【170.道】
【登場人物】
リア トゥーラの王妃。宗主国リャザンに滞在中、娘を出産。
アレッタ リアの子供。
マルマ トゥーラの侍女。リアに憧れを抱く。
ライエル トゥーラの若き美将軍。護衛としてリャザンに滞在中。
ワルフ リャザンの高官。リアの幼馴染。
ジミルヴィチ キエフ襲撃に失敗してリャザンに逃亡中。妻はハンガリー貴族の娘
アンドレイ キエフを見限ってスーズダリ「大公」を名乗る。キエフを灰にした
新たな朝。白い陽光が乾いた平坦な大地を照らし出す――
精悍な顔つきをした若者は、任務との狭間で揺れていた。
「リア様、戻りましょう」
寒空の下、立ち上がったライエルが、地面にへたり込んだ王妃を見据えることなく促した。
「そうね…」
襲われた恐怖は、羞恥心によって随分と緩和した。
気を取り直した王妃はよろめきながらも立ち上がって、一歩を前に踏み出そうとした。
「あ…」
前のめりに崩れた小さな身体を、ライエルの両手が支えた。
「ありがとう…」
「いえ…お怪我は、ありませんか?」
「痛みはあるけど、大丈夫」
気恥ずかしい空気が纏う中、言葉を交わした二人は大人しく佇んでいる栗毛馬へと足を進めた。
「どうぞ」
「ありがとう」
王妃の騎乗を助けるために、ライエルが片膝を落として右腕を差し出すと、王妃はそれを踏み台にしてひらりと馬に跨った。
「後ろに…乗る?」
「いえ…」
「……」
手綱を手にした青年に声を掛けると、恐縮の声が戻った。
「いいから乗りなさい。冷えちゃうでしょ!」
二人とも、軽装である。
ばつの悪さと冷え込む大気。
天秤に掛けたなら、王妃が後者を嫌うのは当然の選択であった――
「明かりが…」
探索が始まったらしい。
二人の視界に映っていた炎の集まりが、手前にゆっくりと動き始めた。
愛馬の四肢に合わせて身体が揺れる。
両腕の中に納まる女性は、王妃様で二人目――
初めては、往路であった。
赤みの入った髪の毛の中心を眼下に捉えながら、ライエルは茶褐色の髪色を脳裏に浮かべた――
「リア! 無事だったか!」
最も動きの速い明かりの一つに向かうと、やがて馬上にワルフが現れた。
喜びと安堵に迎えられ、リアの心に羞恥と感謝が沸き起こった。
「ありがとうね…ワルフ…」
穏やかを意識して、お礼を述べる。
背中に感じる若々しい肢体も、彼女の前向きを助けた。
「ジミルヴィチは?」
「西へ、逃げました」
「そうか…」
問い掛けにライエルが答えると、落胆の声が吐き出された。
客人への狼藉は、リャザンの立場からも看過できるものではない。
「ライエル殿。リャザン公グレプに代わって礼を述べる。ありがとう!」
「いえ…」
馬を翻して馬体を並べると、ワルフは心からの感謝を伝えた――
「リア…」
「なに?」
リャザンに戻る途中、ワルフが正面を見据えたままで口を開いた。
「お前が自由に振る舞うのは、俺もロイズも覚悟の上だ。しかしだな…お前は本当に自覚が足りない。リャザン公のグレプ様。上級士官のデディレツ様。勿論俺も。お前には、一目置いているんだからな? 少しはいろいろ自重しろ!」
「……そんな事を、言われても…」
苦言が呈されると、やりきれない感情がリアの胸に灯った。
「城の中で襲われるなんて、思うわけないでしょ?」
「……確かにな」
「……」
「やっぱり、リャザンの護衛も付けるべきだったかな…」
認識が甘かった。
反省を伝えると、ワルフは続いて先の見通しを語った。
「今日の動きで、お前がルーシの大地に認知される可能性がある。いいか? 用心は、絶対に怠るなよ?」
「アンタね…それ、誰のせいだと思ってんのよ…」
「それは…すまん。それでもな、お前が埋もれたままなんて、俺は納得いかんのだ!」
「……」
「ルーシの大地に、トゥーラの治世を広めてくれ!」
「何それ? 布教でもしろってこと?」
「……」
「私は、穏やかに暮らしたいの! それとも、広めるために軍を起こせって言いたいの?」
「……」
本末転倒。
脳裏に浮かんで、ワルフは言葉を止めた。
「あんたこそ、リャザンをなんとかしなさいよ!」
「はあ?」
攻守交替とばかりに、リアが口を開いた。
「スーズダリで、なんかした? 親睦を深めて、帰って来ただけ?」
「そんなわけあるか! ノヴゴロドへ視察に行ったり、あっちの内情は探ってきたんだぞ?」
「そういう事じゃないわよ! 今のリャザンの立ち位置は、アンドレイの言いなりじゃない! グレプ様は、それで納得しているの?」
「…いや…納得は…していない…」
「だったら、釘でも刺してきた? なんか理由でも作って、スーズダリとは距離を置きなさいよ!」
方針が見えない宗主国の現状に、安定を望む属国の公妃が往く道を示した――
「なあ…お前、トゥーラに帰るのか?」
「はあ? 帰るに決まってるでしょ!」
ルーシの為にも引き留めたい…
想いが滲んだワルフの声を、リアは冗談じゃないと突っ撥ねた――
「……」
宗主国の重臣と、対等以上に渡り合っている――
眼下で声を弾ませる小さな女性の価値を、ライエルは随分と高い位置へと改めるのだった――
リャザンの都市城門を潜ったところでマルマの泣き顔が視界に入ると、ライエルの助けを借りたリアが下馬をした。
「リア様ぁ!」
小さな身体に飛び込んで、泣きじゃくる。
二人の姿にワルフもライエルも、リャザンの衛兵たちも温かな心を灯した――
「いい加減に…ヒクッ…して下さい…」
涙が枯れた頃、マルマが想いを吐き出した。
一度ならず二度までも…
何度も泣かせないで下さいと、胸に縋りついて懇願をした――
「ごめんね…」
自らの失態だった前回と違って、落ち度は軽微である。
それでも茶褐色の髪の毛を抱えながら、小さな王妃は呟いた—―
翌日の正午過ぎ。地階の一室で、トゥーラの王妃はハンガリー王との繋がりを持つジミルヴィチの伴侶と向き合っていた――
「私は、反対したの…ごめんなさい」
「……」
開口一番、高貴な女性は手指を膝にして、濃茶の長い髪を垂れ下げた。
「ちゃんと、説得して力になってもらうべきよね…それでもね、ひと月は待ってもらったの…」
「……」
出産後。母体を気遣っての発言だったが、リアの胸中では怒りと呆れが交差した。
「怖かったでしょう?」
「……はい」
無言でいるわけにもいかないと、仕方なく口を開いた。
「子供の顔が、浮かびました…」
リア自身も、驚いた。
遠のく意識の中で、アレッタの破顔が浮かんだのだ――
刹那。気力でナイフに手が伸びて、マルマに危胎を報せる事ができたのだ――
「女はね、女になった時、女であることから逃れられないの…」
濃茶の眉尻が下がって、憂いの表情が示された。
「力も、穢れもそう…それでも、子供を想う心は、男には絶対に負けないから…」
続いた言葉には、覚悟と無念が覗いた――
「それでもね。あの人の行いを、私は責めることができないの…」
「……」
あくまでも、謝罪は苦痛を与えた行為に対して。
その一方で、妻としては夫の方針を認めている――
そんなふうに映った。
「あなたを右腕にして、キエフを獲った後に、戻すつもりだったと思うのね…」
「……」
「ごめんなさい。あなたには…迷惑な話よね…」
足りないものは、奪い取る――
軍師として。或いは、側室を兼ねる形で――
伴侶の思惑を、妻が静かに語った――
「迷惑です! 私は、トゥーラで穏やかに暮らしたいのです!」
対立なのだと受け取って、小さな身体は思いを吐き出した。
「それは、あなたの信念なの? 勿体ないわね…」
「そんな事を、言われても…」
「貴女が羨ましい。あの人が求めるほどの才覚が、私には無いもの…」
「……」
「それに、ルーシの安定があればこそ、あなたの願いは叶うのではなくて?」
「……それは、そうですけど…」
「だったら、キエフに来なさいよ」
「……」
夫と妻は、同じ願望をリアに語った――
「あなたは、自分の信念の為に、犠牲を払う覚悟があるの?」
「……」
なんだろう… 犠牲とは? 脅しであろうか…
疑ってみたが、彼女の物言いは違うように思えた――
それでも高尚な佇まいから、二人の根幹は窺えた――
<キエフに座るためなら、私達はどんな犠牲だって厭わない――>




