【131.新たな任務①】
トゥーラに冬が訪れて、寒がり王妃の動きは鈍くなる。
城内で過ごす時間が殆どで、執務室の暖炉の前。2階の浴室。地階の食堂を巡る日々が始まった――
「リア様」
食堂の隣。パン焼きかまどが並ぶ調理場。
丸太の椅子に座ってうきうき笑顔で焼き上がりを待っていた王妃の耳に、アンジェの高い声がやってきた。
「はい」
窯の前は温かい。
顔だけを向けた王妃の元に丸椅子を手にしたアンジェが近付くと、隣に腰を下ろした。
「王妃様の意見も、伺いたくて…」
「はあ」
何の話か見当のつかない王妃が適当な相槌を挟むと、女中頭は神妙な顔つきで相談事を口にした。
「ライエルのことは、ご存じですか?」
「……」
改まったアンジェの声に、およそ一週間前に両腕で身体を支えられた感触が蘇り、お互いを見つめ合った場景が浮かんだ――
実際に瞳を合わせたのは最近でも、彼の働きは高く評価をしている。
若くとも武勇に優れ、指令を忠実に守ろうとする姿勢は、アンジェの夫であるグレンは勿論のこと、国王ロイズも認めるところだ。
加えて目鼻の整った顔立ちに、謙虚な姿勢が加わって、女性陣の心を掴んで離さない――
「はい、一応…」
そんな彼の名前が突然告げられて、小さな王妃は窯から丸パンを一つだけ取り出すと、両手に掴んではむっと温かさを口にした。
「それでは…」
アンジェの相談事は、以下のようなものだった。
今は亡きライエルの父親はリャザンの将軍で、アンジェの夫のグレンとは同僚であり、共に武功を競うライバルであった。
しかしながら、1151年。彼はスーズダリ大公ユーリー・ドルゴルーキーによって奪われたムーロムを奪還する戦いで、無念の戦死を遂げると、翌年早くにライエルが生まれた――
親交のあった両家。
グレンがトゥーラに赴任する事になり、アンジェがライエルの母親を誘ったのである――
「そうだったんですね…」
「はい。ライエルの成長はずっと見守ってきましたから、息子みたいなものです。こんなことを言ったら、ターニャには悪いのですけど…」
「ターニャさんは、ライエル将軍のお母さん?」
「そうです。私と彼女は、子供のころから一緒に遊ぶ仲だったんですよ」
「へえ」
「でも、ターニャはちょっと体の弱いところがあって。今日も伏せているようなのです」
「…悪いのですか?」
「わかりません。寒くなって体調を崩したのかもしれません。それで昨日、お見舞いに行ったんですよ…」
アンジェは両家の関係までを伝えると、ふうと一息を吐き出した――
「ごめんね。アンジェ」
「いいのよ。近いんだから」
城の西側。それぞれの家は3分ほどの距離である。
朝市を終えたアンジェがパンと幾ばくかの野菜を持参して、勝手知ったる台所で煮込み料理を拵えていた。
「今年の冬は、越せるかな…」
「ちょっと、何を言い出すの!」
「ごめんね。でも、毎年思っているのよ?」
「……」
ベッドで上半身だけを起こしたターニャの細い身体が哀しそうに呟いて、アンジェは鍋の前で顔の表情を曇らせた。
「ライエルも大きくなったし…」
「もう。辛気臭いこと言わないで!」
心を許すからこそ吐き出せる――
理解はしても、重い話は望まない。
出来上がった赤色の煮込み料理を木皿に盛って怒りを含むと、アンジェは親友の元へと足を運んだ。
「確かにちょっと、この家は静かよね…」
「他に、身寄りもないしね」
「……」
悪気のない声であったが、アンジェの胸はチクリと傷んだ。
リャザンに残っていたならば、少なくとも他の縁者との交流はあったと思われる――
「冬の間だけでも、手伝いを寄こそうか?」
女中の仕事も閑散期。
傍らの椅子に座ったアンジェは心配顔を覗かせて、一つの案を口にした。
「それは助かるけど…こんな私と息子だけの家なんて、みんな嫌がるんじゃないの?」
「……」
一人息子の市場価値。一番解っていないのは、誰あろう母親なのであった――
「それで、誰が良いかってご相談なんです」
「なるほど…」
アンジェが改まって口を開くと、リアが両手に持った丸パンをリスみたいに食みながら、短い相槌を送った。
「その話は、ライエル将軍には伝えたんですか?」
「昨日の夜に、あの子だけを家に呼んで、一緒に食事をしまして…ウチの人と一緒に『あなたは将軍という立場で帰りも遅いんだから、困った時は遠慮せずに城の者を使いなさい』 と説得しました」
「良いんじゃないですか?」
「それでですね…」
「はい」
声のトーンを少し落として、アンジェが話題を続けた。
「誰か、来てもらいたい人はいるのか? って、訊いてみたんですよ…」
「それはなんと言うか、女性陣が知りたい事ですよね?」
千切った丸パンを口の中に放り込みながら、リアは続きを促した。
「そうなんですけど、あの子には自覚が無いんですよ…」
「でも、それが良いんじゃないですか?」
いつでも自然体。少年のような無邪気な笑顔が多くの女性を虜にするのだ――
自身の経験を踏まえた上で、王妃は問題ないと答えた。
「それでもねえ。あの子もそろそろ年頃ですからね。ターニャを安心させる為にも、誰か良い人みつけないと…」
「えと、アンジェさん? それも目的なんですか?」
爆弾発言である。
リアは首を伸ばして周囲の気配を窺ってから、改まって隣に座るふくよかな女性に確認をした。
「お互いが牽制し合って、ウチの女中たちも遠慮しちゃってますからね…このままずるずると皆の偶像であり続けるというのは、あの子の為にも良くないと思います」
「…なるほど」
客観的な意見には、確かな愛情も含まれている。
将軍としてのライエルを、加えて彼の家庭を内から支える存在は、トゥーラにとっても有益であるに違いない。
「それで、彼はなんて答えたんですか?」
意中の人は存在するのか?
確信となる回答を、水に潜らせた鉄棒で窯の炎を鎮めながら、丸パンを食べ終えたリアが平たく尋ねた。
「『そんな人、居ないよ』 って、他人事みたいに言われました…」
「あら。それは皆、喜ぶかも」
溜め息混じりの回答に、王妃は明るい声を送った。
「それでは何も変わりません!」
「そ、そうですね…」
するとアンジェの語気が強まって、小さな身体は恐縮するしかなかった――
「グレンさんは、何と言ってるんですか?」
「呑気なあの人は、当てになりません!」
「そ、そうですか…」
続いた質問には怒りの声がやってきて、タジタジの四角い顔の大将軍が脳裏に浮かんだ王妃は、野暮な発言だったと反省をした――
「それでですね。気になる人くらい、いないの? って訊いたんですよ…」
「居たんですか?」
一息を入れたアンジェが冷静になって話題を続けると、高い声をリアが挟んだ。
「そしたら、一週間くらい前に、面白い女の人に会ったって…」
「へえ」
「北の城壁の足場から、ロープにぶら下がってたって…」
「……」
「王妃様ですよね?」
「……」
身に覚えがあり過ぎる――
固まったリアに対して、いい加減にしてくださいと蔑んだ瞳がやってきた――
「あ、はい。たぶん…」
「はあ~」
引き攣ったリアの大きな瞳が泳ぎながら答えると、アンジェは王妃という立場にありながら何をしているんだという嘆きの声と、人違いだったら良かったのにという残念な思いを含んだ長い溜息を吐き出した。
「す、すみません…」
「いえ、いいのです。おかげで、あの子でも受け入れてくれそうな子が見つかりました」
申し訳ないと恐縮する王妃の傍らで、スッと表情を戻して姿勢を正したアンジェから、解決の声が発せられた。
「それって…」
彼女を見やったリアの脳裏には、一人の元気な女中の姿が浮かんでいた――
「リア様!」
アンジェの考えをリアが汲み取った翌日の昼下がり――
ずばんと国王居住区の扉が開いてマルマが姿を見せるなり、王妃の名前を叫んだ。
「な、なに?」
「私、リア様と離れたくありません!」
暖炉の前で寛いでいた王妃は、挨拶も承諾も無しに扉を開けたマルマに不快感を覚えながらも、両手でテーブルを叩いて正面から憤る彼女の勢いに思わず小言を収めた。
「どういうこと?」
「なんで私が、ライエルさんのお世話をしなきゃならないんですか!」
「え? お母さんのお世話でしょ?」
「一緒です!」
「……」
マルマの見解は尤もである。
母の代理というならば、掃除や洗濯は勿論のこと、食事を含んだ息子の世話だって担う事になる。
「嫌なの?」
「嫌です!」
「……」
上司であり、恩人でもあるアンジェに対しては言い返せなかったのだ――
「そんなこと言うの、あなただけよ?」
実際のところ、美将軍の世話係という仕事が耳に入ったら、女中たちの間で醜い争奪戦が勃発することは必至である――
それでも彼女の思いを汲んだ王妃は、一呼吸を置いてから、落ち着くようにと声を送った。
「他にやりたい人が居るんだから、やらせれば良いんですよ!」
「……」
それが簡単にできれば苦労はしない。難儀なればこそ、貴女に頼むのだ――
しかしながら、彼女にしてみればいらぬ誤解や嫉妬をまたもや浴びることになる。
もしかしたら、アンジェの密かな企みすら見破っているのかもしれない――
「まあ、そうなんだけどね…」
それでも彼女には、任務としてやってもらう以外にない。
憤慨するマルマを前にして、小さな王妃はため息交じりに同情だけは表すのだった――
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