【149.悪魔の囁き】
リャザン公グレプと、次のキエフ大公ジミルヴィチ。
二人との会談を終えたトゥーラの王妃は、エフェミアとライエルを従えて、与えられた城内の客室へと戻った。
「アレッタ!」
暖炉前の椅子に腰を下ろしてテーブルに顔を伏せると同時に、両腕も投げ出したところでワルフがノックもせずに飛び込んできた。
「なに?」
相手をするのも煩わしい。
胸の奥では要件を測りつつ、白いリネンのドレスを纏ったままの王妃は身体を伏せたままで、目線だけを上にした。
「ワルフ様! アレッタじゃありませんわ。リア様とお呼びください!」
馴れ馴れしい態度は不穏な憶測を呼ぶ。
仕える女性を思って、腰に両手を置いたエフェミアは強い口調で規律を求めた。
「あ…そうだな。すまなかった。それでリア、ちょっと話がしたいのだが…」
少女の忠告に従って、ワルフは改めて要件を伝えた。
「ヤダ。眠い」
「……」
「お酒も飲まされたし、明日で良いなら、明日にして」
「…わかった」
リャザンの重臣には負い目がある。小さな侍女と視線を合わせると、ワルフは納得のうえで引き下がることにした。
「明日は、どういたしましょうか?」
恰幅の良い身体が扉の向こうに隠れると、伏せたままのリアに対してエフェミアが尋ねた。
「ワルフが来たら、起こしてくれる?」
「畏まりました」
宗主国の重臣に対しても、対等以上に振る舞っている――
弱者の本能で察した少女は、仕える相手に対して敬服を含んで頭を下げた――
「リア様、起きておられますか?」
「起きてるわよ」
日の出は8時すぎ。
穢れたトゥーラの侍女の話では、朝は起こすのが大変だと聞いていた。
扉の向こうからすんなりと返事がやってきて、エフェミアの緊張は随分と和らいだ。
「失礼します」
扉の鍵は開いていた。
頭を下げてから入室を果たすと、仕える相手は暖炉の前で椅子に座って、テーブルに書物を置いていた。
「読書…でございますか?」
「うん。エフロシニア様にお借りしたの。年代誌が沢山あって、退屈しないで済みそう」(*1)
夜明けと同時に目が覚めて、マルマの様子を伺った帰りにリャザン公妃と顔を合わせた。
簡単な挨拶と雑談のあと、退屈しのぎにどうですかと、城内にある書庫へと案内されたのだ。
「ワルフは、何だって?」
「朝食の席で、グレプ様と同席するようにと…」
「分かったわ」
閉じた書物の上に両手を置いたトゥーラの王妃は、予見していた通りの展開に、素直に応じることにした――
それから1時間も過ぎたころ、前日と同じ部屋で上座に座るリャザン公グレプを前にして、リアとワルフが向かい合う形で腰を下ろしていた。
「それで…リア? スーズダリに不穏な動きがあるって言うのは、本当なのか?」
トゥーラから持参した麻の衣服を纏った属国の王妃に対して、宗主国の重臣が見解を尋ねた。
「あなたは、どう思うの?」
赤みの入った髪には寝癖が残る。
両の手指で掴んだ丸パンを齧りながら、茶褐色の瞳が訊き返した。
「確かに、一理ある。ポロヴェツへの夏の遠征は失敗に終わって、キエフ大公の地盤は脆くなっている。アンドレイが狙いを定めても、不思議はない」
もぐもぐと口を動かす幼馴染に向かって、ワルフは思うところを披露した。
「私も、キエフを狙うと思ってる。今さらリャザンを攻めたって、大したことにはならないもの」
「……」
「リア…グレプ様の御前だぞ」
「あ、すみません…」
相変わらず、思ったことをそのまま口にする――
恐縮するリアを前にして、苦笑いを浮かべたワルフは改めて彼女の奔放さを羨ましく思った――
「しかし、どうして1年でこんな事態に…」
「……」
キエフの弱体化を嘆いたリャザン公が、両肩を落として呟いた。
新たな大公は、キエフの民に愛されていた筈なのに…
「…ポロヴェツへの遠征を、春先に行ったからです。グレプ様」
沈黙を置いた後、麻の衣服を纏った小さな身体から、一つの回答が寄せられた。
「ギリシャ商人を助けるという名目であっても、ルーシの軍勢を率いて事前に討伐する必要は、無かったと考えます。諸侯から参じると申し出があっても、断れば良かったのです」
「なぜだ? 軍勢は、多い方が良いのではないか?」
淡々と語るリアの弁舌に、麻色の髪を有したリャザン公が瞳を開いて答えを求めた。
「子供への躾は、悪しきことを為してから行うべきです」
「……」
ルーシを親と見立てた発言に、部屋の空気が固まった。
「しかしな…キエフ大公は、諸侯に恵みを与えるために軍を出したんだ。ルーシにとっては、誇らしいことではないのか?」
「……」
「それに、遊牧民は毎年襲ってくる。災いを前以って防ぐという考えは、間違いではない。違うか?」
目の前の恰幅の良い身体から、キエフを擁護する落ち着いた意見が述べられた。
「そうでしょうか? 争いを無くす為に、戦いを叫ぶ。戦いをやめろと叫びながら、人を殺す。正しいのですか?」
「……」
「争いが呼応して、斃れる者が、増えるだけです」
リャザン公の御前であることを考慮して、リアは心の叫びを懇願するように吐き出した。
「…それでは、大公はどうすれば良かったんだ? 参じた諸侯に春の恵みを与えた事は、確かなんだぞ?」
咎めたからには、他の考えがあるのだろう。
幼馴染の気質を理解して、ワルフは対案を促した。
「3年前。前の大公ロスチスラフ様が示されました。遊牧民を相手にせず、商人を護衛すれば良かったのです。安全は何よりも高価である。彼らはきっと理解してくれるでしょう」(*2)
「……」
「それでも遊牧民が狼藉を働いたなら、その時は罰を与えてやれば良いのです。見せしめとして」
意見を吐き出して、テーブルに置かれた陶器のマグを両手で支えると、水を求めたリアはコクリと喉を鳴らした。
「商人の護衛に就いて、対価を貰うって事か?」
「そういうこと」
「馬鹿を言うなよ。遊牧民が商人を襲う。それから我らが軍を起こす。だからこそ、大いなる恵みが得られるんだぞ?」
「……」
食物連鎖のような見解を、ワルフは語気を強めて得意げに語った。
「そのあとは、どうなったのよ」
「え?」
トゥーラの王妃は言葉を返すと、空になった陶器のマグをテーブルへと戻した。
「飢えた遊牧民が商人を襲って、ルーシとギリシャの交易は止まってるじゃない!」
「……」
「それで、今度は商人を助けようとして返り討ちに遭ったのよ!? 馬鹿じゃないの? 一時の富と名声が、何だっていうのよ!」
「馬鹿ってお前…」
手のひらを上にして大公を嘲ったリアに対して、ワルフの顔色は青に変わった。
二人のやりとりを、リャザン公グレプは苦笑いを浮かべながら聞いている—―
「毎年毎年、飽きもせずに家を焼いて、子供を攫って…」
赤みの入った髪が垂れ下がると、忌々しい記憶とともに、トゥーラの王妃は悲憤の声を吐き出した。
「そうは言ってもな、相手が望む物を用意するのは、当然の事だろう?」
女と子供。奴隷は商品である。
高価な輸出品の提供が難しいルーシの諸国にとって、異教徒は供給源であったのだ――
「新しい大公となった今こそが、ルーシの変容を広める絶好の機会だったのに…」
「……」
「せめてもう一年、ロスチスラフ様が生きていれば…」
ワルフの発言を袖にして、俯くリアが悔しそうに言葉を並べた。
単発で終わることなく、2年続いた施策なら、後継者も倣ったかもしれない――
「ちょっと待ってくれよ。食べごろの葡萄が道端に生えていたら、お前だって採るだろ?」
全く価値観の違う提言に、ワルフの身振りは自然と大きなものとなった。
「何言ってんのよ! そんなの、子供の頃の話でしょ!?」
「……」
「育てれば良いじゃない! 道端に生えてるくらいなら、良い土なんでしょう? 2年経ったら、10倍は採れるわよ!」
大きな瞳がワルフに向かった。
「スメルドになれって言うのか?」(*3)
「争いを起こすよりマシでしょ! 男は殺して、子供を攫って、物を盗んで、女の人は…」
「……」
そこまでを語って視線が足元に向かうと、あとの言葉は続かなかった――
「トゥーラの王妃よ。そなたは、面白い」
リャザン公グレプは労いの言葉を吐き出すと、続けて思うところを披露した。
「しかしな、領地を治める公としては、領民を食べさせなくてはならん。異教徒を間引くのも、安心を得るためだ。我らの隙を彼らが狙い、我らが彼らを懲らしめる。加えて、臨時の恵みや出世の機会だと、神の審判を仰ぐことに歓びを感じる者もおるのだ」
「……」
連綿と続く習わしを変えるのは、簡単ではない。
円滑な権勢の移行を求めた新任の大公が、一時の安易な恵みに飛びついたのは、必然だったのか――
為政者の立場を考慮して、垂れ下がった赤みの入った髪の毛は、これ以上の反論を自制した。
「グレプ様のお考えは、理解致します。ですが一つだけ、言わせてください」
会食の終了を迎えて立ち上がったところで、大きな琥珀色の瞳はスッと上座を捉えた。
「なんであるか?」
有意義な時間に満足を浮かべたリャザン公は、穏やかに発言を促した。
「力を持つ者こそ、力を振るってはダメなのです」
「……」
小さな王妃は視線をそのままに、心の叫びを訴えた――
それから数十分。リャザン城の地階の廊下。
朝の会食を終えたリャザン公は、お盆を両手で支えた一人の侍女を従えて、次期キエフ大公の継承権を握るジミルヴィチの下へと向かった――
「小娘との会食は、いかがでしたか?」
グレプの姿を認めるなり、細腰の侍女を隣に置いたジミルヴィチは、朝食の様子を伺った。
「それがですな、なかなかに、面白い考えを聞かされましてな」
空気を察した侍女が席を外したのを認めると、リャザン公は感嘆の声を吐き出して、向き合う形でソファに腰を下ろした。
続いて凡庸な男は小さな王妃が語った理想の世界を、恍惚すら醸しながら語ってみせた――
「なるほど。なかなかに、素晴らしい思考ですね」
平坦な声ながら、ジミルヴィチは感心を表した。
「そうなのですよ。30年前、ヤロポルク大公が行った『汝の敵を愛せよ』 の御心を、彼女は全土に広めるべきだと言うのです!」(*4)
膝に両手を乗せたリャザン公は、興奮を宿して思ったところを伝えた。
「……しかしですな、それは果たして、あの娘の本心ですかな?」
「……」
訝しむように、ジミルヴィチは深藍の瞳を覗かせた――
「と、いうと?」
「お分かりになりませんか?」
疑心を植える言葉を吐いてから、次なるキエフ大公は大きく育つようにと、リャザン公の前に用意されたマグに土器から酒を注いだ。
「いや、恥ずかしながら、私には難しいようで…」
恐縮を表して、凡庸なる国王は右手をマグに伸ばした。
「彼女の勢力は僅かです。にも拘らず、世界を変えようと訴えている。本当に、立派なことだと思います」
「……」
「対してリャザンには、人材と資源が続々と集まっていますよね? 違いますか?」
「いやまあ…確かにそうかもしれません」
意図したわけではないが、結果としてリャザンは大国となっている――
『力を持ったあなたは、何もしないのですか?』
「……」
「彼女はね、あなたを見下しているのですよ…」
「……」
狡猾なる囁きが、リャザン公グレプの心をかき乱した――
*1 年代誌 スラブ語に翻訳されたビザンティン帝国の年代記。多くは私人によって編集されており、「空からリスが降ってきた」等、神話のような話も多数記載されている。
*2 1166年。大公ロスチスラフが春~夏の渡航期に、ドニエプル川の警備に当たるよう諸侯に伝えると、諸侯はこれに従って、交易路の監視を順番に行った。
*3 スメルド 主にルーシの時代の自由農民を指す。奴隷では無いが、侮蔑的な意味も含まれている。
*4 「汝の敵を愛せよ」 マタイ福音書の聖句。
1136年。ヤロポルク大公はフセヴォロド・オリゴヴィチを中心とするチェルニゴフの勢力に対して軍を集結させたにも拘わらず、兄弟たちの反対を浴びながらも流血を望まなかった。
(ヤロポルク=ウラジーミルⅡ世モノマフの最初の妻の五男で、モスクワを開いた手長公ユーリー・ドルゴルーキーは異母弟に当たる)
 




