【138.絶頂】
1167年 初秋。
ジミルヴィチの逃亡劇をローシ川の畔から眺めていたミハルコは、緑の草原を配下の子供たちに囲まれながらキエフへの帰路についていた――
「ミハルコさん! 楽しかった!」
「ありがとう!」
ミハルコを囲む子供たちの間から、感謝の声が上がった。
釣りに行くぞと誘われて、近場のドニエプル川かと思っていたら、キエフから100キロ以上も離れた河川に連れて行ってもらえたのだ。
兵卒経験のある父兄と同じ時間を過ごす子供たちにとっては、緑の草原を遊牧民の襲撃に備えながら歩む緊張感すら愉しいものであった――
「ローシまでの道は、覚えましたか?」
「うん!」
縮れた金髪を風に遊ばせたミハルコは、緑を含んだ奥目の瞳を穏やかにした。
ルーシの根幹であるキエフの大地――
次世代を担う者たちに、付近の地理を覚えてもらうのは、ルールの安定を願う彼の思惑の一つであったのだ――
「ミハルコ様。あなたのおかげでキエフの地は守られました!」
キエフの城市に戻るなり、ポーランド人の司令官ヴワディスワフがミハルコの元へと駆け寄った。
「私は、遊牧民の真似事をしただけですよ。使者は送りましたが、決断したのは私ではありません。キエフを愛する皆さんが、平和を望んだ結果なのです」
「何を言っているのですか! あなたが事前に動いたから成せたのですよ!」
馬を下りて謙遜するミハルコに、ヴワディスワフは叱責に近い形で賛辞を送った。
「それはそうとして、ジミルヴィチはドロゴプージで大人しくしているのですか?」
膨らんだ目袋を覗かせて、ミハルコは構うことなく逃亡犯の動向を伺った。
「それが、どうやらドロゴプージからは離れたようです」
「そうですか。異教徒が消してくれることを、期待したのですがね…」
愛馬を厩へと導きながら、ミハルコが残念そうに呟いた。
「そうですな…」
将来の憂いとなる存在は、消えてもらって構わない。
キエフの安定を望む二人の見解は、等しいものであった――
「異教徒に殺されたなら、キエフ大公の助けになりますしね…」
「え? そこまで考えていたのですか?」
年下の青年が描いた絵図に驚いて、ポーランド人の涼しい瞳が広がった。
「大義名分は、より大きなものであるべきです」
一つの未来を予見して、キエフを愛する男は愛馬の細長い顔の表皮を優しく撫でるのだった――
年が明けた1168年。新たなる大公ムスチスラフは、キエフの南側で暮らす遊牧民族ポロヴェツを襲うことを考えた。
ジミルヴィチをキエフから追い出して約半年。キエフ大公としての威厳を示すには、血族たちに大いなる恵みを与えなければならない。
加えてダヴィドやリューリクには恩もある。
ムスチスラフは弟たちをキエフに招くと、自身の思いを吐き出した。
「毎年春になるとポロヴェツがやってきて、ルーシの土地を荒らして周り、女子供を攫っていく。今までの私はスモレンスク公として眺めるだけであったが、大公となったからには許しておけない。弟たちよ、どうすれば良いと思うか?」
「……」
大公の意向を汲んだのは、昨年の夏、ポロヴェツの野心を退けたミハルコであった。
「叩きに行けば良いでしょう」
奥目の瞳を玉座に向けると、彼は短い結論を一同に伝えた――
やがて3月2日。雪解けの前。
ムスチスラフは一族を従えて南下した――
「ポロヴェツを叩くにしては、やっぱり多くねえか?」
多数であれば、分け前も減る。
白い太陽を目指して歩む道中で、ダヴィドは弟のリューリクに向かって馬上から疑問の声を送った。
「この辺りを治めているミハルコが、進言したみたいだね。代替わりをして最初の春。相手はいつも以上に勇んでやってくる。備えは万全に。ということみたいだよ?」
「なるほどね。軍勢を見せるのも大事ってことか」
ダヴィドは首の後ろで両手を合わせた――
「なに? 待機?」
「はい。ドニエプル川の支流に広く布陣して、敵を待ちましょう。追いつける距離まで、誘うのです」
キエフを発って一週間。
諸侯の集まった幕舎にムスチスラフの驚きの声が上がると、ミハルコの進言が後から続いた。
「皆さん。この戦いは、神からの大いなる恵みとなるでしょう。ムスチスラフ様の下に集まった我らルーシの力を、異教徒どもに見せつけてやりましょう」
ミハルコは寡兵であると見せるため、林の中に幕舎を構えるよう諸侯に伝えた――
数日後。敵の斥候を捕らえたとの一報を受けたミハルコは、夜中に捕虜の下へと足を運んだ。
「逃がすのですか?」
「大軍勢でやってきたのです。ぶつかるだけでは芸がありません。生かさない手は無いでしょう」
ヴワディスワフが困惑の声を表すと、思惑を語ったミハルコは、月明かりの中を走って巣穴に戻っていく兎の姿を眺めた――
遊牧民は驚いた。
ルーシの軍勢が雪の季節に向こうから現れる事は稀であったのだ。
「それで、敵の数は?」
「分かりません。のんびりした司令官に、捕まってスグに逃がしてもらったんで…」
「なに? 司令官? 脱出してきたんじゃねえのか?」
「いや、逃がしてもらったんだ。もうすぐ子供が生まれるからって、泣いて頼んだんだよ」
「……」
一瞬の空白が生まれると、ポロヴェツの部族長は大声で退却を叫んだ――
慌てて逃げ出す異教徒に、大軍勢が襲い掛かった。
氷結した河川は溶け出す頃で、遊牧民の脚は鈍いものとなっていた。
女子供は置き去りにされ、男も投網に掛かった魚のように乱獲された――
こうしてルーシの諸侯は夜明け前の戦いで、家畜や奴隷を持ち帰れないほどに奪取した――
「ミハルコ様! 大勝利です!」
ヴワディスワフが飛んできて、歓喜の声をミハルコに届けた。
「いやあ。安心しました」
歓びの声があちこちで満ちている。
自信はあったが、どうやら神の御加護は注いだらしい。
勝利を自覚したミハルコは、へなへなと膝を崩して大地に腰を落とした――
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。とりあえず、休ませてください…」
ヴワディスワフが両肩を支えた。殊勲者の下に駆け寄ったのは、ポーランド人だけである。
二人は戦うことなく戦況を見守っていた従士と共に、遠くで鳴り響く歓喜の声を誇らしげな表情で耳に迎えた。
こうして新たなるキエフ大公は、不安定な一族の結束を固めることに成功をした――
しかしながら、頂点を迎えた太陽は沈みゆく。
歓喜の宴が繰り広げられた夜、ムスチスラフ直属の従士が抜け出して、川の浅瀬を渡ろうとしている異教徒を襲ったのだ。
運悪く、略奪品の中には高価なものが含まれていて、諸侯の顔色が曇った――
戦利品は諸侯の間で分配する習わしである。
それでも大勝に浮かれるキエフ大公は、周囲の視線を考えず、それらを自身の手中に収めてしまった――
大いなる勝利を迎えてから数か月。
キエフ大公は諸侯を再びキエフに集めると、南へと軍を動かした――
春先に襲った遊牧民の生き残りが、交易商人たちを襲っているというのである――
「……」
意義は理解する。
しかしながら、遊牧民を襲ったところで肥え太っている訳では無く、商人を助けたところで直近の実入りとなるわけではない。
3月の遠征に比べると、参加した諸侯は随分と少なかった。
キエフ大公と、ダヴィドを筆頭に、リューリクやウラジーミル・アンドレエヴィチ。(*1)
道中の諍いをきっかけに、春先に発した亀裂は大きくなって、彼らの闇は改善不可能なところへと達してしまったのだ――
1168年、夏の事である。(*2)
*1 ウラジーミル・アンドレエヴィチ
前話にて、ミハルコに従ってゴルィニ川に架かる橋を落としたペレソプニツァ公
*2 第28話にも、経緯を一部記載
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