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小さな国だった物語~  作者: よち


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141/219

【141.発端】

ルーシ<略地図> 及び 主な描写地

挿絵(By みてみん)

キエフを追われたジミルヴィチが、一時の安住を求めてリャザンに到着した翌日のこと。


目覚めと同時に体調の不良を感じたが、朝食のパンを齧る頃には眩暈も治まって、一先ずの安堵を宿した。


「体調は、いかがですか?」


朝食を運んできたのは、昨夜の侍女では無かった。


「ああ。一日経って、だいぶ良くなったかな」


ベッドの袖に腰掛けた、茶褐色の混じる金髪を有した男は、両手を膝に置いて頭を垂れながらも、視線だけを上にした。


「そうですか。本日の夕刻に、歓迎の宴はいかがでしょうかと、グレプ様が申しておりました」

「…それは、お受けしなければなりません。宜しくお伝えください」

「畏まりました」


美しい乳白色の顔立ちをした女性は、お盆を胸に抱えたまま、落ち着いた口調で小さく頭を下げた。


「……」


薄い麻の衣服を纏ったスラリとした身体には惹かれたが、初々しい儚さが覗いた昨夜の侍女と比べると、彼の下半身が興味を抱く事は無かった――



「午後になりましたら、散歩でもいかがですか?」


続いてジミルヴィチの下を訪れたのは、泡のような顎髭を拵えた上級士官のデディレツであった。


本来ならばリャザン公グレプがお供をするところですがと断ったうえで、リャザンの地を案内しようと誘いに来たのだ。


「是非ともお願いします」


午後からという心遣いにも感謝して、ジミルヴィチは快く提案を受け入れた――



「キエフには到底及びませんが、リャザンは広いですな」


午後の穏やかな光を受けながら、二人の足は西側の都市城門の方へと向かうべく、短い草が疎らとなった乾いた土の上を進んだ。


「西から東へと、移住を希望する者が船に乗ってやってくるのです。グレプ様は彼らを救おうと、寛大な心で住居と食料を与え、不安を(ぬぐ)おうと城壁を築いたのです」


仕える公の政策を、デディレツは右手を前にして大いに持ち上げた。


「それにしては、人の姿が見えませんが…」


長大な都市城壁に囲まれてはいるが、住居がひしめき合っている訳でもなく、城門から離れた東側に至っては、家屋がぽつぽつと散見できる程度である。

緑の青草が都市城壁の外側と同じように広がっていて、人の往来は乏しいことが窺えた。


「城が高台にありますからな。この丘を毎日行き来するのは難儀だからと、皆さん丘に住居を構えるのですよ」


左からの素朴な疑問に、デディレツは苦笑いで答えた。


川の恩恵に預かるのは、漁師だけではない。

西からやってくる交易船を水深の浅い川岸に寄せる事は難しく、小舟を使って貿易品を運搬するのだ。

細い丸太を敷いた運搬路が丘には幾つも設けられ、人足たちも都市城壁の外側で生きる事を選んでいた。


長大な都市城壁の内側は、彼らにとってはあくまで避難用。丘の斜面が生活の場。

それでも武具や陶器、骨細工などの加工場は都市城壁の内側に設けられ、それらに携わる者たちは、丘の上に住居を構えていた――



「ここからの眺めは、最高ですね」


西からの冷たい風が頬を叩く中、都市城門を潜ってオカ川を望んだ途端に風光明媚な景色が広がって、ジミルヴィチは思わず感嘆の声を発した。


遠くまで青空が広がって、眼下にはオカ川の緩やかな流れの中に、一つの交易船が浮かんでいる。

子猫が母の乳を求めるように小舟が群がって、人足たちの活気ある姿が瞳に映った――


季節は冬に向かっている。

やがて白に覆われるであろう緑の斜面には薄い板が幾つも敷かれ、並べられた魚たちが干物となるべく乾燥した西風と適度な陽射しに晒されていた。


「ヴィシェゴロドも高台にありますが、雰囲気が違います。何と言うか…」

「のどか?」

「それです。やはり喧騒が違う」


当時のキエフの人口は5万人以上。リャザンの約10倍を誇っていた。

ギリシャ方面からエーゲ海、マルマラ海、コンスタンティノポリスを通って黒海からドニエプル川へと結ばれる交易路は相当な賑わいで、キエフはスモレンスクからノヴゴロドへと結ぶ交易路だけでなく、デスナ川からチェルニゴフ、カルーガ方面を経てオカ川に入る交易路の中継地点でもあった。


東ローマやコンスタンティノポリスからは武器や美術品、ワインや宝石、香辛料やイコン、書物などが輸出され、ルーシからは木材や蜂蜜、麻の織物、更には男女の奴隷が輸出されていた――


「田舎ですからな」

「いや、それが良いんですよ。こんな絶景は、絶対に後世に残すべきです!」


開放感に緊張も和らいで、ジミルヴィチの舌も滑らかなものになってきた。


緑の丘に立って西風を受ける、茶褐色の混じる金髪を有した青年の姿に、デディレツは城内で準備をしている晩餐会は、無事に開催できそうだと安堵を灯すのだった――



地平線の夕陽がオカ川をオレンジ色に染める頃、城の地階の一室で、次なるキエフ大公のリャザン到着をもてなす宴が始まった。


春先に行われたトゥーラとの同盟調印式ようなものではなく、リャザン公と上級士官のデディレツ、加えて最近頭角を現してきた重臣ワルフの3名が、楕円のテーブルを囲んで将来のキエフ大公との親交を深めようと画策したものである。


あくまで目的は、諸国を巡ってきた彼だけが有する貴重な情報を得ること。

せめて広間で開催しようとするリャザン公に対しては、もてなす対象が一人という事情を利用して、ワルフが説得をした。


「彼の記憶が薄れる前に、話を聞き出しましょう」


多くの足が移動する中では、深い会話は難しい。


ワルフの発言に、リャザン公グレプは渋い表情を浮かべながらも納得するしかなかった――


「申し訳ない。ジミルヴィチ様がリャザンに向かわれるとスーズダリから連絡が来たのが最近でして、大したもてなしができません」

「いやいや、それには及びません。大規模な会場は居心地が悪い。権力目当てに話し掛けてくる無粋な人間が多すぎる。こうして素敵な女性の居る中で、落ち着いた時間を過ごしたいと、私は常々思っていたのです」


小規模な宴の会場は、トゥーラとの同盟調印式の際に来客用としてあてがわれた部屋である。


リャザン公グレプの挨拶に、上座に座るジミルヴィチは自身の左側に着座した女性の腰に左手を伸ばしながら、上機嫌となっていた。


彼の左では、色香を有する朝食を運んできた女性が宴席に合わせた薄手の上品な装いで着座をしている。

覇気に乏しかった朝方は、眉目(みめ)麗しい容姿が煩わしく映ったが、すっかり普段に戻った彼の深藍の瞳は、身体のラインを露わにした女を性の対象として捉えていた――


「ありがとうございます。ジミルヴィチ様は、次の大公となるに当たってルーシを巡ろうというお考えに至ったとか。キエフにとっては辺境の地かもしれませんが、私たちはリャザンの大地で生きております。大いなる恵みを、是非リャザンにもお与え下さい」


麻色の髪を後ろで短く結んだリャザン公は、後頭部を覗かせるほどに頭を下げた。


彼の心には、1146年にスーズダリがムーロム及びリャザンに攻め込んだ際に、ルーシを統べる立場であるキエフから何の音沙汰も無かったことに対する不満が燻っている。


初めて公に就いたリャザンの地を放棄して、南の遊牧民を頼った逃避行は、大層惨めなものであったのだ――


「と、当然ですとも! リャザンの地は雄大で、グレプ殿は醜い争いで傷ついた人々を、慈悲の心でお救いになっておられる。神の祝福が、必ずや降り注ぐことでしょう!」


戦禍に惑う人々を生み出している張本人に、全く自覚はない。


「ありがたいお言葉です。我が一族も、リューリク朝の流れを汲む者として、キエフと共にありたいのです。どうかお忘れなきよう…」


取り繕うようなジミルヴィチの労いに、それでもリャザン公グレプは胸の前で両手を重ねると、頭を下げて感謝を並べるのだった――



「スモレンスクを破ったという話は、本当で?」


宴もたけなわとなった頃、女性の胸に左肩を預けたジミルヴィチが、赤くなった顔の表皮から噂話の一つを愉快そうに尋ねた――


スモレンスクとキエフ大公との繋がりは強固である。

キエフとの遺恨を抱える彼にとっては、スモレンスクの存在は決して面白いものではないのだ。


「ええ。何度も小競り合いがあったのですが、停戦協定も結ばれたようで、一安心といったところです」

「結ばれた?」


他人事のような発言に、深藍の瞳を大きくさせたジミルヴィチが思わず尋ねた。


「実はですね、彼の提案で、トゥーラには自治権を与えているのですよ」


右手を前に差し出して、リャザン公はテーブルを挟んで座る恰幅の良い男を売り出した。


「ほう。自治権を…それほどの人物が、身近に居たというわけですか?」


深藍の瞳が輝きを増す。ジミルヴィチは興味深そうに声を開いた。


「ええ。私も半信半疑だったのですが、彼の強い推挙がありまして。ルイズとか申す者を、トゥーラに送ったのですよ」

「ロイズですよ」

「おお、そうであったな」


仕える主君の誤りを、ワルフが(たしな)めた。

本来なら発言を流すべき。しかしながら、酒が回った男は制御できなくなっていた――


「それにですね、トゥーラの指揮を執ったのは、アレッタですよ」

「……」

「…アレッタ?」


女性の名前が突然に飛び出して、会場の空気が一斉にワルフに向かった――


「あ、いや…」

「その人は、君の想い人では無かったのか?」


咄嗟に発言を取り消したワルフであったが、リャザン公は当然ながら関心を表した。


「いや、その、幼馴染でして…」


思わずたじろいだワルフの頬は火照ったが、酔いの回った表皮が打ち消した――


「その方は、女性なのですか?」


のっそりと身体を起こして口を開いたのは、次にキエフを統べる男だった。


「え、ええ…」

「それは是非とも、お会いしたい!」

「え…」


ワルフの膨らんだ顔つきは、絶句と共に固まった――



それから一週間も経った頃、リャザン公グレプのサインが入った書簡はゆったりとオカ川を遡り、トゥーラの王妃の元へと届けられた――

第134話と繋がっております。


お読みいただきありがとうございました。

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