【167.探り】
【登場人物】
リア トゥーラの王妃。宗主国リャザンに滞在中。妊婦。
マルマ トゥーラの侍女。リアに憧れを抱く。
エフェミア リャザンの10歳に満たない侍女。リアの世話係。
ジミルヴィチ キエフ襲撃に失敗してリャザンに逃亡中。妻はハンガリー貴族の娘
ユーリー 現在のロシアの首都モスクワを築いた人物(1157年没)
「夏が終わる…私の夏が…」
初秋の訪れを、寝起きの冷気で悟ったトゥーラの王妃は、横向きで眠っていた状態から目を覚ますなり、短い夏を嘆いた。
「私たち、昼食の時間なんですけど…」
冷たい視線をリアに向けたのは、テーブルを挟んでエフェミアと向かい合う、トゥーラの丸顔の侍女だった。
マルマは顔以上に大きな丸パンを半分齧った状態で左手に、エフェミアは外周だけを齧って白になった丸パンを、両手で支えるように掴んでいた。
怠惰な妊婦は24時間の監視付き。
膨らんだお腹で動き回ろうとして、眩暈を起こして崩れそうになったところをマルマに支えられたのだ。
「暖炉、用意しますか?」
妊婦を起こすために立ち上がったマルマの背後から、エフェミアが問い掛けた。
「まだ8月なのに…負けた気がする…」
「何言ってるんですか! エフェミア。薪を運んできて!」
「はい」
振り向いたマルマの声に、小さな側仕えは急いで部屋を飛び出した――
やがて暖炉に火が入って、椅子に座った妊婦が両足を投げ出すと、マルマが脹脛を両手で掴んだ。
「ありがとうね」
「痛かったら、言って下さいね」
妊娠後期。リアの両足は腫れたようにむくんでいた。
前屈みになることが難しい。
寝起きから就寝前に至るまで、マルマが擦ったり、適度な力で揉んでくれる。
身体的な心地よさは勿論のこと、献身的な行動、気遣いによって王妃の心は癒されていた――
「新しい書物、お持ちしました」
「ありがとう」
リャザン公妃エフロシニアの元から戻ったエフェミアが、薄いヴィリーナ集をリアに手渡した。(*1)
「どうして、書物を読まれるのですか?」
貪るように読書を重ねる公妃に、小さな側仕えが尋ねた。
「そうねえ…未来を知るため? かな?」
「……」
返ってきた答えには、困惑が灯った――
「昨日までを知らなかったら、明日の事は分からないでしょ?」
「……」
憧れの女性――
柔らかな声が頭上から注ぐと、マルマの手指が止まった――
それから一時間後。
机を挟んで二人の侍女は勉強中。拙いながらもマルマの先導で、エフェミアが丁寧に聖書の羊皮紙を捲っていた。
エフェミアと同じ歳のころ、家族で書物と向き合った――
二人に視界を預けると、これから母となるトゥーラの王妃は、穏やかな団欒のひとときを思い起こした――
コンコンコン。
扉をノックする音が聞こえると、聞き覚えのある声が続いた。
「ジミルヴィチ様が、お呼びです」
「……」
安穏が終わりを迎えると、やがてマルマの憤慨が石畳の廊下に響き渡った。
「なんなんですかあの人! ただの一般人でしょ!? リア様は、大事な身体なんですよ!?」
大公の継承権などというものは、アンドレイのキエフ侵攻によって霧散した。
しかしながら全く振る舞いの変わらない厚顔に、彼女は嫌悪を表わした。
「一般人ではないでしょ…リューリク朝の血筋は消えないんだから…きっと、動きなさいって事なのよ」
恐らくは、妊婦を案じてハンガリーの伴侶が進言したのだろう。
階段の上。
レンガ造りの壁に左手をあてがいながら、赤髪の王妃は経験に基づく配慮に感謝した――
二階の客間の扉が開くとジミルヴィチの妻がいて、リアだけを部屋に通してソファを案内すると、大事な話だからと彼女も部屋を後にした。
「悪かったな」
パタンと扉が閉まると、静寂の中で正面に座る深藍の瞳がリアを覗いた。
「そろそろか? 妻に代わって礼を言う。随分と救われた」
「いえ、こちらこそ…」
膨らんだお腹に視線が移ると、殊勝な言葉がやってきた。
意見を借りたいという話なのだと理解して、トゥーラの王妃はソファに深く背中を預けた。
「すみません。この方が、楽なもので…」
「構わん」
「それで、お話というのは…」
「お前が子供を生むのを待って、俺はポロニィへ向かう」(*2)
「……」
唐突に、彼の決意が示された。
しかしながら、返す言葉が見つからない。
そうですか…
けだるい中で、リアは心で呟いた。
「お前、ついてこい」
「……」
理解が追い付かない。何を言っているんだこの人は…
「考えといてくれ。嫌だといったところで、連れていくけどな」
「は?」
横暴が示されて、ようやく声が上がった。
「舞台を用意してやると言ってるんだ。お前の力で、ルーシの愚かを止めろ!」
「……」
「トゥーラの公妃? なんだそれは! リャザンに居て何になる? キエフに来い!」
「……」
「話は、それだけだ」
要望だけを吐き出すと、キエフ大公の継承権を数か月前まで握っていた男は立ち上がり、丸顔の侍女を呼びつけた――
「……」
地階へと至る階段を、マルマに支えてもらいながら降りてゆく。
「何か、言われたんですか?」
「…そうね。今は、考えられない話をね…」
察したマルマがリアを案じると、疲労を溜め込んだ妊婦は与太話の忘却を決するのだった――
夕方を迎えると、トゥーラの王妃はジミルヴィチの伴侶の訪問を受けていた。
「ごめんなさいね」
暖炉の前。テーブルを挟んでリアと向かい合うハンガリー出身の高貴な女性は、二人の侍女が部屋から退くと、真っ先に謝意を表した。
「あの人のこと、悪く思わないでね…」
「……」
夫の言動を、彼女は理解している――
芯の強さを覗かせて、両手を太腿に置いた女性は夫の弁護を図った。
「世間はムスチスラフを讃えているけど、私たちにとっては仇敵だから…」
「……」
1159年。キエフの争いを制した一番の功労者にも拘わらず、十字架接吻の誓いを守り、叔父であるロスチスラフに大公を譲った男――
キエフ大公となった現在は、スーズダリ大公アンドレイが放った軍勢により、キエフから退いている――
「あの人と結婚して5年も経った頃でしょうか。ユーリーのキエフ大公就任に伴って、義母はキエフを離れることになりました。夫の妹は、ハンガリーの王妃です。それで私からも、王妃殿下の元へ身を寄せるよう、申し上げたのです」
「え? ちょっと待って? 王妃殿下? ハンガリー?」
唐突に、リアの頭脳が大きな話で覆われた。
「御存じなかった? それではもう一つ。私の父は、ハンガリー王ゲーザ殿下の叔父でして、今は殿下を支えておりますよ?」
「……」
ハンガリー貴族の娘と認知するも、王室と繋がりがあるとは思わなかった。
普段の身なりは質素であるが、漂う気品と所作の美しさはリャザン公妃エフロシニアをも凌いでいた。納得である。
小国の妊婦の為に、彼女は何度も高貴な足を運んでくれたのだ――
「あの人の名前は、ご存じですか?」
「ウラジーミル…」
「そうです。あなたたちルーシの民が名君と崇める義祖父。ウラジーミルⅡ世モノマフの名を、義父が与えたのです。あの人がキエフに拘る理由でもあります。私たちは、キエフに座る資格があるのです。いえ、義父の為にも、座らなければなりません」
「……」
凛としたオリエンタリスのような佇まいから、強い決意が溢れ出た。
夫を支える彼女もまた、ルーシとの繋がりを望むハンガリーの意思を担っているのだと理解した――
「ムスチスラフは、世間が思っているような善人ではありません」
続いた発言は、烈しい提訴を表した。
「ハンガリーへと義母を送る途中、私たちはあの男に襲われたのです」
「え…」
「義母は、義父にとっては後妻です。ムスチスラフと血の繋がりはありません。私と義母はあの男に捕まって、ハンガリーから持参した宝物は、総てが奪われました…」
「……」
「兄の立場を利用して、護衛だと近付いて、夫を騙したのです」
「……」
リアの中で、埋もれていた疑念が浮上した。
ムスチスラフのキエフ大公就任後、ギリシャの交易商人を守るために行った遠征先で、兄弟が離反した理由――
世間では従弟二人の早とちりが原因だと言われているが、大公に反旗を翻すほどになった切っ掛けが、狡猾な傲慢だったと思えば合点がいく――(*3)
「それでも、私の夫は我慢したのです。それでもこの土地の人間は、愚かを繰り返した…」
「……」
「もう、我慢できなかったのです…」
彼女が悔しそうに語るのは、世間が糾弾するムスチスラフの大公就任直後に起こした謀反のことであろう――
世間の中に、当然リアも含まれている――
唖然として、同時に愚かさを思った――
彼女は襲撃に遭ったのち、義母と共にハンガリーへと送られた筈であるが、虜囚の身でどのように過ごしたのだろうか…
高貴な身体の穢れが浮かんで、リアは咄嗟に打ち消した。
「今の夫には、助言をする者がおりません。全力で支えてまいります。どうか、どうか私たちの力になって下さい」
「……」
言葉のあとで、高貴な女性の頭頂部が覗いた――
その日の夜。
トゥーラの王妃は侍女のエフェミアを伴って、書庫から自室に戻ろうとしていた。
二冊の本をエフェミアが、小さな松明をリアが左手に持って、窓から注ぐ月明かりの下、石畳の廊下を歩いていた。
朝の寝起きが悪いのは、当然ながら深夜に目覚めて夜明け前まで起きているから。
日が落ちて、朝まで眠れる筈も無く、中世の人々は夜中に起きて、女性は家事の時間に充てていたのである。(*4)
「おい」
「きゃあっ!」
突然に、背後から野太い声が掛かってエフェミアが振り返り、リアは一歩を前に跳んでから振り向いた。
小さな右の手指は、腿に備えたナイフに触れている――
「すまんすまん。脅かして、悪かったな」
見開いたリアの大きな瞳が捉えたのは、両手を胸の前で広げて苦笑いを浮かべる男の姿だった。
「ジミルヴィチ様! びっくりさせないで下さい!」
落としてしまった書物を抱えると、小さな侍女が見上げながら訴えた。
「すまんすまん。トゥーラの公妃よ。顔が怖いぞ」
「……」
背後からの気配が無かった…
足を前後に構えたままの妊婦は、戦場を駆けてきた漢だけが放つ妖異な雰囲気に、義父であるルシードを思い浮かべた――
「妻が、なにか言ったらしいな。たまたま部屋を出たら、姿が見えたからな。礼を言いたくてな」
「礼? ですか?」
「リャザンであいつが心を見せるのは、あなただけらしい」
「それは、光栄です…」
エフェミアの視線がリアに向かうと、赤髪の公妃は足を戻して伏し目となった。
「話は、それだけだ」
右手を肘から掲げると、男は自室へと戻った――
「怖いって、なんなのよ!」
「どうかされました?」
扉がずばんと内側に開いて妊婦の怒りが届くと、暖炉の火加減を整えていたマルマが動きを止めた。
「キエフを狙ってた一般人よ! 怖いってどういうこと!? いきなり話し掛けられて、怖いに決まってるじゃない! あいつはアホなの!?」
一般人ではないですよね…
罵詈雑言を撒き散らしながらベッドに腰を下ろした王妃に対して、丸顔の側仕えは昼間のやりとりを脳裏に浮かべた――
しかしながら言動に、怒りだけではない。仄かな情があるようにも感じるのだった――




