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小さな国だった物語~  作者: よち


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157/249

【157.イコンと共に】

スーズダリ大公アンドレイは、春の綿雲がぽっかりと浮かぶ空の下、隣に座る年の離れた異母弟と、二人の背中を眺める次男に、キエフを巡る父との昔話を語っていた――


「親父がキエフに座っても、秋になると遊牧民(ポロヴェツ)が攻め込んできたり、前の大公が軍を率いたりで落ち着かなくてな」

「……」

「そこで親父は考えた。スモレンスクに退(しりぞ)いたロスチスラフを、キエフに呼んだんだ。親父にとっては、甥っ子だからな」

「共同統治? ですか?」

「そうかもな。結局親父も、ヴェチェスラフ(叔父さん)に倣ったんだろうな。下に見ていたくせにな」

「……」


当時の父親の心境を表して、アンドレイはふっと鼻を鳴らした。


「お前ら親子は、スモレンスクに連れていかれた筈だ。覚えているか?」

「はい。弟のフセヴォロドは、生まれて数か月だったと思います」


顔の表皮を向けられて、弟は膨らんだ目袋を覗かせた。

母と一緒に船に乗る。彼にとっては初めての長旅であったのだ――


「あれは、早い話が人質だ。ロスチスラフを安心させる為のな」

「……」

「結果、キエフはやっと落ち着いた…」

「……」


統治の完了――


争いを経て訪れた安寧を語って、アンドレイは髭で囲ったひし形の表皮から一息を吐き出した――



「というわけで、俺はキエフから離れることにした」

「……」

「え?」


目の前で、二つの背中が並んでいる。

意外な言葉が父から飛び出して、スーズダリ大公の息子は思わず疑問の声を発した。


キエフの椅子に座った祖父を、見限ったというのである。

命の危険に晒されながらも従って、存分に協力したにも拘らず――


「不思議に思うか?」


背後からやってきた短い声に、アンドレイは首を右に捻って後方へと語りかけた。


「お前は、どうだ?」


続いて尊敬する叔父に似た、膨らんだ目袋に向かって量るように問い掛けた。


「……後の治世を、憂いたのですか?」


春のひんやりとした空気の中に、アンドレイが大公を名乗った理由が明かされた。


「……愚かだと思うか?」

「いいえ」


結論の評価を求められ、聡明なる弟は正しい道であると口にした――


「あの…どういうことですか?」


腑に落ちない結論に、スーズダリ大公の息子は説明を求めた。


「キエフを治めるには、スモレンスクの協力が必要になるって事ですよ」

「……」

「親父が死んだら、どうなりますか?」

「あ…」


再びの、キエフを巡る争い――


ミハルコが肩から捻って発した説明に、父親から受け継いだ面長の表皮は固まるしかなかった――


「俺達の地盤はスーズダリだ。キエフは遠すぎる。だったら北を固めてから、ルーシの安定に挑んだ方が早いだろ」

「それは、父さんに話したんですか?」

「話したに決まってんだろ。だけどな、聞き入れると思うか?」

「……無理でしょうね」


年の離れた弟は、父の印象を含んだ上で、短い返答を口にした。


「後から嫁いだ女やお前を人質に入れてまで、親父はスモレンスクを頼ったんだ。俺の入る余地が、あると思うか?」

「…ないですね」

「だろ? 俺が従ったのは、スモレンスクのためじゃないんだよ。親父がキエフを均したあとに、俺が新たな治世を行うためだ!」

「……」


訪れる筈だった未来を嘆いて、アンドレイは当時の苦悩を語った。


「キエフを眺めながら、ヴィシェゴロドの丘で毎日悩んでいたら、朝の礼拝で声が聞こえたんだよ。『私を救いなさい。キエフは再び血を流す――』 ってな」

「……」


心に起こった聖母の声は、抗えない未来であったのだ――


「……俺は、神の啓示に従った。親父は当然、反対したがな」

「……」

「言ってやったよ。『親父が天に召された後の治世は、考えているのか?』 ってな」

「……」

「結局は、後回しだ。納得のいく答えがなかったから、俺はキエフを離れることにした。『覇道から逃げるのか?』 とか言われたけどな。知るか!」

「……」


語られた、建国の真相――


総てを信じる訳には行かないが、内容には齟齬の生まれる余地はなかった――



「それから二年後、親父が死んだ。最後は頼った筈のスモレンスクも離れていった。イジャスラフがロスチスラフと手を組んで、キエフに進軍した日に、親父は死んだんだ。結局な、俺達は外様なんだよ…」

「……」


1157年5月15日。

モスクワの地を開墾したとされるユーリー・ドルゴルーキーは、約60年の生涯を、最期は彼が拘ったキエフの地。キエフ大公として閉じることになる――


「それから、都を移しましたよね?」


父が亡くなったと知らされた夜は、一晩中泣いていた。


当時を思い起こしながら、ミハルコはその後の兄の動向を窺った。


(わだかま)りは随分と消えていて、彼の姿勢は統治者としての姿を希求する門徒のようになっていた――


「キエフを目指した親父の意志を、俺は継がなかったからな。親父に従っていた家臣たちが、五月蠅かったんだよ」

「……」

「実際、親父が死んでからのキエフは、手を組んだはずの二人が争いを始めた。最初はイジャスラフがキエフに座ったが、ムスチスラフがイジャスラフを退けて、ロスチスラフにキエフを譲ったんだ」

「はい。それ故に、ムスチスラフ(今の大公)はキエフの民に愛されておりました。スモレンスクを中心とする勢力の年長者でもありますし、私も従っておりました」

「……」


情勢は耳に届いている。

弟の発言に頷いて、スーズダリ大公は一つの見解を表した。


「だがな、ムスチスラフは習わしの信奉者ではあったが、治世の適応者ではなかった。過去に倣うばかりでは、軋轢を生むのは当然だ。比較が容易だからな」

「……」


キエフという大木から離れることで、ルーシという広大な森を眺めることができる――


意図したものでは無かったろうが、兄貴にとっては大きな副産物であったのだ――



「それで、キエフを追われたイジャスラフが、助けを求めてきてな。俺は親父の教会を建ててる最中で、そんな気分じゃなかった…」


ユーリーの死後、アンドレイは父が定礎したばかりの救世主変容大聖堂を完成させている――(*1)


「俺は追い返したかったんだが、親父に従っていた奴らが息巻いて、そうもいかなくてな…」

「それで、イジャスラフを送ったんですか?」(*2)


ミハルコは、左に座る兄の長男。歳の近い甥の名前を口にした。


「飾りだよ。姻戚も結んだし、仕方なくな。親父の取り巻きたちを黙らせるには、いい機会だったんだ」

「結果は、大勝利でしたけどね。街が湧いたのを、覚えています」

「あれは、お前が進言したんだろ?」


凱旋する甥の雄姿を思い出したミハルコが明るい声を送ると、アンドレイは耳に聞こえた当時の軍議の内容を尋ねた。


「どうでしたかね。小さな城市を囲う相手を追い払えって話だったので、『全軍で向かえば、剣を交えることは無いのでは?』 くらいは言ったかもしれません」 

「……」


当時のミハルコの年齢は、およそ14歳。


旧臣たちはユーリーの愛した才能を掬い上げようと、若年でありながらも彼を軍議に呼んだのだ――


「お前を遠ざけたのは、正解だったよ…」


白い綿雲を眺める弟を見やりながら、スーズダリ大公はやれやれと安堵の一声を吐き出した――



「それで結局、親父が死んでから4年後かな。キエフを巡っては、ロスチスラフが神に愛された」

「……」

「俺にとっては、どっちでも良かったけどな。しかしまあ、その後を見れば、ロスチスラフで良かったんだろうな」

「そうですね。イジャスラフを倒して憂いが無くなってからのキエフは、穏やかなものでした」


1161年3月6日。

チェルニゴフから執拗にキエフを狙ったイジャスラフは、背走の末、ベルゴロドの近くで刃を受けて命を落とした――


ロスチスラフの治世が穏やかだったと語るミハルコの心境は、再び騒乱の始まった現在への嘆きである――


「俺がウラジーミル(ここ)に都を移して大公を名乗ったのは、キエフとは距離を置くっていう宣言だよ」

「……」


穏やかな午後の光を受けたアンドレイは、誘われるように遷都の理由を口にした。


「啓示を受けて戻ってきたが、相変わらずスーズダリは煩わしい。親父の教会に聖母を掲げるつもりだったんだが、相応しくないと思ったんだよ」


静謐なウラジーミルの大地に大聖堂を定礎したのは、父ユーリーが逝去した翌年のことである。


「聖母のイコンは、親父への、聖都からの贈り物だからな。親父の遺志を継いでやるっていう、俺なりの表現でもある」

「……」

「だけどな。聖堂が完成しても、相変わらず親父の従士たちが五月蠅くてな。主教の追放に(かこつ)けて、俺はお前らを聖都に追いやった。お前にとっても、良かったと俺は思っているがな…」

「……」


大聖堂の完成は1160年。(*4)

キエフでは、ロスチスラフとイジャスラフの争いの真っ只中。

二つの勢力の疲弊を待って、父ユーリーの意志を継ぐべきだという声が、スーズダリに残った者からは上がっていた。


しかしながら、想いは同じでも、道は違う――


父からの溺愛を受けていた。彼らによって担がれた若年のミハルコを手元に置く事は、争いの火種を抱える事になる。


やがて訪れる未来を、アンドレイは強引とも思われる手法で嫌ったのだ――


「そうですね…こうして並ぶことができるのも、兄さんのおかげかもしれません」


30ほども年の離れた兄貴の心境を、当時は理解できなかった。


権力に飲まれた結果、生まれ育った大地を追放されたと思っていたが、違ったのだ。


「ありがとうございます」


強靭な意志と、神に仕える忠義の心――


純粋な感謝を、10年の時を刻む事のできた慶びを、頭を下げたミハルコは、のちに『敬神公』 と称される偉大なる兄に対して捧げるのだった――


*1 救世主変容大聖堂

   スーズダリの大地。ペレスラヴリに現存する


*2 イジャスラフ =イジャスラフ・アンドレエヴィチ

  この場面で父とミハルコの背中を眺めているムスチスラフの兄。

  イジャスラフがイジャスラフを助ける…(同名多すぎ…実在名なのでそのまま記載)


*3 城砦

   デスナ川の上流。ヴシチジの城砦。イジャスラフの甥であるスヴァトスラフ・ウラジーミロヴィチの居城であった。


*4 生神女就寝大聖堂のこと。


お読みいただきありがとうございました。

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