【173.簒奪】
1170年を迎えると、スーズダリ大公アンドレイによってキエフを追われたムスチスラフは、キエフ奪還を目論んだ。
手始めに狙ったのは、キエフの西側ドロゴプージ。
しかしながら、領主のアンドレエヴィチは病に侵されていた――
ムスチスラフは軍勢を二手に分けると、自身はアンドレエヴィチに降伏を促して、一方では周辺の城市を襲って出方を窺った。
「キエフに助けを求めよ!」
ドロゴプージの従士たちは軍議も早々に、キエフに援軍を求める早馬を送った――
「助けると伝えよ!」
お飾りのキエフ大公グレープは、高らかに右手を前にして、従弟の従士に伝えた。
「ありがとうございます!」
感謝を伝えた従士が軽やかに背中を向けると、傍らに立っていたキエフの司令官が寄ってきた。
「なんだ?」
「ドロゴプージは、遠すぎます。キエフの疲弊を考えると、難しいかと…」
「……」
前年3月に灰となり、一年経って初夏を迎えると周辺の城市は遊牧民に襲われた。
軍資金も糧食も足りない状況で、出兵すればキエフの守りが危うくなる――
グレープは、援軍を派遣すると伝えたままで、苦渋の決断をせざるを得なかった――
1月28日。
ドロゴプージを治めていたアンドレエヴィチが逝去した。
ムスチスラフはドロゴプージの城市を包囲していたが、領主に温情を与える形で、惜別の言葉を送って引き返した――
「死んだか…」
一方で、約90キロ南東。ハゲワシのように従弟の死去を望んでいたジミルヴィチが、ポロニィの城市でほくそ笑んだ。
「行きますか?」
「当然だ」
出兵の準備は出来ている。
ドロゴプージは元領地。従士の声に答えると、キエフを狙う野心家は北西へと軍を進めた――
「アンドレエヴィチが亡くなったと伺った。彼とは馬を並べた仲である。お悔やみの言葉を申し上げたい」
ジミルヴィチは軍から離れ、単身でドロゴプージの都市城門に向かうと、衛兵に訪問の理由を伝えた。
「ならぬ!」
訪問者の意向が伝わると、ドロゴプージの城内がざわついた。
鎮まらない空気を、従士長のスラヴェンが振り払った。
「魂胆は明らかだ! あんな奴にくれてやるくらいなら、ムスチスラフに明け渡した方がマシだ!」
二人の従兄。キエフ大公には見放され、ジミルヴィチは簒奪者となって現れた。
濃厚な血縁よりも、血の通った人情を表す好敵手――
ドロゴプージの従士たちが、スラヴェンの言葉に頷くのは自然なことであった――
「どうしますか?」
申し出を断られたジミルヴィチが泰然たる態度で戻ってくると、従士が次の手段を伺った。
「放っとけ。威勢が良いのは、今だけだ」
楔は打ち込んだ――
狡猾な男は深藍の瞳を光らせて、自信満々に未来を予測した――
一週間を過ぎてから、ジミルヴィチはスラヴェンに対して再び使者を送った。
「どうする?」
ドロゴプージの城内では、改めて軍議が開かれた。
城市は包囲されている。
日に日に糧食は減っていて、士気は低下するばかりであったのだ。
そして何よりも、領主の遺体がそのままであった――
「このままにしておくのは、あまりにも不憫です…」
季節は厳冬期。腐敗は遅い。
それでも棺の傍らで、アンドレエヴィチの伴侶は頭を垂れ下げた。
「ジミルヴィチは、なんと言っている?」
「『悪いようにはしない。皆の前で十字架に接吻をして、平和を誓います』 などと申しております」
「……」
援軍の来る気配はない。
誰もが不審を宿しても、選択は一つに絞り込まれて行くよりなかった――
「賢明な判断です。スラヴェン殿」
開いた城門を潜ると、ジミルヴィチは冷笑を含んで従士長を労った。
「そんなに警戒しないで頂きたい。ここは、私の領地だったのです。リューリク朝の同じ血族である私が後任に就いたところで、誰が遺憾に思いましょう」
「……」
冗談じゃない。
闘病の見舞いにも来なかったのは、今は亡き領主様から委任を受ける自信が無かったからであろう――
スラヴェンは心の中で舌打ちをした。
「顔を上げて下さい。公妃様。先ずはあなたの夫。天に召された私の盟友を、弔ってやらなければなりません」
やがて城内に足を踏み入れて、棺の前で頭を落とす公妃を視界に入れたところで、ジミルヴィチは穏やかな声を送った。
「ありがとうございます…」
事態が停滞から変化した。
悪しき方へと転がる予感を抱きながらも、公妃の心は安堵に包まれていた――
夜を迎えると、ドロゴプージの従士以外ではジミルヴィチだけが参加して、弔いの席が設けられた。
皆が献杯を捧げると、故人との思い出話が盛んとなった――
「思えば20年も前になる。時のキエフ大公であった兄の元にアンドレエヴィチがやってきて、共に南へ向かったのだ。その時の出発の地が、ドロゴプージであった」(*1)
「おお…」
「我らルーシの軍勢と、義父の血縁であるハンガリー王ゲーザⅡ世が共闘したのだ。負けるわけがない。鮮やかな勝利であった…」
故人の伴侶と共に上座に座った客人は、赤ら顔で従士たちに主君の活躍を披露した。
「こんな事もあったぞ? キエフ大公と共にガーリチに攻め込んだ時だ。旗色が悪くなったと思って、俺はアンドレエヴィチと一緒に戦場から離れたんだ。仕方ねえよな。他の兄貴と息子までもが逃げ出したんだからな!」(*2)
「セレト川で戦ったやつですね? 公から聞いた事がありますよ? でも、その戦いは勝ったのでは?」
従士長のスラヴェンが、饒舌となった男に相槌を放った。
「おう、知ってるか。それがな。俺たちはサッサと逃げ出して、旗頭のキエフ大公だけが戦場に残っちまったんだよ! ぽつんとな」
「なんすかそれ!」
「ひでえな大将!」
「鬼の形相であいつは戻って来たけどな」
故人の側近たちも、この話には笑顔になった――
皆が酔い潰れた頃。アンドレエヴィチの伴侶は、夫の最期の宴を明るいものにしてくれた盟友に、心からの感謝を伝えたのだった――
朝を迎えると、ドロゴプージの城市は慌ただしいものとなっていた。
深夜まで続いた宴は酒の枯渇を生み出して、客人の兵糧を運び入れる事となったのだ。
「酔い覚ましに、俺も働くか」
運搬を眺めていたジミルヴィチが城外へと足を運ぶと、ドロゴプージの従士たちは慌てて飛び起きた。
「おい、起きろ!」
「んが?」
たらふく馳走になったうえ、身分の高い客人に労働までさせては申し訳ない。
我先にと動ける者は立ち上がって、都市城壁の外へと足を運んだ。
「随分と離れたところに、幕舎を置いたんだな…」
「そりゃそうだ。近くに置いたら、お前らビビるだろ?」
300メートルは離れているだろうか。
ドロゴプージの従士が発した疑問には、客人の従士が皮肉を込めて理由を述べた。
「まあ、そうだろうな…」
戦うつもりはなかったのだ――
高貴な身分が一人で参加した宴を思い起こして、ドロゴプージの従士たちは取り越し苦労だったと苦笑いを浮かべた――
「さあ、どんどん運ぶぞ!」
粉雪の舞う空の下、荷車を牽いたジミルヴィチが鼓舞をして、従士たちを促した。
城外に居た者が糧食を抱えて城内へ。城内で動ける者が城外へ――
「おい! 何をする!?」
突然に起こった喧噪は、示し合わせたものだった。
開いていた都市城門が閉められて、ジミルヴィチの従士たちは荷車に隠していた刀剣を手に取った。
酒を酌み交わした昨晩は、愉しい時間であったのに――
「ジミルヴィチ! 謀りやがったな!」
都市城門の外側を叩きながら、スラヴェンが悔しさを前面に表した。
「言っただろ? 『悪いようにはしない』 ってな。大人しく待ってろ!」
「……」
故人の伴侶が人質となった――
城内からの得意気な声色に、ドロゴプージの従士たちは一縷の望みを託すしか無くなった――
やがてドロゴプージの小さな北門が開くと、アンドレエヴィチの棺を載せた馬橇と共に公妃が姿を現わした。
「公妃様。あなたの伴侶と私は、神の啓示のままにドロゴプージを治めてきたのです。彼が天に召された今、この地を誰が治めるべきか、あなたは理解しているでしょう」
「……」
従士を引き連れて、ジミルヴィチの軍門に降る訳にはいかない――
正面から吹き付ける粉雪の中、衣服を着込んだアンドレエヴィチの伴侶は頷くこともなく、夫と共に城外へと進み出るしかなかった――




