【143.馬上の二人】
「え? リャザンに!?」
朝食を運んできたマルマに王妃が外遊への同行を打診すると、石造りの執務室に明るい声が広がった。
「どうする?」
「行くに決まってるじゃ無いですか!」
前傾姿勢となったマルマが茶色い瞳を王妃に向けて、勢いのままに両手をテーブルに預けると、笑顔の即答を高い声で発した。
「でも、条件があるからね」
「はい!」
続いた王妃の上目遣いに、にこにこ笑顔が背筋を正す。
「護衛には、ライエルが就くことになるから」
「……」
マルマの表情が固まった。
「嫌なら良いわよ。アンジェさんに、他の子を紹介してもらうから」
「え? え? なんでですか?」
「なんでって…分かるでしょ?」
反論は許されない。それでもマルマが疑問を挟むと、落ち着きなさいと王妃が時間を与えた。
「ターニャさま? ですか?」
「そう。折角あなたを派遣したのに、外れる訳には行かないでしょ。だったらあなたたち二人を公務に呼んで、お母様はアンジェさんに見てもらう方が良いかなって思ったの」
「……」
王妃の護衛ともなれば、どちらかの将軍が任務に就く。
遂行中の任務はライエルとマルマがワンセット。
仮にグレン将軍が王妃の護衛に就くならば、お付きはマルマ以外の誰かが選ばれるという訳だ。
「アンジェさんには、伝えたんですか?」
「伝えてないけど、認めてくれると思うわよ」
「……」
当然ながら、アンジェの思惑は考慮の上だ。
反対されない確たる自信が、リアの胸中には存在していた――
王妃の外遊計画は、内々に進められていた。
それでも尚書のラッセル。加えて側仕えを担っていたライラには、出発前日にリアから伝えることにした――
「ロイズを頼むわね」
「お任せください」
「畏まりました。精一杯、務めさせていただきます」
肩を並べた二人を前にして、暖炉の炎を背中に受けた小さな王妃が事情を告げると、ラッセルは右手を胸に置き、ライラは両手を前にして、揃って頭を下げるのだった――
「あれ? ラッセルさんは、城門には行かれないのですか?」
翌日の日の出を迎えると、出発の時刻がやってきた。
螺旋階段を下りてきたライラが地階の廊下で細身の猫背を認めると、周囲を気遣いながら小さな声を発した。
「ゾロゾロ出ていくと、バレるからね」
「あ、そうですよね…」
「それに、僕が行ったところで、リア様に掛ける言葉は無いからね…」
細い瞳に憂いを浮かべると、尚書が小さく口を開いた。
「……」
寂しそうな彼の発言に、ライラの心情が重なった。
尊敬する年下の先輩を、お気を付けてと見送るだけなのに、素直になれない想いが足を重くするのだ――
「王妃様を守る。その一点だけを、心に刻め」
「はい。命に代えても、お守り致します」
「頼んだよ」
トゥーラの南側に唯一存在する都市城門。
普段は左右から垂らしている金髪を後ろで縛ったライエルが、上司の言葉に真顔になると、ロイズが短く信頼の声を渡した。
主に大陸性の寒帯に属するルーシの大地。それでも冬という季節は決して安全ではない。
遊牧民による略奪遠征はなくとも、土着の集団による襲撃は、秋の収穫を終えた後にこそ行われるのだ――
理由の一つを挙げるなら、行く手を阻む川が氷結をして、橇を自由に使えるからである。
穏やかな河川は、およそ氷点下5度を下回れば氷結を始め、風が穏やかだったり雪が降ったなら、彼らの勢いは更に加速する。
「行ってくる」
「ワルフによろしく」
今にも雪が舞いそうな曇天の下。3頭が馬頭を並べる橇の上で、厚手の毛布に包まったミノムシ王妃が小さな左手を細かく振ると、傍らに立ったロイズが優しい微笑みで応えた。
「それっ!」
馬橇の御者となったライエルが、手綱と鞭で出発を伝えると、体の大きな芦毛の馬体が脚を上げ、左右の馬が鼻息を荒くした。
「ひゃーっ!」
3頭に曳かれた馬橇は、時速40キロ以上で雪を往く。
走った途端に冷気が頬を切り裂いて、並んで座っていたリアとマルマは思わず声を発した。
「は、速いですね…」
「そうね。これなら襲われる心配はないかな」
トゥーラから東にひたすら向かう。
白が均等に広がるウパ川の支流を走った後に大地に戻ると、雪原でありながら地面の起伏を橇が捉えて、リアの身体が時おり浮き上がった――
「今日は、この辺りで休みましょうか」
トゥーラとリャザンの中間地点。
ライエルは馬の脚が鈍ってきたのを察すると、プロニャ川の西側の土手に橇を寄せ、下馬をしてから裸となった黒い樹木に馬を繋いだ。
馬橇であれば一日でリャザンまで走れるが、襲撃に備えて体力を温存しなければならない。
3頭のうち、中央に配した芦毛は力が強く、左右の馬は駿馬であった。
橇の乗り味にも慣れた頃、襲撃された際の取り決めとして、真ん中の馬は残してリアが左の鹿毛に乗り、ライエルはマルマを伴って、右の栗毛馬を使う事が決められた。
「あの…馬なんて扱えませんけど…」
「え? 乗った事はあるんでしょ?」
「いえ…」
「そうなの? じゃあ、いい機会だから、あとで練習しましょう」
マルマが不安の声を発すると、厚手の毛布に包まったミノムシは、問題ないと彼女の心を和らげた――
「それでは、マルマリータさん。練習しましょうか」
「あ、はい…」
リアがせっせと焚火を起こして暖を取り始めると、ライエルが栗毛馬の手綱を取ってマルマを誘った。
「一人で乗る訳じゃありません。私が支えますから。手綱を持った左手を絞って、そのまま馬の鬣を掴んでください。次に左足を鐙に掛けたら、右足から飛び乗って下さい」
「は、はい…」
言われるままに手綱を渡されて、栗毛馬の左側、首元に立ったマルマは緊張を宿した。
「よ、よろしくお願いします…」
右手で栗毛馬の硬い皮膚を触りながら、こわごわとした表情で言葉を掛ける。
馬の方は我関せずで、大人しくその場で佇んでいる――
「よっ!」
左膝を大きく上げて鉄輪に足裏を掛けると、マルマは一息を吐き出して右足で大地を蹴り上げた。
同時にライエルの両手がマルマの臀部を押し込んで、勢いのついたマルマの身体が栗毛馬の背中で腹這いとなった。
「こ、ここから、どうすれば…」
「右足で、鐙を探してください」
「は、はい…」
腹這いになったままで、揺れ動く右足が必死に鐙を探した――
「あ、ありました!」
「引っ掛けましたか?」
「は、はい」
「安定するはずです。身体を起こしてみてください」
「え?」
「大丈夫。支えますから」
「は、はい…」
大地のように硬い馬の首元に開いた両手を置いて、マルマはゆっくりと上半身を起こした。
「た、高いですね…」
高さ3メートル弱の視界に広がる雪景色は珍しいものでは無かったが、心許ない足裏の感触と、落ち着かない馬の背中に跨った姿勢によって、一つの殻を破った自賛が灯った。
「両膝を締めると、安定しますよ」
ライエルの優しい上目遣いがマルマに向かうと、彼女は思わず目を伏せて、言われた通りに温かい馬の背中を膝で挟んだ。
「前の方へ行けますか?」
「あ、はい」
続いた声に、マルマは前傾姿勢になって手綱を絞りながら臀部を前へと動かした。
「後ろに乗りますね」
言いながら、マルマの足裏から鐙を外すと、ライエルが鐙に左足を引っ掛けてひょいと馬の背中に跨った。
「手綱を貸してください」
「あ、はい」
心地良い声が耳元にやってきて、マルマの頬は思わず赤に染まった。
「膝を締めて下さい。いきますよ!」
「きゃあっ!」
ライエルが予告と同時に馬の腹を蹴って手綱を緩めると、常歩が始まってマルマの身体が揺れ動いた。
「……」
「どうですか?」
マルマの背中にぴたりと胸を寄せたライエルが、声の止まった彼女に問い掛けた。
二人を乗せた相棒は常足のまま、プロニャ川の氷結した白の上を進んでいる――
「その……少し恥ずかしいです…」
逞しい美将軍の両腕と胸板が、マルマの身体を囲っている。
茶褐色の髪に届くライエルの白い息遣いに、彼女は思わず本音を溢した。
「マルマリータさん」
「は、はい」
「あなたは、王妃様が襲われた時も、同じ思いを抱くのですか?」
「……」
引き戻された。
与えられた目的を忘却していた心身を、恥ずかしさが襲った――
「すみませんでした。そうですよね」
マルマは一言を伝えると、相棒の鬣を掴んで前傾姿勢となった。
「行きますよ!」
「はい!」
「……」
左右の土手に連なる黒褐色の木々の間を、二人を乗せた栗毛馬が全速力で駆けてゆく。
毛布に包まった寒がり王妃は焚火で暖を取りながら、小さくなっていく人馬の後ろ姿を目尻を下げて眺めるのだった――
鐙 … 馬具の一つ。鞍の両脇に吊るして、乗り手が足を踏みかけるもの。
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