【178.二つの幕舎】
ノヴゴロド。古くはルーシ、現在のウクライナ、ロシア等の源流の地。
「新しい街(城壁)」 を意味する自治国家。
9世紀。スラブ人が居住していた地域にノルマン人のリューリクが北方のバルト海から上陸。スラブ民族を支配して、新たな国家を成立させた――
リューリクの死後、政治の中心はキエフに移ったが、北方の海を介して東ローマ帝国と交易を結ぶノヴゴロドの地は自由な発展を遂げていく。(*)
多くの教会が建てられて、イコン画や聖書といった宗教色の濃いものが生産されると共に、民会と呼ばれる自治制度が生まれ、市井の人々は女子供に至るまで文学を嗜んだ。
旅行記やヴィリーナ集。女性の手記も残されている――
一方で、文化と経済の発展は、収奪の標的となる。
ノヴゴロドの領主ロマンは20歳。前キエフ大公ムスチスラフの息子である。
スーズダリ「大公」を名乗ってキエフの弱体化を図ったアンドレイは、次には西側で隣接するノヴゴロドに徴税という形で圧力を掛け始めた――
「アンドレイの息子がやってくる!」
ノヴゴロドの城市は騒然となった。
ロマンと市長官ヤクンの家屋は塀で覆われて、ノヴゴロドの城市はぐるりと木柵で囲われた。
民会を頂点とする自治体制。対話で以って事を為す――
矜持を示すべく、ロマンとヤクンはアンドレイの息子に書簡を送った――
ノヴゴロドの東側。ヴィテプスクとの国境付近で陣容を整えた遠征軍は、親交を深めながら西へと向かっていた。
スーズダリからは大公の息子ムスチスラフと軍司令官のボリスが派遣され、スモレンスクからは領主のロマンが、リャザンからは領主の息子グレヴィと、尚書のワルフが加わっていた。
「キエフでの活躍、お見事でした」
幕舎の中。焚火を囲った3名が丸太に座って向き合っている――
総大将のムスチスラフが、ロマンのマグに酒を注いだ。
「いやいや、部下がやったことですよ…」
キエフ遠征では派遣する人選に困った。
評議の結果、軍勢は派遣して、適当にやり過ごす予定だったのだ――
ロマンは苦笑しながら杯を受け取った。
「あれは、本当に助かりました。アンドレイの命令とはいえ、私もキエフに傷をつけるのは、躊躇していたのです」
「……」
本当かよ。ロマンはマグを傾けながら蔑んだ。
意気地が無かっただけであろう。決断力に欠ける己を隠すため、一番槍の名誉を買って出る者はいないかと、煽ってみせたのだ――
「キエフに比べたら、ノヴゴロドは与しやすい。一番槍は、お譲り致します。存分に暴れて下さい」
「……」
三人のうち、ロマンは年長者。
涼しい表情で説かれては、ムスチスラフも沈黙するしかなかった――
「何よりも、私たちはノヴゴロドに恨みはない。アンドレイ殿の檄文に応えたが、国交の一環なのは、承知してもらいたい」
「……確かに、そうでしょうね」
ノヴゴロドはキエフの意向を容れている。
近い将来のキエフ大公を自覚する男にとって、自身の評判をこれ以上落とすわけにはいかなかったのだ――
「だが、あなたも苦しい立場でしょう。向かう道中で、加勢を促すくらいは協力いたしましょう」
「それは、助かります」
こうして糧を求める土着の豪族が、略奪軍の前衛に加わる見通しとなった――
「グレヴィ殿は、如何しますか?」
続けてロマンが口を開いた。領主としての格の違い。落ち着いた風格の漂う話し方は、あっさりとこの場の主導権を握っている。
「え? いや…私はこの場に居るだけで充分なのですが…」
格下を自覚するグレヴィは、マグを股下に止めたままで謙遜をした。
「欲の無い事ですな。トゥーラを巡って戦ったのは二年前ですか…勝利したにも拘らず、あなた方は捕虜を丁重に扱った。加えて金銭の受領も断ったとか…」
「そう言われましても、あの城は、私たちの手から離れていますので…」
「あなたは思っても、世間は思っていませんよ」
「……」
突き放すように世情を口にして、ロマンは続けて瞳の色を強くした。
「キエフを巡る時勢の変化はあったにせよ、慈悲を掲げて手打ちとなったのです。思惑通りでは無いのですか?」
「…ご存知かと思います。私の父は、争いを好む人ではありません。ですが停戦の一件は、本当に私たちの息は掛かっていないのです」
「……」
グレヴィが重ねて訴える。
手にしたマグを左の膝に置いたまま、ロマンはしばしの時間を使った――
「その…リャザンから、褒美や恩賞などは送っていないのですか?」
「送っていません。トゥーラをリャザンから離すという考えは、同行している軍師の提案によるものです。もちろん援軍の要請は有りました。私も向かったのですが、既に戦いは終わっておりました」
「……」
「実は、ここへ来る途中、トゥーラに寄って、ロマン様の人民に祈りを捧げてきたのです」
「……私たちの?」
「はい」
「……」
年長者の心に疑念が灯った――
渡河訓練中の事故により、多くの兵が削られて尚、東へ向かったとの報告を受けている。
やがてリャザンの援軍が到着。撤退を余儀なくされたとも――
しかしながら、グレヴィの話では小さな城市が軍勢を退けた事になる。単独で、しかも二人の将軍を葬って――
「その…私達の兵は、どれほど眠っているのですか?」
真実を知るために、ロマンはグレヴィのマグに酒を注いだ。
「どうでしょう…見たところ、二千…」
「二千!」
桁が違う。
どうやら一杯食わされた――
刹那。白い顎髭の杖をついた老臣。
今は亡き前宰相の姿が浮かんで、ロマンの口角は僅かに上がった――
「ロマン様?」
「あ、いや…失礼。弔いの件。礼を言わねばなりませんな。出来るなら、私も弔ってやりたい…」
グレヴィの声に姿勢を正すと、ロマンは小さく瞳を落とした。
「手配、いたしましょうか?」
「は?」
朧な希望を耳にして、グレヴィが善かれと思って口を開いた。
「いやいや…私が行くのは…難しいでしょう?」
ロマンの頭には、二つの難点が浮かんだ。
侵略軍を差し向けた張本人。民の非難は集中するに違いない。
それ以上に、大国が小国に頭を下げる構図を与えては、格の凋落を招きかねない。
「そうですか…」
しかしながら、目の前の年少者の発言は軽いもので、深慮などは無いらしい。
裏付けるように、グレヴィはあっさりと引き下がった――
数十メートル離れた幕舎では、リャザンの宰相ワルフと、スーズダリの軍司令官ボリスとが酒を酌み交わしていた。
スモレンスクの将軍ベインズは、自ら監視役を買って出て、二つの幕舎の間で屹立をした。
「キエフの次はノヴゴロド…ムスチスラフ様も大変ですね」
「ほんとに…」
恰幅の良いワルフが同情を寄せると、すんぐりとしたボリスが苦笑いを浮かべた。
「あの方は、恐らく戦場に相応しくない」
「……」
勇猛果敢な男は、率直に総大将の気性を評価した。
「キエフであの方は躊躇した。友人である、ミハルコ様の顔が過ぎったのであろう」
「……」
ボリスは理由までを述べると、マグを掲げて酒を喉に流し込んだ。
「それが、あなたがノヴゴロドに居る理由?」
「まあ、そうなりますね。私は、大公様に仕えていますので」
「……」
覇権を掲げるアンドレイ。
政治の中心であるキエフに手を掛けて、ルーシの根源であるノヴゴロドを手中に収めたら、反発する勢力は間違いなく委縮する――
『弱い方が折れる。それで平和になる。簡単な解決方法だ』
過去のアンドレイの発言が、ボリスの脳裏を過った。
諍いを鎮める方法として、有史以来繰り返されている手法である。
「キエフは弟に、ノヴゴロドは息子に…アンドレイ殿は、スーズダリに留まるおつもりで?」
「あの方は、聖母のイコンと共にある筈です。あれほどの大聖堂を造って掲げたものを、移動するとは思えません」
「なるほど…」
リアの見地とは違ったが、充分な理由である。
神を容れない彼女には、信徒の思考は分からないであろう。
「ボゴリュービィの地で、静かにお過ごしです。神の啓示のままに…という事でしょうな」
「……」
リアが最も嫌うもの…
権力を有した者が、神となり、或いは神を通して思うところを為してゆく――
<人が居なければ、神様なんて居ないの…>
或る日の彼女の呟きが、脳裏で蘇った――
染まっていなかったワルフの心には、根源たる思考となっている――
「神…」
ワルフはぽつりと呟いた。
神に魅入られた者たちが、悪魔となって牙を剥く――
アンドレイも、また同じ…
倫理と垣根が払われて、尊大は増していく…
(止めるしかないな)
数日前。トゥーラでの幼馴染との語らいを、ワルフは思い出していた――
*政治の中心がノヴゴロドからキエフに移った理由
黒海に注ぐドニエプル川が帝都コンスタンティノポリスとの交易路として大きな役割を果たし、南への進出を加速させた。
結果最初のキエフ大公イーゴリは、キエフを拠点にコンスタンティノポリスに攻め入るほどに勢力を伸ばした――
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