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小さな国だった物語~  作者: よち


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123/218

【123.無力な民】

スモレンスク公国の将官であるカプスは幌馬車の手綱を握り、停戦交渉の行われるカルーガに向かって馬の脚を進めていた――


(こんなふうに、向かったんだな…)


季節は違えど、子供の頃、父親に付いていった旅路を同じように進んでいる。

カプスは当時の面影を残す丸い童顔を、柔和な表情にしてみせた。


同時に浮かぶのは、初恋の思い出――

カルーガには夏の出陣時に立ち寄ったが、兵士をもてなす住民の中に彼女の姿は見当たらなかった。


「……」


初恋を捧げた彼女の面影を、馴染み店の看板娘、ニーナに重ねている。

飾り気のない彼女の好意を感じながらも、素直に受け容れる事ができないのは、未だに初恋の相手を引きずっているのだ――


更に言うならば、代替という心の重石を取り払い、一人の女性として向き合う事をしなければ、彼女に失礼では無いのか?

そんな意識も内包していた。



ニーナに初めて逢ったのは、将官となった自身の昇進祝いの席である。

スモレンスク城下の石畳の大広場。テラス席の一角を借り切っての宴に、店主の娘が配膳係として駆り出されていたのだ。


10代になったばかりのニーナが視界に映ると、カプスは思わず見入ってしまった。

陽光に照らされた赤みの入った髪がひらひらと漂って、愛嬌のある笑顔が大人たちを和ませていた――


店内カウンターに並べられたメイン料理を運ぶ際、小さな身体が配膳に苦戦しているところを見かねて、思わず足が向いたのだ。


「あらら、カプスさん。すみません。主役ですのに…」

「いえ。こちらこそ無理言って、申し訳ありません」


恐縮する女店主と会話を交わすと、カプスはニーナが支えるお盆に載った丸皿を両手でそれぞれ掴み上げた。


「それだけ、持っておいで」


お盆の上には、魚の蒸し料理が一つ。

ぱあっと明るくなった上目遣いがカプスに向けられて、あの日の場景が蘇ったのだ――


「……」


ニーナを助けようと足が向いたのは、夏の日に駆け寄ってきた、彼女の姿があったからかもしれない。


すっかりと色づいた木々の中、カプスは心穏やかな御者となって東へと向かった――



短い夏を受け取った、緑だった者たちが役目を終えて、かさっと音を発しながら幌馬車の天幕の上に重なっていく。

冷えた空気の中で正面から浴びていた白い陽光は、右手から注ぐぬくもりへと変わっていた――


四輪がゴロゴロと転がる幌馬車の中。向かい合って座るのは、スモレンスク公国の前宰相フリュヒトと、トゥーラからの親書を持ち帰ったブランヒルであった。


「あなたが思うままの印象を、教えていただけますか?」


床板に愛用の杖を立てたフリュヒトが、持ち手に両手を預けると、少し前のめりとなって尋ねた。


「は。なんと言ったらよいのか…とにかく争いはしたくない。そんな考えのようであります」

「それは、難しいことでしょうな」

「……」


真っ先に願望を語ってみたが、あっさりと否定を返されて、ブランヒルの表情は固まった。


同時に、欲望のまま、見境なくあれもこれもと手を伸ばす幼児の姿が浮かんだ。


比較して、抑制の効いたトゥーラの統治者の政治思想は、果たして大人のものだと言えるのか――


初めて認知した見聞に、ブランヒルの心には抗えない波涛が生じている。

同時に鑑賞中の舞台の幕が下ろされることに対しては、確かな忌諱の感情が宿っていた――


「耳に入っているかと思いますが…捕まってからの扱いには、感じ入るものがありました」


素直な感情として、ブランヒルは静かに口を開いた。


兵を率いる立場でありながら、好戦的ではない言動は自身の評価を下げるかもしれない。

それでもブランヒルは弟分が御者を務めていたこともあり、覚悟の上で言葉を続けた。


「仲間の骸を処理しているところに、国王が手伝いに来るんですよ」

「……」

「将兵も一緒になって、同じ飯を食って、朝から晩まで…信じられます?」

「なかなか、貴重な体験をされたようですな」


首元にまで伸ばした白い顎髭を左手で触りながら、老臣フリュヒトは興味深そうに声を発した。


「そうですね…初めのうちは人手不足を補う為かと思っていたのですが、どうやら違ったようで…」

「ほう」


前宰相の発言に、ブランヒルは農地で夏の日差しを受ける中、ロイズが鍬の刃裏を土に預けた二か月前を思い起こした――


「『心を知るためです』 そう言ったんですよ」

「……」

「平然と言いましたからね。『忘れちゃいけないのは、誰だって間違いは犯すのです。たとえ国王であっても』 なんてね」

「……」

「こうも言いました。『言いたいことを皆が持っています。彼らの意見が私よりも劣っていると、聞かずに誰が断言できますか?』 とね」

「……」

「俺は、反論できませんでした。その通りなんですよ。でも、俺はそんなふうに考えたことが無かった…」


発言を受けたブランヒルは、日に焼けた裸の上半身とともに唖然となって、同じく上半身を裸にしているトゥーラの国王に視線を預けた――


「ですが、方々から意見をしていては、政治に遅滞が生まれましょう。かつてはスモレンスクでも民会(ベーチェ)が行われていましたが、現在では市井に於いて機能しているのみです」


スモレンスクの先代国王ロスチスラフを長年に渡って支えてきた老臣は、静かな声で反論をした。


民会とは、古代の都市国家で催された、市民参加型の議決機関である。

ギリシャで行われたものが代表的であるが、交易のあった当時のルーシ諸公国でも行われ、中心地であるキエフでは、聖ソフィア大聖堂の前で催されていた。


民会はスモレンスクでも行われていた。しかし諸公国の分断が顕著となって覇権主義が台頭すると、権力が上級貴族に集うようになり、利権や賄賂が議決を左右する事態となって、やがて国家の行く末を決するような民会は下火となっていった――


「意見が届かなかった者たちの不満も、溜まっていく筈です」

「……」


経験に裏打ちされたフリュヒトの発言には、当然ながら重みがあった。


キエフ大公にまで上り詰めた先代は、当然ながら支配者であり、国家の英雄であった。

現在のロシアの首都モスクワの礎を築いたユーリーとの争いに兄を支える形で参戦をして、兄の没後も意志を継ぎ、都合15年以上に渡って戦乱の世を駆け抜けた。


フリュヒトは武芸の才には乏しかったが、軍師としての才能をところどころで発揮して、彼の覇道を支えたのだ――


当然、仕える王とは意見の相違が生まれた事もある。

強気となった王には逆らえず、彼の意見を入れた結果敗北し、キエフを去ることになろうとも、フリュヒトは落ち込む王の頭上から、次の機会を窺いましょうと励ました。


それから数か月。再びキエフ大公となった彼が帝位に就いている間、フリュヒトは宰相として祖国に残る形で、スモレンスク公として後を継いだ子息を支えたのである。


「私と共に、お過ごしください」


宰相として、友としてロスチスラフと共にあったフリュヒトは、外遊先で病魔に侵された彼が、最期の地を生まれ育った故郷ではなくキエフと定めた発言に、思わず抗った――


「この地に私がいては、息子たちが気を遣うであろう?」

「……」


父として、キエフ大公として、戦乱の世を勝ち抜いたスモレンスク公の前任者として、彼は頬骨が浮き出るまでにやせ細った顔の表皮に精一杯の微笑みを作った――


果たして、友からの最後の願いすら振り払った偉大なる英雄の終焉は、キエフに足を踏み入れることなく訪れた。


友の訃報を耳にしたフリュヒトは、涙が頬を伝うことを憚らず、彼の気概を讃えたのである――



「確かに、そうでしょうね…」


後ろ向きの発言に、ブランヒルは異論を唱える事が出来なかった――

しかしながら、それは老臣の経験に基づいた意見に屈した訳ではなく、事象としての存在を認めただけである。


「僕らは、奴隷を作りたい訳じゃないのです」


鍬を振り下ろしながら、トゥーラの国王が心の内を吐き出した。


「あなたが捕虜であっても、考える事を止めないで下さい」

「……」

「人が考えることは、力ですから」


王の腕が落ち着くと、流れ出る汗を拭った手首の向こうから、柔らかい微笑みが向けられた。


「俺が考えを述べたところで、変わることなんか無いだろ?」

「そんな事はありませんよ」


諦めと無気力を孕んだ声をブランヒルが放つと、男は穏やかな表情で否定した。


「正しい見解を、掬ってあげるのが為政者の役目ですから」

「……」


トゥーラは小さな国家。拾える声は多くない。

スモレンスクのような大国であれば、幅広い意見が出ることは疑いようがない。


つまりは、より良い一案を掬える筈である。


本来なら――



「ですが、あなたが教えられたという政の形は、確かに面白いものではありますな。民会とも、また違う」


多様な意見から正しいものを汲み取って、為政者が臣下や民草に理由を伝えたなら、自身が語った懸念も晴れるように思われる――


白髪の老臣が興味を漏らすと、瞼を伏せて前屈みとなっていたブランヒルが、思わず身体を起こした。


「ですが、土壌が痩せていてはロクな収穫もできません。土を変えるのは、並大抵のことではありませんよ?」


ブランヒルの開いた瞳に、老臣のまっすぐな視線が注がれた――


「……」


尤もである。

現在の祖国には、痩せた土壌しか存在していない――


「確かに、そうですね…」


落胆したブランヒルは、認めざるを得なかった。

スモレンスクの住民には、国家の未来を描く素養が無い。

時の権力者の意向によって、容易に思考を捻じ曲げてしまう可能性すらある—―


例えば統治者が、ルーシが起こる以前に時を戻そうと決したら、近親の間でも姦淫が当たり前に行われ、悪魔的な集団遊戯を欲望と好奇心のままに 『そう定まったから』 と平気で執り行いそうである――(※)


それほどに、民草たちは、無力な民であることに純粋なのだ――


「……」


多くの兵士は、結局のところ民である。


個人レベルで、或いは数人の将官が声を荒げたところで、国家の意志を変える事は難しい。

なによりも、消極的とはいえ現状を受け容れて、変化の先の想像に乏しい者たちの足は動かない—―


内側から変えることができないならば、外側から…

そんな野望のような思考が一瞬脳裏を過ぎったが、ブランヒルは咄嗟に打ち消した。


多くの血が流れ出ることは、明白である――




「それじゃあ、行ってくるわね」


トゥーラ城の最上階。国王執務室。螺旋階段へと続く重い扉の前でロイズの胸に頭を埋めた小さな王妃は、頭と背中を二本の腕で抱えられる温もりと愛しさを感じながら、しばしの別れを口にした。


「……」


快い見送りではない。

自由闊達に動き回る王妃を心配する声は、女中を束ねるアンジェや側仕えのマルマからも聞こえて来るのだ。


それでもロイズは重荷を背負う事になった彼女の奔放さだけは守ってやりたかった――


細い足首に重りが括られようとも、なお空を飛び回ろうとする小さな身体を、一番近くで眺めていたいのだ――


「うん。気を付けて」


赤みの入った癖のある髪の毛が、右手の中から逃れようとする。

引き止めたいと宿す心を振り払って、ロイズはリアの柔らかな白い頬に右手を添えた――


「ん…」


お互いが唇を求めると、リアの踵がふっと浮き上がる。


彼女の細腰を左手で支えながら、ロイズは一時の別れの儀式を済ますのだった――

*「悪魔的な集団遊戯」

 参考文献「ロシア原初年代記」からの引用。

 具体的な情景の描写を思いましたが、想像以上のものである可能性を考慮して、そのまま使用しました。


お読みいただきありがとうございました。

感想等、ぜひお寄せください(o*。_。)o

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