【172.帰国】
西へと向かう帰り道。
何事も経験だからと、幌馬車の御者にはマルマが就いていた。
「リア様は、信頼されているのですね」
「ん?」
アレッタを胸に抱える王妃を眺めながら、ライエルが呟いた。
「ワルフ様から…いえ、リャザンからも…」
「そうなのかな?」
「そう見えます」
二人の関係に、彼の心には羨望が灯っていた――
「私は女だしね。信頼してくれるのは構わないけど、信用してもらうのは、困るかな…」
「どういう…事ですか?」
理解に苦しむ返答がやってきて、ライエルは素直に訊き返した。
「そうね…私に背中を預けるのは構わないけど、斃れないとは思わないで…って事かな?」
「……」
「例えばあなたなら、グレン将軍と背中を合わせて戦っている…信頼できるわよね?」
「はい」
場景を思い描いて、ライエルは頷いた。
「でも、刃を受ける事だってある。斃れないとは限らない。安心はしないでってこと…わかる?」
「なんとなく、わかります…」
事態に備える。確認を怠らない。
感覚的なものは多分にあるが、そういうことだと理解した――
トゥーラに着いたのは、陽が落ちた頃だった。
当然ながら、意図したものである。
女中たちの声が上がるのは、リアにとっては敬遠すべき事象だったのだ。
都市城門の衛兵たちがライエルの姿を認めると、城門を開くと同時に一人が城へと向かって駆けだした。
「お帰りなさいませ」
城の南側。一行を石橋で出迎えたのは、グレン将軍と妻のアンジェだった。
トゥーラの王妃がライエルの補佐を受けて幌馬車から降りると、荷台のマルマから赤子を受け取って、二人の前に足を進めた。
「やっと戻ってこれました。こっちで産むことも考えたのですけど…」
「いえ、リア様とお子様が無事なんですから、何よりです」
アレッタに視線を預けて無念を伝えると、アンジェは快く歓迎を表した。
「あ、抱いてあげて下さい」
「畏れ多いです。リア様。順番というものがあります」
続いて赤子を渡そうとした王妃に対しては、嗜めた。
「お疲れでしょう。早く、ロイズ様のところへ」
「そうですね…」
最後はグレンが促して、リアは城内へと足を進めた。
「私たちは、ここで失礼します」
螺旋階段まで従うと、マルマがぺこりと頭を下げた。
「マルマ、ありがとうね。ゆっくり休んで。ライエルも、ほんとにありがとう」
瞳を合わせて言いながら、リアは思った。
一生のトラウマになったであろう恐怖を、彼との接近が解してくれたのだ――
「はい。おやすみなさいませ」
二人は揃って頭を下げてから、赤子を抱えて螺旋階段を上っていくリアの姿を見送った。
「おかえり」
リアの視線が三階を捉えると、ロイズが待ち構えていた。
「ただいま」
誇らしい笑みが浮かぶのは、女性としての達成感だろうか。
ロイズの元まで足を進めると、赤子をスッと差し出した。
「リア…ほんとに…ありがとう」
アレッタがロイズの両腕に収まると、リアが寄り添った。
「アレッタちゃん。パパですよ」
リアが語りかけると、赤みの入った髪を受け継いだ女の子はまんまるの瞳をロイズに向けて、キョトンとした表情になっていた――
「リア様が、お戻りになったと伺いました」
「うん。戻ってるよ」
地階に移った午前の国王執務室。
平静を意識したラッセルの問い掛けに、机の上で書物を広げていたロイズが短く答えた。
「マルマも来てるみたい。上に居るから、行ってくるといい」
「あ、はい」
存外にも希望が示されて、ラッセルは表情を明るいものとした。
「ラッセルです。リア様、ご無事で何よりです」
足取り軽く螺旋階段を上ると、薄い顔の尚書はノックをしてから訪問を伝えた。
「入っていいわよ」
心地よい…
待ち望んだ声が鼓膜に届くと、彼は失礼しますと扉を押し開けた。
「……」
違和感が、確かに灯った。
柑橘系。彼女の芳香が届かない…
代わりに鼻腔に触れるのは、なんだか乳臭い…幼若たる微臭…
「マルマ。久しぶり…って、え?」
細い瞳に飛び込んだのは、暖炉の前にぺたりと腰を落としたマルマと、膝の上に乗っている赤ん坊の姿であった。
「久しぶり」
「あ…いや、それは良いとして…その子は?」
「子供。可愛いでしょ。アレッタちゃん」
丸い顔は微笑んで、赤子のぷにっとした右腕を掴むと、上に掲げて挨拶をした。
「……え? まさか…マルマの?」
「そんなわけないでしょ」
「じゃあ、だれの?」
「リア様の」
「……」
ラッセルは固まった。
目玉を広げて王妃の方へと顔を向けると、いつもの席に座ったリアから否定の言葉は出なかった。
「あ、逃げた」
ラッセルは開いたままの扉へと、そのまま後ずさりして姿を消してしまった――
「あれ、ショックなんでしょうかね?」
「そうなの?」
「あの男、リア様が大好きですからね…」
「そう言われてもね…」
茶褐色の後頭部を見下ろす形で、リアは片肘をついて顎をのせ、困惑の溜息を吐き出した。
「大丈夫ですよ。ジミルヴィチみたいな大それたこと、あいつには出来ませんから」
「……」
マルマはアレッタを抱えたままで立ち上がると、開いたままの扉をパタンと閉めた――
「リア様。無事に戻られたと伺いました。ライラです」
続いて3階に足を進めたのは、王妃の側仕え。
リアの了承を耳に入れると、木製の扉を押し開けた。
「掃除を毎日してくれたって聞いた。ありがとうね」
「あ。はい」
扉を閉めて振り向いたところで王妃の感謝が届くと、ライラは明るい声で答えた。
「なんか、成長した?」
「え?」
ライラの左側。暖炉の前にぺたりと腰を落としたマルマから、感心の声が上がった。
肩越しにまで伸びた金髪が、そのまま彼女の経験。果ては自信となっているように映った。
「そう見えますか?」
「うん」
「マルマリータさんに言っていただけると、嬉しいです」
年下の先輩。ライラの目標でもある。
背筋は伸びたままで、ライラの頬が綻んだ。
「ところで…そちらのお子様は?」
「子供。可愛いでしょ。アレッタちゃん」
丸い顔は微笑んで、赤子のぷにっとした右腕を掴むと、上に掲げて挨拶をした。
「…ぇ? まさか…マルマリータ…さん…」
ライラの頭には、ライエルと並び立つマルマの姿が浮かんだ――
「お、おめでとうございます!」
混乱は、瞬時に沸点を超過した。
よろっと一歩を下げたかと思うと、背中を翻して扉を開けて、一目散に階下へと駆け出した――
「は!? ちょっと待って! なんでそうなるの!?」
アレッタを抱えたままでマルマが立ち上がると、ライラを追いかけた。
「ちょっとマルマ!」
赤子を抱えたままで降りたなら、更なる混乱を招くに違いない。
制止の声も空しく、マルマの身体は螺旋階段の奥へと消えて行った――
「あ、マルマ! お帰り!」
地階に降りたところで、同僚の声が石畳の廊下に響いた。
「え!? その子なに?」
「マルマの子?」
「可愛い!」
途端に囲まれて、アレッタが泣き出した――
「ちょっと! なんでアンタが戻ると、いきなり騒がしくなるの!」
「ふぇ…」
アンジェが廊下に飛び出すと、皆の歓呼が停止して、アレッタの鳴き声も止まった。
「マルマ、いくら懐いてるからって、王女様をやたらに連れ出すんじゃないの!」
「あ、はい…」
「え!? 王女様?」
「リア様の子!?」
しまった…
アンジェが瞑目し、額に手を置いた。
素性が明らかになって歓喜の声が再び起こると、アレッタの泣き声がトゥーラの城内に響き渡った――
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