【168.産声】
【登場人物】
リア トゥーラの王妃。宗主国リャザンに滞在中。妊婦。
マルマ トゥーラの侍女。リアに憧れを抱く。
エフェミア リャザンの10歳に満たない侍女。リアの世話係。
ワルフ リャザンの高官。リアの幼馴染。
ジミルヴィチ キエフ襲撃に失敗してリャザンに逃亡中。妻はハンガリー貴族の娘
細腰の侍女 リャザンの侍女。10代半ば。ジミルヴィチと関係を持つ。
アンドレイ キエフを見限りスーズダリ「大公」を名乗る。1169年キエフ襲撃
「グ・・・ぐぇ・・・だ・・・」
「リア様! 頑張って下さい!」
天井から吊るした麻布を両手に掴んで、リアの小さな身体が一つの命を産み出そうとしていた――
ベッドの周りでは産婆が駆け付けて、マルマが無我夢中で声を掛け、エフェミアが十字架を握って必死の祈りを捧げていた――
「頭が見えます! もう少しですよ!」
「ぎぃ・・・ぐ・・・」
「リア様! 死んじゃダメです!」
「死に…そう…」
「ダメです! が、頑張って下さい!」
「く…ぐ…」
「はい出たー」
歓喜が上がる。
安堵の空気と共に、新たな生命が希望の産声をルーシの大地に響かせた――
「リア様! 産まれましたよ!」
「……」
「生きてますか!?」
「大丈夫…」
「公妃様。元気な女の子ですよ!」
新品の麻布に包まれて、リアの視界に赤子がやってきた。
「わたしの……子供?」
わんわんと泣いている。
「……しわくちゃね」
「ふふ。頑張りましたね」
初見の感想に、産婆の一人が微笑んだ。
「マルマ」
「はぃ…」
「私もあなたも、こんなふうに産まれてきたのね…」
泣きじゃくっている丸顔には、鼻水も垂れている。
「エフェミア…お母さんって、凄いわね…」
「はい…」
感動に震える少女もまた、十字架に涙を落とした――
出産から三日後。
体力回復に努めるリアの元に、リャザンの幼馴染が久しぶりに姿を覗かせた。
アンドレイのキエフ遠征に従ったのち、彼は戦後の修好に努めるべくスーズダリに派遣されていた。
無為に滞在していた訳では無い。
遠くノヴゴロドの地へと赴いて民会による自治権を体験したり、スーズダリの将官と酒を酌み交わして将来を語ったりと、情報収集と人脈確保に明け暮れていたのだ。
中でもスーズダリの軍司令官ボリスとは気が合って、親睦を深めた。
二人での酒の席。ボリスは大公アンドレイの寛容。利発。そして孤独を口にした――
「リア、大丈夫か!?」
エフェミアによって開かれた扉を潜るなり、ワルフは上半身を起こしてベッドで佇む幼馴染を気遣った。
「何が?」
「いや、戻ってきたら、お前の体調が優れないって聞いてな…って、その子はなんだ?」
リアの胸元で、赤子が乏しい髪の後頭部を覗かせている。
思わぬものが目に入って、ワルフが尋ねた。
「子供だけど?」
「いや…見りゃわかるけど、誰の?」
「私の」
「は?」
「あなたが居ない間に、産んだのよ」
「え? …誰が?」
「私が」
「な……な、なにいぃぃ!」
ワルフの驚嘆は、リャザンの城内に響き渡った。
「ふわ。ぶわああああん!」
「起きちゃったじゃないの!」
「あーアレッタちゃん。びっくりしちゃったねぇ。大きな人は怖いよねぇ」
泣き出した赤子をひょいと抱えると、マルマが暖炉の前へと連れて行った。
「え…ちょ…おま…」
「びっくりした?」
「す…するわ!」
「私もびっくりした。私の身体から、あんな大きなのが出てくるなんて…」
「……」
生命の神秘。
それすらも興味の対象として捉える発言に、ワルフは冷静を取り戻した。
「馬と比べたら、同じようなもんだろ」
「言われてみれば…」
「……」
穏やかな午後の時間。
初恋の女性が母となり、男は恋慕が萎れていくのを自覚した――
「それで、名前は?」
「アレッタ」
「……」
「良い名前でしょ」
「そ…そうだな…」
良い名前…には違いない。
戸惑いを覚えたワルフの左から、赤子を抱えたマルマが口を開いた。
「女の子だったら、決まってたみたいですよ?」
「だって、私の子供なんだよ?」
「……」
大きな瞳の上目遣い。
同意を求められて、ワルフは戸惑った。
「皆に、愛されるように…」
「……そうだな」
それでも、続いた言葉には同意した。
子供の頃。同じ名前であった母親は、皆に愛されていた――
「ジミルヴィチ様…」
「おう。どうした?」
リャザン城の2階。
トゥーラの公妃に赤子が生まれた頃、ジミルヴィチの元に細腰の侍女が姿を現した。
彼女はハンガリーからの正妻を瞳に入れると、脆い野心は沈下して、侍女の立場を全うする道を選んでいた――
しかし――
「ジミルヴィチ様のお子が、お腹におります…」
「なに!? ほんとか?」
「はい…」
「それはでかした! 立派な子を産んでくれ!」
「え?」
立ち上がった男の両腕が、細い肩に伸びてきた。
しかしながら、慶びの声は聞こえても突き放すような言い方に、腹部から両手を離した侍女は戸惑いの声を発した。
「…キエフへ向かうのは、いつですか?」
「もうすぐだ。下に居る女が、落ち着いたらな」
男は一歩を引いて、視線を外さずに答えた。
「トゥーラの…公女様ですか?」
「そうだ。あいつを連れて行く」
「私は?」
首を伸ばした幼い侍女は、縋るように尋ねた。
「……お前は、ここで元気な子供を産んでくれ」
「そんな…私は、あなたを支えると誓いました!」
侍女が重ねて訴えると、男は小さく首を左右に振った。
「私は、何度も流浪の民となっている。お前と子供がリャザンにおれば、戻る理由ができるのだ」
「……」
「後ろ盾となって、俺を支えてくれ!」
「……」
深藍の瞳が真っ直ぐに刺さっては、受け容れるしかなかった――
当然ながら、彼の発言は偽りではない。
未来への備えを拡げる事は、彼なりの乱世を生きる術なのだ――
「あの…トゥーラの公妃様?」
「はい」
出産から1週間も経った頃、リアは書庫から戻る途中でジミルヴィチに仕える侍女から声を掛けられた。
「出産、おめでとうございます」
「ありがとう…あ…もしかして、あなたも?」
両手を腹部に添える侍女に気が付いて、赤髪の公妃が声を返した。
「はい…」
「えっと…ジミルヴィチ様の?」
「はい…」
「おめでとう…で、良いの?」
「はい。望んだので」
「そう…」
リャザンの従士より、富と名声、権力を有する相手を選ぶのは自然なこと――
欲望と、一時の快楽に溺れるのも仕方がない。
覚悟の宿った返答に、リアは安堵を口にした。
母が望んだ子であれば、産声は慶びで迎えられるに違いない――
自身が、そうであったように――
「ただ、あの方は、キエフに向かうので…」
「みたいね…」
「公妃様も、行かれるのですか?」
「そうね…冬が来る前には、出ようと思ってる」
「そうですか…」
キエフに向かうのだと誤解して、幼い侍女は視線を落とした。
「報せを愉しみにしてるから。先ずは、無事に子供を産んで」
「はい。ありがとうございます」
あまり接点は無かったが、寂しく思ってくれるのだろうか。
リアが穏やかな言葉を渡すと、妊婦の頬は確かに綻んだ――
「なんか、二階から荷運びをしてますね…」
従者が階段を行き交って、机などの調度品を運んでいる姿を見かけたマルマが部屋に入るなり、ベッドで寝ころんで書物を開いているリアに報告をした。
「キエフに向かうのかもね…」
出産の数日前、ジミルヴィチとの会話でポロニィに向かうと告げられたリアであったが、すっかり忘れ去っていた。
「ついてこい」 と言われたような気はするが、その後の沙汰はないままである――
「厄介毎は、減りそうですね」
「そうね…」
二階に向かう用事は、少なくとも無くなりそうだ。
やれやれと放ったマルマの声に、母となった公妃は同じ見通しを口にした――
「それでは、無事の到着をお待ちしております」
「ああ。お前らもな」
リャザンの都市城門を出たところ。
冬の訪れを思わせる太陽の傾きを前にして、ジミルヴィチは先にポロニィへ向かう従士と言葉を交わていした。
「出立は、いつ頃ですか?」
「今夜にでも」
いよいよキエフに足を戻す。
継承権を剥奪された男は、善は急げと涼しい顔で計画を伝えた――




