【174.共闘】
1167年3月14日。キエフ大公ロスチスラフの死去に始まったキエフを巡る騒乱は、ジミルヴィチの謀反、スーズダリ大公アンドレイの襲撃を経て、1170年2月現在は、アンドレイの弟グレープがキエフの椅子に座していた――
一面の雪原に白が舞う――
落涙と共に、アンドレエヴィチの棺はドロゴプージを後にした。
「公妃様。ダヴィドとリューリクの兄弟を頼りましょう。ジミルヴィチとは反目しております。必ずや力になってくれるでしょう」
馬橇の御者となったスラヴェンは、キエフの北方15キロ。ダヴィドの所領となっているヴィシェゴロドを目指すことにした。
件の兄弟は、前キエフ大公ムスチスラフに対する裏切りをジミルヴィチから唆されて、一度は乗ってしまうも心を改めた二人である。(*1)
「夫をキエフに…埋葬できるでしょうか…」
「努力いたします」
名君モノマフの後妻の子。
幼い頃に父親が逝去した夫には、キエフ大公の継承権は与えられなかった――
それでも夫はキエフを統べる者の手助けに、何度も戦場へと赴いた――
キエフの大地に眠る事が出来たなら…
情愛を滲ませる公妃の発言に、スラヴェンは最後の奉公を誓った――
ダヴィドは快く一行を受け入れた。
しかしながら、キエフへ赴く事には抗った。
「ムスチスラフの軍勢が迫っている。ヴィシェゴロドを空にするわけにはいかない」
「……」
真っ当な理由である。
庇護の身分では、スラヴェンも承諾するしかなかった。
「ただ、止めはしない。あなた方のみでキエフに向かうなら、ムスチスラフは傍観するでしょう」
「……」
ジミルヴィチは襲ったが、ムスチスラフは自重した――
二人の行動を顧みれば、ダヴィドの発言には根拠がある。
「ですが、キエフの市民は、我々を受け容れてはくれないでしょう…」
スラヴェンは重たい声を吐き出した。
主君の兄アンドレイに便乗する形で、彼らの軍勢も前年にキエフを襲っているのだ。
「でしたら、大公に頼んでは如何ですか?」
解決を図って、ダヴィドはキエフ大公グレープを頼ることにした――
正確には、背後に控えるミハルコの智略を頼った――
「問題ないでしょう」
ミハルコの見解を受け取ると、キエフ大公グレープは洞窟修道院の典院ポリカルプをヴィシェゴロドに派遣した。
「なんと憐れな……ドロゴプージの者たちは丸腰です。天に召された公を憐れむ妃を前にして、争いを起こすなどあってはなりません。ダヴィド様。私が先導いたします。護衛の従士を出していただきたい」
「しかしな…」
ダヴィドは再び渋った。
彼もまた、キエフを襲った一人である。
スモレンスクの軍勢が略奪に飛び込んで、後を追った従士たちを止められなかった――
「グレープ様の尽力により、キエフは以前を取り戻しつつあります。堂々と軍旗を掲げて下さい。『ダヴィド様は悔い改めた』 市民はそのように受け取るでしょう」
「……」
「ムスチスラフは、必ずやキエフの前にヴィシェゴロドを狙います。心をお決めください」
距離は15キロ。ヴィシェゴロドは代々キエフを守護する立場にある。
離れてしまった人心を、再び取り込む好機には違いない――
「それとも、ムスチスラフに加担して、キエフを再び襲うのですか?」
「…わかった。アンドレエヴィチは生涯をキエフに捧げた。我々は一時、彼の軍門に下ろう」
「ありがとうございます」
こうして2月21日の土曜日。
金門から入城を果たしたアンドレエヴィチの葬列を、キエフの市民は感謝の歌を捧げて出迎えた――
葬儀を執り行った典院ポリカルプは、雪の舞い落ちる中、伴侶の涙と共に、彼らの菩提寺である聖アンドレイ修道院に棺を納めた――
翌日、図らずもキエフ大公となり、復興に努めたグレープはキエフを去った。
戦禍を再び起こしてはならない。
アンドレエヴィチの葬儀を見届けると、近郊に迫っていたムスチスラフが動く前に、自らペレヤスラヴリへと退いた――
就任時の期待は矮小であった。
しかしながら、灰燼となった街に善政を施した去り行く背中を、キエフの民は涙を流して見送った――
大公に返り咲いたムスチスラフは、周辺の諸侯と不戦の約定を結ぼうとした。
彼の軍勢も、烏合の衆である。
軍勢の中には、キエフの南西を支配する遊牧民が加わっていた。
古くからの従士はルーシの大地に散っていて、彼の血脈に惹かれた者たちが、報酬を目当てに集ったのだ。
条約締結に要した期間は一ヶ月。
不戦を誓った相手には、ドロゴプージを手中に収めた不逞の輩も含まれていた――
平行してキエフの安定に努めたムスチスラフは、春を迎えてからヴィシェゴロドに攻め込んだ。
ダヴィドはグレープの治世を間近で眺めていたのである。不戦の声には応じなかったのだ。
スーズダリ大公アンドレイのお飾りだった筈のグレープは、ミハルコやヴワディスワフの意見を取り入れて、最大限の務めを果たしていた――
「必ず、助けます」
当然ながら、無策の籠城では無い。
予測をしていたミハルコは、抗うようにと告げていた――
「防御柵を焼き払え!」
城市を囲った防御柵は、必ずしも有利に働く訳では無い。
従士に命じたのは、籠城するダヴィドの側であった――
ヴィシェゴロドは堅牢な城。
加えてダヴィドは歴戦の勇士で、更にはグレープの従士やミハルコの息の掛かった遊牧民も加わっていた。
「迂闊には、近付けんな…」
高台に建つ城壁は、威圧感たっぷりで立ち塞がっている――
松林が左右に広がる街道に陣を敷いたムスチスラフは、恨めしそうに呟いた――
ヴィシェゴロドを包囲して四日目。ムスチスラフの元にガーリチから参じた将がやってきた。
「帰還の命令が届いた。我々は、領地へ戻ることにする」
「なに? 一週間も、経ってはおらんぞ?」
「睨み合いであれば、少数の我々が居なくても良かろう。公からの文もある」
「……」
彼らの目的は、あくまでも戦利品。
文書を示されて、ムスチスラフは受け入れるしか無くなった。
ガーリチはキエフの南西部。
ミハルコが治めるトルチェスクと隣接している――
当然ながら、彼が糸を引いたのだ。
「打って出るぞ!」
星明りの空の下。ヴィシェゴロドの城内で声を上げたのは、ベレンディ人の遊牧民バスチィであった。
時勢を読んで一時はムスチスラフに従うも、彼が本来慕うのはキエフの守護者である。
一連の騒乱が収まってから訪ねると、雪の中で捕縛したにも拘わらず、ミハルコは演じた裏切りだと理解して、笑顔で迎えてくれたのだ――(*2)
「俺も行く!」
遊牧民の族長コンチャクは、殺戮の提案に手を挙げた。
「承知した」
二つの遊牧民が同じ陣営に集うのは珍しい。
思いは同じだと、バスチィは快く彼らを受け入れた――
「行くぞ!」
バスチィの号令に、遊牧民は一斉に丘を駆け下りた。
防御柵を払ったのは、高台を生かした横陣からの突撃を、増幅するためであったのだ――
「敵襲だ!」
油断していた訳では無い。
ムスチスラフは敵の陣容を理解して、松林に広く布陣した諸侯に警戒を怠るなと説いていた。
しかしながら、彼は後衛に居た。
キエフを出たところ。金門の前に陣を敷き、決して前に出る事は無かった――
二つの異教徒は、駆け下りた勢いを利用して、存分に暴れ回った。
更にはムスチスラフの陣営に参加していた遊牧民が計画通りに裏切って、多くの有力者を捕縛した――
朝を迎えると、キエフに退いたムスチスラフの元に一報がやってきた。
「グレープが、遊牧民を率いてペレヤスラヴリを出たそうです!」
「……」
集めた軍勢は、散り散りになってしまった…
思えばキエフの南西は、ミハルコの息が掛かっている――
キエフの守護者である彼は、ムスチスラフがキエフに居た頃も忠義の士であった――
趨勢は、ミハルコに寄っている…
キエフを統べようとする者よりも、安定を望む者を神は選んだのだ――
「撤退だ…」
虚空を仰ぐ。瞳を閉じたムスチスラフは、キエフを後にした。
大公に返り咲いた期間は、二ヶ月にも届かなかった――
撤退するムスチスラフの軍勢を、キエフの司令官ヴワディスワフが追い掛けた。
更にはグレープの軍勢も加勢して、多くを打ち殺し、又は捕虜にして、雪の舞う中で一方的な蹂躙を繰り返した――




