【102.あの日⑧】
迎えを待つのにも、限度がある――
乾パンや干した果物は日持ちもするが、水の鮮度は落ちてくる。
晩秋を迎えた寒さが続くとはいえ、四日目となっては木筒の中身も心配だ。
「誰か来た」
階段の一段目に腰を置き、何度目かの思考を巡らせたところで、草木を踏みしめる蹄の音が確かに聞こえた。
リズムよく、寄り道をする事なく、真っ直ぐにこちらへと向かってくる。
「……」
ロイズは咄嗟に立ち上がり、タタっと腰を屈めたままで足を進めると、背中を壁に預けるリアの華奢な左肩へと身体を寄せた。
「……」
リアの母親が最期に告げた、迎えの者なのだろうか…
そうであって欲しいと願いながらも、警戒を怠る訳にはいかない。
胸の鼓動が早くなるのを感じながらも、ロイズは膝小僧の上で震える小さな両手に右手を重ねると、包み込むように力を与えた。
「こっちに来るね…」
警戒心を保ちながら、ロイズが確認の声を渡す。
覚悟に震えを消した少女は頼るようにして、左肩を彼へと預けた――
「……」
殺意を抱く者が現れたなら、とても守る事は出来ない…
そんな結末を理解はしても、少年の心には確かな勇気が宿るのだった――
「ロイ君。居るか?」
頭上から届いた呼びかけは、男性からの低い声だった――
「……」
「……」
どんな反応を示せばよいのか、分からない。
想定はしていたが、突然訪れた事態に身体を寄せ合う二人は、大きくなった瞳を思わず合わせた。
「よいっと…」
焦りを募らせる中で、頭上で男の一声と共にザザッとした音が生まれた。
瞳孔が更に開く。
二人の視線は、暖炉へと通じる階段の上方へと向けられた。
「ロイ君。居ないか?」
再びの、心配を含んだ声音が上から響く。
「ぃます…」
まったく意図しない、掠れた声がロイズの口から漏れ出した。
相手に届けようという意志に反して、口元の筋肉が抗った。
思うように、声が出せない…
それほどの状態に陥っていたことを、初めて自覚した。
「おーい」
カンラカラと、暖炉にくべてあった薪の残りを排除する音が聞こえると、明らかに地下へと向かって放たれた、男の高くなった呼びかけが再び届いた。
「はい…」
ロイズが立ち上がり、地階へと続く灰白色の階段を一段だけ上がった。
「生きてたか!」
喜びに満ちた興奮の声が、暗い室内に鋭く響き渡った――
「ちょっと…出てこれるか? 狭くてな…」
「あ、はい…」
「……」
急かされるままに、ロイズが足元を確かめながら階段を上っていく。
歓びを表現する後ろ姿を、膝を抱えたままの少女は静かに顎を上げ、虚ろとなった表情で眺めるのだった――
「ロイ君か。はじめまして。頑張ったな」
暖炉の奥の隠し通路から、巣穴から這い出る動物のように頭を覗かせると、少年の頭頂部の方から労いの声がやってきた。
「……」
ロイズが顔を上げると、思わぬ眩しさに目が眩み、咄嗟に頭を落として瞼を塞いだ――
実際は、普段を過ごした室内で、明かりが差し込む程度である。
「大丈夫か?」
両膝を灰に置いたまま、上半身だけを暖炉の外へと晒した少年に、中腰となった男が問い掛ける。
「はい…」
うっすらと瞼を開き、再び目線を上げると、麻の衣服を羽織ったがっしりとした男が現れた。
「……」
「ほんとに、よく頑張った」
差し出された大きな手のひらにロイズが右手を伸ばそうとすると、男は少年の手首をがしっと掴んで、力任せに引っ張り上げた後で労いの言葉を渡した。
父よりも少し年上だと思われる男は、体躯に似合った大きな切り株みたいな丸い顔に、ギョロッとした眼を備えていた。
太い眉毛の上には髪は無く、外から差し込む明かりによって、頭部が僅かに反射をしている――
「……」
安堵に頬を緩めた男は興奮気味で、ロイズの足元から頭頂部までをスッと視線でなぞった。
次に膝が曲がって視線を同じにすると、幾ばくかの安心が、ようやく少年の胸へと宿るのだった――
「リアって娘は、一緒じゃないのか?」
唐突に、男がその名前を口にした。
「下に…」
「無事か?」
「……」
命は残っているか?
そういう意味の問いだろうと受け取って、少年は無言のままに頷いた。
「そうか…」
目の前の男は大きく肩を撫で下ろすと、身体中の空気を抜いてしまうんじゃないかと思うくらいな安堵の息を吐き出した。
「呼んでこれるか? ここから、離れないと…」
「……」
逃げる手段があるんだ――
ロイズはこくんと頷くと、振り向いて膝を曲げ、四つん這いになって再び暖炉の中へと身体を進めた。
「リア、出てこれる?」
ロイズの呼びかけが、地下へと続く暗闇に向かって放たれる。
「……」
暫くの時間を与えるも、何の反応も戻ってくる事はなかった――
「リア?」
訝しい声を発しながら、少年が前へと四肢を送った。
反応は無いままで、腰から足先までを暖炉の奥へと進めると、地下へと続く暗がりの階段へと腕を伸ばした。
「リア、居たら返事してよ?」
再び暗闇に襲われる。
塗り固められたひんやりとする壁に左手をあてがいながら、ロイズはしずしずと右手を伸ばして、階段との境を探った。
もしも彼女が目の前に居て、ゴツンとぶつかったなら、小さな身体は転げ落ちてしまうかもしれない…
そんな警戒を、心に抱きながら――
少年が地下室へと身体を沈めると、少女は動く事無く膝を抱えて蹲っていた。
「リア? 動ける?」
立ち上がった少年は、力ない声で促すように口を開いた。
「……」
返事がない。ただのしかばねのようだ…
いやいや、そんな事は無いだろうと、ロイズはリアの手前まで足を進めると、すとんと膝を曲げてみた。
「迎えの人が来たよ」
「……」
目の前で声を渡しても、返事が無い――
どうしようもなくなって、ロイズは右手を伸ばして彼女の細い一方の手首を掴むと、促す程度に引っ張ってみた。
「……」
無言のままで、抵抗の意志が示される…
どうやら動けないわけではなく、動くつもりが無いらしい――
「リア…」
少年だって、困るのだ。
迎えの人は待っている。
水に乏しい地下室に留まる理由は一つもない。一刻も早く、逃げ出すべきである――
「行くよっ」
苛立ちを覚えた少年は、掴んだ手首を強引に引っ張った。
しかし軽くなった身体は一瞬だけ浮き上がったが、彼女の背丈が伸びる事は無かった。
「フーッ!」
それどころか、掴まれた腕を無理矢理に引っこ抜いて、奥歯の方から威嚇の声を発したのだ――
「……」
覗いた少女の眼光は、怒りの色彩で染まっていた――
逃げるっていうの?
蔑むような濡れた双眸が、少年の心に突き刺さった――
「……」
勘弁してくれよ…
他に助かる道なんて、無いだろう?
それでも冷静な思考が、ロイズの頭を巡った――
「どうした?」
頭上から、不安を含んだ男の声がやってきた。
「いえ…」
ロイズは首だけを向けて一声を発すると、もう一度蹲ったままの少女を確認して、それから地階へと足を戻した――
「何があった?」
「……」
地階の光を頭に浴びると、同時に焦りを含んだ男の声が降ってきた。
「動けないみたいです…」
立ち上がったロイズが、俯いたままでぽつりと返す。
「ケガでもしてるのか?」
「いえ…」
「……」
「なんか、動かないっていうか…」
「……」
しょぼくれたロイズの発言に、目の前の男は無言の反応を示した。
「そうか…」
それでも少年が目線を上げると、剃り上がった頭に光を当てた大柄な男は、柔らかな表情になって腕を伸ばし、大きな手のひらをロイズの頭にぽんと乗せるのだった――
「……」
二人を迎えにきた男は、陽の上った屋外にその身を置いていた――
目の前には一緒にここまでやってきた、一頭の栗毛馬が厩の柱に繋がれている。
陽射しを遮る屋根の下には充分な藁が敷かれており、中心部分には凹みが見られた。
厩の主人は果たして、飼い主を背中に乗せたのだろうか…
「ふう…」
溜息を一つ吐き出すと、男は垣根の向こう側へと足を進めた――
冷たい風が、背中に触れる。
左右に視線をやると、乾いた土の上には幾つもの死体が横たわっていた…
殆どが、男の死体である。
正面に覗く川の流れは、突然の命の静止とは無関係に、穏やかなものであった――
「……」
少女の抱く感情を、男は理解していた。
汚れた手足が踏み入ろうとも、両親と暮らした家屋である。
楽しかった思い出も、そうではない思い出も、たくさんあるに違いない。
多くの悲鳴を耳に入れ、外で何が起こっているのかを小さな身体は想像した筈だ…
人々の声が消え去った静寂に、虚しさに、怒りに、恐怖に、怯えるのは当然のこと…
「……」
正義は、こちらにある。
理不尽に屈する事は、蹂躙していった奴らに勝利を与える事になる…
何故に、自分達が営んでいる穏やかな日常を、自らで放棄しなければならないのか?
悔しい思いも加わって、亡骸となった者たちと共にあろうとする選択を宿すのは、心としては正しい――
「立派に、育てたな…」
高い空を見上げると、男は労いの言葉を短く吐き出した――
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