【169.強奪】
【登場人物】
リア トゥーラの王妃。宗主国リャザンに滞在中、娘を出産。
アレッタ リアの子供。
マルマ トゥーラの侍女。リアに憧れを抱く。
エフェミア リャザンの10歳に満たない侍女。リアの世話係。
ライエル トゥーラの若き美将軍。護衛としてリャザンに滞在中。
ワルフ リャザンの高官。リアの幼馴染。
ジミルヴィチ キエフ襲撃に失敗してリャザンに逃亡中。妻はハンガリー貴族の娘
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
夜明け前のリャザン城。
書庫へと向かうリアとエフェミアを、マルマは穏やかに見送った。
彼女は赤子の世話係。
天井から伸びる麻布のゆりかごに包まったアレッタは、どうやら表情豊かな丸顔と、暖炉がお気に召したらしい。
「誰か居るね」
2階へと続く階段を通り過ぎて書庫へと向かう途中、小さな松明の明かりが正面から近付いてきた。
書庫の方には厠があって、人の往来が皆無という訳では無い。
「あの…ジミルヴィチ様のお部屋は、どこでしょうか?」
「え?」
リアの持つ松明と声に反応したのか、男の声がやってきた。
「あ…そこの階段を上がって、二階です」
雇った従者だろうか。
腰の低い話し方に、エフェミアの足が壁の方へと一歩を寄せた。
「ありがとうございます。すみません…」
腰を低くして、男は二人の間を抜けようとした。
「あぐっ…」
突然に、男がエフェミアに襲い掛かった。
同時に、リアの首元に両手が掛かって、小さな身体は男の手によって吊るされた――
「リ…」
エフェミアの口元は塞がれて、リアの持っていた松明が石床に転がった。
高い音が二回響いたが、気配は無情にも静寂へと戻っていった――
「ん?」
星明りの下。三つの人影をライエルが捉えた。
彼の任務は護衛である。生真面目ゆえに、監視を怠ることはなかった。
「ジミルヴィチ?」
城内から城外へ、動きがあるならキエフに向かう彼であろう。
しかしながら、リャザン公への挨拶も無い夜明け前の行動には不審が灯った――
人影は、南の都市城門を目指している。
一人が先導役で、二人が担架のようにして何かを運んでいた――
「マルマリータさん! リア様は、おられますか?」
従者用の部屋から飛び出して、ライエルは扉を叩いて確認をした。
「どうしたの? リア様なら、書庫だと思うけど?」
突然の声にマルマが慌てて扉を開けると、整った顔立ちには焦りが浮かんでいた。
「……」
「ちょっと?」
何も言わぬまま、ライエルが書庫へと向かった。
何かが起こったらしい。マルマが松明を掴んで追いかけた――
「リア様!」
書庫へと飛び込んで、男の声が響き渡った。
しかしながら、人の気配はないようだ――
「……」
二階を確認――
踵を返して書庫を飛び出すと、追いかけてきたマルマの姿が松明と共に現れた。
「居た?」
「いや…」
確認の声を交わすと同時に、マルマの足先に何かが触れて、松明の明かりに照らされた金属が平たい石床を滑った――
マルマが覗き込む。左手に持った松明が映し出したのは、見覚えのある銀色のナイフだった――
「リア様の…」
「くっ」
呟きに、ライエルが外へと向かった。
「マルマさんは、ワルフさんのところに!」
「は…はい!」
背中に了承を伝えると、マルマはナイフを拾い上げてから立ち上がり、リャザンの重臣の元へと向かった――
「ジミルヴィチが、来なかったか!?」
リャザンの都市城門。
愛馬を駆ったライエルが、衛兵に尋ねた。
「伝え忘れた事があると、出ていかれました」
「一人か?」
「いえ。従者が二名…」
「馬は?」
「ジミルヴィチ様だけが…」
「荷物を抱えていなかったか?」
「そういえば…」
「至急の要件がある! 出る船があったら、止めてくれ!」
「はあ…」
「ワルフ様の案件だ!」
「は。はい!」
馬で女性を攫うなら、腹這いで馬体に括るか騎手と背中合わせに縛るだろう。
食料の確保も困難で、最後は船を使ってオカ川を遡上するに違いない――
二手の合流地点を意識して、星明りの注ぐ中、ライエルは南へ向かって馬を駆け、衛兵は仲間を率いてオカ川へと駆け下りた――
15分も駆けた頃、ライエルが振り返ると、城の辺りで松明の明かりが上下に蠢いているのが視界に入った。
川辺の民は操船に長けている。
遅かれ早かれ、船なら救出できる筈――
地平線まで輝く星明かり。
わずかな擦れも見逃さないように、ライエルは人馬の影を探りながら西へと急いだ――
アレッタ…
薄らぐ意識の中で、王妃は娘の名前を呼んでいた――
どれくらい経ったのか…
身体が揺れている。身動きが取れない。
宙に浮いた足先は、冷気に晒されている。
頭頂から上半身を覆われて、肘は腰の辺りで動かない――
小さな唇は、息苦しさを。
涙の溢れる二つの瞳は、漆黒だけを映し出していた――
助けて――
小さな身体は、ただそれだけを願った――
「いた!」
単騎と二人。馬の負担も明らかに違う。
月明かりの地平線を、一つの漆黒が南西へと真っ直ぐに駆けていた。
主君からの任務は、唯一つ。
欠けたなら、万死に値する――
視線を上げたライエルは、ひときわ輝く赤い星を標と認めると、手綱を前へとしごいた――
「ジミルヴィチ!」
逃さない距離まで迫ったところで、声の限りに狼藉者を呼び止めた。
「ちっ 早いな…」
逃れることはできない――
手綱を絞って馬の足を緩めると、ジミルヴィチは追手の並走を受け容れた。
「リア様を返せ!」
「……」
続いて剣を抜いたライエルが、切っ先を男に突き付ける。
背中に麻袋が括られて、白い素足が星明りに輝いていた――
「高貴な血筋に、剣を向けるのか?」
「知るか! その方を守ることが、俺の任務だ!」
「……」
「止まれ!」
「ち…」
若い護衛の力量は、リャザンでも認知されている。
軍師の強奪を諦めたジミルヴィチは、短剣を取り出すと、肩から襷に掛けた麻縄と、腹部の結び目付近を断ち切った。
「あばよ!」
捨て台詞を残すと、男の背後から麻袋がずり落ちて、ドスンと地面に転がった。
「リア様!」
手綱を絞ったライエルは、御した馬を翻して馬体から滑り降りると、袋から覗く白い素足の元へと駆け寄った。
「ご無事ですか!」
言いながら、剣の切っ先で麻縄を断ち切って、上半身を覆った麻袋を外した。
「……」
小さな身体は、王妃様。安堵が灯る。
折れそうな肩を支えたライエルは、呼吸を認めて長い一息を吐き出した――
しかしながら、意識はない。
地面に落とされた瞬間、微かに痛みの声が聞こえた――
「リア様!」
呼び掛ける。
冷気を纏った空気の中で、ライエルの声が響き渡った――
「……」
星明かりに浮かぶ白い頬。右腕が支える重みの中で、うっすらと瞼が震えた。
ライエルは、双眸に喜びの涙が滲むのを感じた――
「リア様!」
「あ…」
真っ暗闇だった視界に、ほんの微かな星明かり――
リアが認めた顔影は、彼女が望んだ男に映った――
「ロイ…ズ…?」
「良か…」
「ロイズぅ! 怖かった! 怖かったよぉ!」
男の衣服を両手で掴むと、リアは胸に縋って恐怖を吐き出した。
「……」
戸惑うも、ライエルは勘違いを受け容れて、小さな身体を包み込むように抱き締めた――
決して力強いものではない。
躊躇いを、多分に含みながら――
「もう、大丈夫です…」
咽び泣く王妃を胸にして、若い忠臣は安泰を口にした。
「ん…」
次の瞬間、王妃が胸を離れると、両手が頬に伸びてきて、同時に唇が合わさった――
「お…王妃様!?」
焦りに襲われて、男は思わず仰け反った。
「私です! ら…ライエルです! ロイズ様ではありません!」
「……え?」
ライエルの眼下には、上目遣いの大きな瞳。
泣き崩れた表情が固まると、夜明けを舞台に戸惑いの声が零れた。
「え? え!? ライエル?」
「はい…」
仰け反った上半身は、地面に触れた両手が支えている。
「そ、それは…ごめんなさい!」
みるみる顔を赤くして、王妃は俯いた。
「いえ…」
肉厚な唇の感触――
全身を羞恥が纏う中、ライエルは精一杯の声を発した――




