【125.停戦協定】
「スモレンスクの方たちが、到着したようです」
「あ、はい」
カルーガの村に夜明けの光が注ぐ頃、コンコンと扉を叩く音がして、かまどに薪を焼べていたマルマが振り返って声を発した。
小さな王妃は片膝を上げた状態で、長身のライラは組んだ手指をお腹に置いて、乾いた藁に麻のシーツを敷いたベッドの上で寝息を立てている。
城で住み込みで働くマルマには、夜明け前には目覚める習慣が身に付いているのだ。
「ちょっとお待ちください」
言いながら、マルマがリアによって剥がされた麻のシーツを拾い上げ、ばさっと掛けて二人の姿を隠すと、いそいそと足を進めて木製の黒ずんだ扉を引き開けた。
「おはようございます。会談は、本日の正午からとなります。お付きの方、一名の派遣をお願い致します」
「はい。ご苦労様です」
冷たい空気が流れ込む。男性にしては小柄で重心の低いメルクからの言伝を受け取って、マルマは小さく頭を下げた。恐らく昨夜の一件が無ければ、頼りない尚書が来たのだろう。
マルマは臆病者の心を見透かして、溜め息を一つ吐き出した――
「入るわよ」
「あ。き…昨日は、申し訳ございませんでした!」
木製の階段を上って宿屋の2階に進んだ王妃が部屋の扉を開けると、ビクッと身体を反応させてから、薄い顔立ちの尚書が引き攣った表情で屹立をした。
「その話は後。あんたが居なくなっても、トゥーラは残るんだから」
「……」
なかなかに辛辣な言葉がやってきて、ラッセルの表情はどうしたって固まった――
「ほんとはね、スモレンスクに行きたいんだけど…」
腰高のテーブルを挟んで椅子に座る。図面を広げて段取りの最終確認をしていると、残念そうにリアが呟いた。
「守り切れる保証がありません」
「そうよね…」
まったく何を言い出すのやら…
旅行気分でほいほいと外遊先を探ろうとするのは勘弁願いたい。
王妃様の甘い芳香を近くで嗅げるのも、残り僅か…
などと不純な想いが浮かんだところで耳にした戯言に、ラッセルは冷静となって自重を促した――
停戦の会談は、夏にスモレンスクの将官が集まってマグを傾けた、地階の一室で行われた。
交通の要衝であるカルーガの地理を踏まえた上で、格式の高い石床の部屋を拵えたとするならば、宿屋の主人はなかなかに商才のある人物かもしれない。
会談の席へと先に通されたブランヒルは、備えられた机に用意された木組みの椅子にフリュヒトと共に腰を下ろすと、ひと月前に別れの挨拶を交わした宿屋の主人を思った。
「お待たせしました」
コツコツと石床を踏み鳴らす二つの足音が届くと、やがて質素な麻の衣服を纏った細身の男と、重心の低い小柄な男が現れた。
「段取り、感謝いたします」
杖の力を借りてスッと立ち上がった白髪の老臣が、深い皺が刻まれた右手をおもむろに差し出した。
「あ、こちらこそ。ご足労いただき感謝致します」
友好的な挨拶に戸惑ったトゥーラの尚書が右手を差し出すと、二つの掌が合わさった。
「よろしく」
「よろしく」
老齢の男とエンジ色の文官服を纏ったスモレンスク側の使者に場慣れ感があるのは否めない。
続いてフリュヒトがメルクと、ラッセルがブランヒルと握手を交わした。
後者の二人には武器を交えた浅からぬ因縁があるのだが、当時細身の男は鎧兜を纏っていた事もあり、双方とも気付く事はなかった。
「それでは改めて、よろしくお願いします」
二人ずつで向かい合って腰を下ろすと、ラッセルの一声がそれぞれの鼓膜を震わせた――
「失礼します」
会談が始まってしばらく経ってから、女中に扮したトゥーラの王妃が、長方形の木製のお盆を両手で支えながら停戦交渉の場に足を踏み入れた。
文書の内容は取り決め通り。お互いが確認のうえ署名して、交換するだけである。
調印は滞りなく行われ、緊張を孕んでいた一室は穏やかな雑談の会場へと変わっていた――
「そういえば、私が労役に従事していた時ですが、そちらの国王様に『考えることを止めるな』 と言われましてね…」
リアが白湯の入った縦長のマグを老臣フリュヒトに届けたところで、ブランヒルが一つの話題を披露した。
「トゥーラでは、民草に至るまで、政を意識しているのでしょうか?」
「……」
「さあ、どうでしょうか…」
急な問い掛けに対して、数合わせに同席することとなったメルクは押し黙り、市中に足を踏み入れることに乏しいラッセルは言葉を濁した。
「例えば、そちらの女中の方などは、いかがですか?」
麻の頭巾で赤みの入った髪を隠しても、可憐な顔立ちや小さな身体は誤魔化せない。
別れ際に罵った女であると気が付いて、視線を移したブランヒルは名指しに近い形で返答を促した。
「え?」
突然の質問がやってきて、女中の歩みは二人の背中の間で思わず止まった。
3つのマグが載ったお盆を両手で支えたリアの視線が落ちると、日焼けの跡が残る筋肉質な男と視線が交わった。
「……」
都市城門の一件。踏まえた上で、リアは静かに口を開いた。
「考える事を止めてしまうのは、支配されるのと同じですから」
「……」
彼女の澄んだ一声は、部屋の空気を静謐なものへと変えるに十分であった――
何よりも羨望の眼差しで彼女を認める事となったのは、小柄で可愛らしい姿でありながら、凛とした振舞いを正面から見せられたメルクである。
「素晴らしいですな」
フリュヒトが放った称賛の一声が、止まった時間を再び動かした。
「いえ、生意気を申しました」
スッと一歩を引いて謝罪の言葉を吐き出すも、リアの姿勢からは芯というものが窺えた。
「どうぞ」
「あ、ありがとう…」
続いて甘い香水の香りを仄かに残した小さな女中は、ラッセルに続いてメルクの前にコップを差し出した。
触れたら壊れてしまいそうな乳白色の可憐な手指が視界に入って、小柄な男は思わず委縮した。
ラッセルにしてみれば普段と変わらぬ姿であっても、純情なメルクにとっては心を奪われるに十分な出来事であった――
「失礼します」
暗がりの宿屋の廊下。パタンと扉を閉めてから、後ろに一歩を引いて頭を下げる。
頭巾を被った小さな女中の様式美に気付いたのは、スモレンスク側の人物でありながら、会場の玄関口で警備に就いていた、童顔の将兵カプスであった。
立場の弱い側が警護を担う事情は解っても、一国の代表が全くの無防備というのはいかがなものかと、進言したのである。
「……」
ニーナが大きくなったら、あんな感じだろうか…
小柄な大人未満の体型。
漠然としたものではあったが、彼の脳裏に成長した彼女の姿が浮かんだ――
「……」
明るい屋外の方から注がれる視線に気付いた女中が僅かに顎を引いてみせると、カプスも倣うように小さな会釈をしてみせた――
「それでは、ごゆっくりとお過ごしください」
「お気遣い、ありがとうございます」
宿屋の玄関で、会談を終えた四人がそれぞれに握手を交わすと、先ずは小柄なメルクが温かさの残る午後の空気に触れたあと、細身のラッセルが続いた。
旅の疲れを癒してもらおうと、会談が行われた温泉宿はスモレンスク側に預けられた。
それらを眺める形で、カプスが玄関先で佇んでいる。
「……」
エンジ色の文官服に身を包んだ兄貴分に比べて、トゥーラから派遣された使者の装いはどうしたって質素に映る。
国力差があろうとも、政治の舞台で語らう事が出来たなら、多くの争いは回避できたのかもしれない。
それでもこの場が設けられたのは、武力によって争った結果である。
カプスは平和的な解決を賛美しながらも、一つの事実を思うのだった――
「……」
トゥーラからやってきた二人の使者の後ろから、頭を頭巾で覆った小柄な女性がそそくさと玄関を抜けてきた。
自身より年下だと思われる、少女の面影を残した身体にカプスの視線が注がれる。
「え…」
彼は、思わず息を失った――
頭巾の際、大きな瞳の上に見えたのは、赤みの入った髪の色――
あの娘だ…
今は、トゥーラに住んでいるんだ…
「……」
カプスの数歩先。先頭を歩き出した細身の男が警備の労いに穏やかな視線を送ると、重心の低い小柄な男に続いて、背丈の低いあの日の女の子の成長した姿が通り過ぎていった――
「おかえりなさい!」
女中に扮した王妃が宿舎となった自宅の前で頭巾を剥ぎ取ると、マルマとライラが家屋の裏から声を掛けてきた。
「なにこれ?」
得意気となったマルマの笑顔を前にして、呆れた声を吐き出した。
「リア様のお顔を、作ってみました!」
枯れ木で土を削って顔の輪郭を描いてから、大きな瞳と口元を描く。
赤みの入った髪の毛は、もみじの赤い枯れ葉たちで表現されていた――
「…消しなさい」
「ええ!? 力作なのに!」
「恥ずかしいでしょ…」
「そんなことないですよ!」
「あなたが決めることじゃないわよね…」
二人のやりとりを、目尻を下げたライラの穏やかな微笑みが見守っていた――
「記念に、残しておきたいな…」
マルマが小さく呟いた。
カメラが世界に広まるのは、凡そ700年後の事である――
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