――
胸の奥から刺すような痛みが湧いてくる。
しかしながら、この期に及んで楽観的な願いを起こす自身の脳裏を嫌悪した――
リャザンでの失恋は、恋心を抉った。
繕った笑いを見抜けずに、恋慕は募っていったのだ。
恋なんて感情が、なんで湧くのだろう……
冴えない者の物語は、必ず悲哀で終わるのに―—
恋の放棄を誓ったが、屈託のない笑顔を浮かべる女の子に出会った。
誓いは忘却の彼方に消え去って、仄かなものが胸に灯った――
お互いの心は向き合っている――
明るい彼女。弾んだ笑顔を見るだけで、穏やかになった。その日が夜まで、明るくなった。
寝床では、彼女を想って眠った。
頭の中で、二人の未来は明確であった――
「あ…」
ゆっくりと、螺旋階段を上ってくる足音が聞こえると、長身の女中が姿を現わした。
お互いが視線を合わせると、同時に小さな会釈を送った。
瞳の色は失せたまま、ライラは足を戻して階上へと向かった。
「……」
足音は、数歩を辿ったところで止まった。
石壁に背中を預けたライラは白い手指で頬を覆うと、やがて膝を折り曲げた――
微かな違和感は、2階で佇む男にも届いた。
それでも足は動かずに、貧相な顔だけが螺旋階段の方を向いていた――
「失礼します」
しばらくの時を置き、涙を拭ったライラが国王居住区の扉を開けると、尊敬する先輩の姿が飛び込んだ。
城住まいの先輩には逃げ場がない。
取り囲まれることは確実で、堪らないと居場所を求めたのだ。
「お休み中ですね」
「あ、うん…」
暖炉の近く。吊り下がった麻布に支えられ、王太子は眠っている。
視界に入って呟くと、ぺたんと床に腰を下ろした先輩が、手にした書物を閉じて応じた。
「掃除?」
「あ、はい…」
「手伝うわ」
伏し目になったままで、マルマは立ち上がった。
桶に水を掬って炊事場から戻ると、棚に置いてある2枚の麻布を取り出して、1枚を後輩に手渡した。
視線を合わせることなく受け取ると、ライラは先輩の後ろ姿を追い掛けた。
王妃はいつもの席で書物を広げていたが、夕陽の翳りを認めて本を閉じると、寝室に足を運んで扉を閉めて、ベッドの真新しいシーツに身体を預けた――
「……」
深く考えた訳では無かった。
予想外。告白に応えたマルマは、隣で目撃した先輩が両手で口元を覆ったのを認めると、恥ずかしさに都市城門へと駆け出した。
追い掛けてくる気配はない。足の回転を緩めて、それでも早足となったマルマは、湧き上がってくる感情に頬を染め、俯きながら城に入ると、仲間の挨拶に応えることなく螺旋階段を上った。
「どうしたの?」
勢いよく扉を開けると、いつもの席から王妃の声が飛んできた。
顔は上気して、明らかに何かの事態はあったらしい。
「いえ…」
マルマは扉を閉めると、それ以上は語らずに、しばらくその場で佇んだ。
「紅茶、淹れますね」
「あ、うん…」
何かをしていないと身が持たない。
小窓の席には白い椀が載っているにも拘らず、マルマは炊事場に向かった。
「リア様。今日は、ここに居ても良いですか?」
「好きにして良いわよ」
「ありがとうございます…」
悲しいことがあった訳では無いらしい。
攪拌棒を手にして蜂蜜をかき回す手元は普段より高速で、王妃は自由を許諾した――
二人の女中を気遣って、寝室で惰眠を貪った王妃が起きると夜だった。
扉を空けるとマルマとアレッタが暖炉の前で、丸く削った木球で遊んでいる。リアの口角が自然と上がった。
一時間前。起きたアレッタは機嫌を悪くして、マルマは下腹部の清拭を終えたあと、地階に下りて乳母を訪ねたと報告をした。
「で、何があったの?」
いつもの席にランプの明かりが灯ると、リアが改めて尋ねた。
同時にマルマの手元から木球が滑り落ちると、カラカラと音を発して炊事場の方へと転がっていった。
「生涯を、申し込まれました…」
「…誰に?」
「ライエルさんです…」
「あ――」
床に腰を落としたマルマの足下で、アレッタのまんまるの瞳は、離れていく木球を眺めた。
「…それで?」
「『はい』 って言っちゃって…」
「嫌なの?」
「…そういう訳じゃ、無いんですけど…」
アレッタが、ぺたんと腹這いになって、手足を前へと動かした。
「思ってたのと、違うなって…」
「…誰かが決めるより、良いでしょ」
「……そうですね」
血筋を残す為。新たな働き手を有する為。男児を育てた親たちは、やがて子種の相手を探し出す。
流行り病で簡単に命が消える時代では、自然な習わしであったのだ――
「…アレッタを産んで、真っ先に浮かんだのは、誰だと思う?」
優しい声で、赤い髪の王妃は問いを送った。
「ロイズ様ですか?」
「ううん。お母さんなの」
「……」
「『あなたの命を繋ぎました』ってね。本当に思ったの…」
「……」
生命の意味を、マルマは想った。
「未だ、安心はできないけどね」
言いながら、王妃は腹這いになってズリズリと前に進んでいるアレッタに視線を移した。
「え!? リア様!? アレッタちゃん、動いてますよ!」
「ベッドの上では這おうとしてたけど、ちゃんと出来るのね…」
マルマの驚嘆とは対照的。立ち上がった母親はアレッタの元まで足を進めると、腰から曲がって両膝に手を置いて、尺取り虫でも眺めるように感心をした。
「よくできましたぁ!」
やがてアレッタが木球に触れると、笑顔になって娘を抱き抱えた—―
翌日の夜明け前。起きたマルマは桶に水を汲んでから地階の炊事場に向かうと、並んでいる窯の一番奥を開け、麻布を冷たい水に浸してから、絞って窯の内部を拭き始めた。
やがて女中たちがやってくる。
一心不乱に窯を磨くマルマの姿を認めると、話しかけるような空気は生まれずに、彼女たちは黙々と己の作業に移った。
「マルマ。感謝しなさいよ」
「え?」
人影が覗くと、アビリの声が届いた。
顔を上げると、隣の窯に腕を突っ込んで、掃除に励む先輩の姿が映った。
「蜂蜜の処理。3人でやったんだからね!」
「あ…すみません…」
事情はあろうとも、仕事を放棄したことに変わりはない。
自覚の欠如を指摘され、マルマは素直に謝った。
「まあ、仕方ないけどね」
「……」
「でも、けっこう気まずかったんだからね!」
「…すみません」
「で、どうするの?」
「……」
ぷらぷらと揺れる黒髪のポニーテールが尋ねると、窯の前で突っ立ったマルマが押し黙った。
「先ずは、ライエルさんに会ったら? 話が進まないでしょ。逃げ続けるの?」
「……」
「早く行きなさい!」
「…はい」
追い立てられたマルマは衆目の中で石畳の廊下に飛び出すと、南側。光の射す方へと体を向けた。
「さて、貴重な戦力は欠けたけど、頑張るよ!」
「そうだね」
「見守ってあげますか」
静まり返った食堂。見送ったアビリが声を上げると、口角を上げた仲間たちは仕方ないなと受け入れた――
「ふう…」
「なんだ? 浮かねえ顔だな。悩んでんのか?」
鍬を土に置いたライエルに、ウォレンが尋ねた。
「悩むことはねえ。子供になれよ。女だって意識してたか? 女は少女で、男は少年だったんだぜ?」
「それが、どうだって言うんですか?」
「見た目は大人でも、心は子供と変わらないんだよ。女に花を渡せば笑顔になるし、男は女の笑顔が大好きなんだよ」
「……」
「わかるだろ?」
「……そうですね」
「男はバカなんだから、ありのままでいいんだよ」
助言を口にして、ウォレンは青空の下で鍬を振り上げた—―
太陽の下。飛び出したマルマは北の練兵場に向かった。
「……」
しかしながら、姿が無い。乾いた土塊が広がっているだけである。
続いて城内の畑を見て回り、城壁沿いに探し歩いて都市城門の衛兵に尋ねると、東に向かったと口が開いた。
「ウォレンと、北に行ったよ」
「……」
東側。蜂蜜の採取に向かおうとする一行が、指し示す。
なんだか怒りが湧いてきて、マルマの歩く速度が幾らか上がった。
「……」
北側には、人影が無かった。
林を挟んで流れるウパ川の流水音は、そよ風に揺れる木々の歌声に消えていた。
「ライエルさん?」
声に出してみる。
静かな中で、空しく風に流された――
残るは西側。畑がある。
農作業に繰り出している可能性は確かに高い。
「みつけた…」
かれこれ二時間以上は歩き回っている。
幾人かが集う中。尋ね人が浅黒い肌の男と畑を耕しているのが視界に入って、マルマは立札のように佇んだ。
「おい、行ってやれよ」
「え?」
ウォレンから声が掛かって、上半身裸のライエルが身体を起こす。
視界にマルマが入ると、鍬から両手を放して駆け寄った。
「マルマリータさん! 昨日は、すみませんでした…」
息を切らしながら、青年はマルマの正面から上気した声を発した。
「いえ…こちらこそ…ごめんなさい……」
「え?」
俯いて、茶褐色の髪が垂れ下がると、ライエルが固まった。
「いや……そうですか……」
眉根が落ちて、整った顔立ちには憔悴が浮かんだ。
「え? あ…そういうことじゃなくて…昨日、逃げちゃって…ごめんなさい」
マルマが顎を上げると、ライエルと目が合った。思わず俯いて、彼女はか細い声で説明をした。
「では、昨日の話は……受けて下さるのですね?」
「……」
逃げられない。
一瞬の逡巡を自覚して、マルマは小さく頷いた。
「よかった…マルマリータさん。今夜、ウチに来てください。それでは!」
声は語るに連れて高くなって、最後は右手を上げて微笑んだ。
上半身裸の肉体美。青年は背中を向けて走り去った。
「……」
視線の先で、ウォレンが右手を軽く振っている。心の軽くなった新婦は、茶褐色の髪をぺこりと垂れ下げた――
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