第二話
夏の夜。
しんとした静寂でありながら、空気がはらむ熱が何らかの存在を感じさせる。
怪談が夏に語られるのは、その物語に精神的な涼を求めるからだけではなく、とらえどころの無い、だけど何かを感じさせるその空気のせいもあるのかもしれない。
とはいえ日が落ちてからかなりの時間が経過している。
快適とはとても言えないまでも、教室棟の中は耐えられない暑さというわけでもない。
体感としては充分に暑いのにもかかわらず、どこかひやりとしたものを感じるのは「夜の学校」特有のものだろう。
一年三組の教室。
そこに昼間知り合った少女と共に、彼はいる。
今夜ここで彼をいじめている連中も含めたクラスメイト有志によるイベントがあるらしい。
夏休みらしく肝試し。
ごく普通の、高校生たちのささやかなイベント。
クラスの、いや一年生の中心と言っていいグループが主催しているそうで、教師の許可も取得済み。
ご丁寧な事だ。
優等生が絡んでいれば何事も楽に行く。日頃の行いから来る信頼というものは、子供が大人に意志を通す際は大きな武器になるのは当然の事か。
それは事実の一端ではあるけれども、それを建前として基本融通の利かない教師たちに「夜の学校で肝試し」を許可させたのは、そのグループの親たちの社会的立場であるのは間違いないだろう。
自分をある意味死を選ぶところまで追いつめた奴等とて、このイベントに参加しているメンバーの中では最下層と言っても過言ではない。
いじめられていた自分がいう事ではなかろうが、なぜ奴らがあのグループが主催するイベントに呼ばれているのか不思議なくらいだ。
「しー」
謎の少女が指を唇の前に持ってきて、古典的な仕草で静かにするように示唆する。
彼自身は何も言っていない分、今の「しー」だけがうるさいと思うのだがあえて口にはしなかった。
肝試しイベントが開始されたらしい。
何故そんなことが解るのか、不思議なところだがまあそうなのだろう。
彼女の雰囲気なら「静かに」とか言いそうなものだが、意外と子供っぽい。
昼には死のうと思っていて、今だって彼女に付き合った後何も変わらなければ死のうと思っていることに変わりはないのに、その仕草を可愛いと思える自分の心理がおもしろい。
お約束というかなんというか、教室の後方にある掃除道具入れの中身を出して、その中に二人で潜んでいる。
教室は多少過ごしやすくなっても、ロッカーの中となれば話は別だ。
それはもう暑くて、汗は止めようがない。
その上ほぼ密着状態である。
彼女が淡々としているせいか、彼自身の汗が気持ち悪いくらいで落ちついてはいる。
だけど冷静に考えればこれは相当ドキドキするべきシチュエーションなのではなかろうか、と彼は疑問に思う。
女性との接点など皆無に等しかった彼なのだ。
可愛いと思える女のコとこのような状況になれば、もっとわかりやすく挙動不審になるのが普通のような気がするが、そうならないのは彼がもともと異常なのか、死を覚悟しているとこうなってしまうものなのか。
気になる娘が出来たから、という理由で他の嫌なことを全てどうでもいいことにしてしまえるのはひどく健全な気がした。
残念ながら自分はそうではないようだが。
そうしているうちに一組目? が一年三組の教室に到着する。
校庭からスタートし、一年三組の教室に到着した証拠を残して校庭へ戻る。
驚かせ役などは特に用意していないようだ。
その気になれば自分がその役を担えるな、と思うと彼は少し面白かった。
自分以外のみんなが、ごく普通の夏休みのよくあるイベントとして「肝試し」を楽しむ中、驚かせ役としては「みんな」のなかに数えられていない存在が適任であるような気がする。
我ながら卑屈な考え方だが、最初から参加メンバーの中に居ない自分が本当に驚かせ役を担えば、少なくとも最初の一組は本気で驚かせることが可能と思うとどこか痛快だった。
いじめているやつらが来たらやってみてもいいかもしれない。
一組目をロッカーの中から観察する。
お約束を外すことなく、男女一組。
口火を切る役を担ったのはやはり中心グループの中でも中核を成す有名なカップルだった。
男子の方は家こそ普通の中流家庭だが、成績がずば抜けてよく全国レベル。
容姿も同じ男の自分が見ても優れており、文武両道を解りやすく体現したように弓道部の期待の新鋭。中学時代は三年生の時に全中出場経験があり、自身が主将として率いていた。
言葉がきついこともあるが、言う事は的を射ており反感よりも納得と反省を促せる。
厳しいが頼りになるリーダー。
そう言った存在だ。
努力があっての事だとわかってはいても、一度は立ってみたい位置に居る存在だと言える。少なくとも自分と比べれば天と地ほどの差があると彼は思う。
女子の方は自身の美しさと家の裕福さで、この高校一有名と言ってもいいかもしれない。
中学時代に塾で出会った彼を追いかける形でこの高校へ入学したともっぱらの噂だ。
彼氏に負けず劣らずの成績、サラサラの長い黒髪とバランスのいいプロポーションと優れた顔の造形。
運動部には所属していないが苦手というわけではなく、中学生の時は有名私立女子校の生徒会長を務めていたらしい。
家は誰でも名前を知っているレベルの企業のオーナー。
やさしく穏やかな、理想の「お嬢様」を体現したような存在で、年頃、つまり高校一年生の男子であれば意識せずにいられる存在ではないと思う。
情熱的なところがあるらしく、エレベーター式の私立から彼氏と同じ、進学率や偏差値が高いとはいえ効率高校へ入学したあたりがまた話題性に事欠かない。
親や教師陣、彼本人の反対すら押し切って決意を曲げなかったそうだ。
接点がないどころか、いじめの対象であった自分にさえその程度の情報が把握できるくらいの有名人だ。
そんな彼女よりも、今自分と密着する形になっている謎の少女の方が魅力的だと思える。
取るに足りない、ささやかな優越感に苦笑いしそうになったところでふと気が付く。
自分の高校の制服を着ているから、当たり前のように同級生かあるいは先輩か程度に思ってはいたが、よく考えたらおかしな話だ。
自分はそこまで偏った美的感覚を持っている訳ではないと思う。
比べてどちらをより美しいと思うかはそれこそ千差万別、十人十色だとは理解しているが、自分が学校一と噂に名高い少女と比べて遜色ないどころか、勝っていると感じるような美少女が有名でないわけがない。
それこそ双璧なりなんなり噂にはなるはずで、その話題は地味でいじめの対象である自分にも伝え聞こえていて然るべきではないのか。
同じクラスという点を差し引いても、今男女一組で教室に入ってきたカップルの噂は、そこかしこで聞く事が出来たのだ。
今自分の肩に頭を預けるような形になっているこの美少女を、自分が知らないという事があり得るのだろうか。
他校の生徒であるというなら当たり前の事だが、それならばなぜあの時間あの場所にうちの制服を着ていたのか、今こうして自分と共にこうしているのか。
いやそんなことを言い出せば、そもそも初対面の自分とこんなことをしていることそれ自体が充分異常と言って差し支えないような気がする。
疑問が形になり、言葉になって口を突こうとする寸前。
「こんなことで無くなるものか? やはり少し甘いんじゃないのか?」
「かもしれません。でも大事にせずに無くせるのならそのほうが良いとは思いませんか?」
一組目の二人が会話をはじめる。
月明かりのおかげで真の闇というわけではないが、教室は充分に暗い。
にも拘らず懐中電灯の明かりだけで、肝試しらしくおどおどしている様子も、それにかこつけていちゃいちゃしている様子もまるでない。
日頃からあっさりとしたカップルだとは思っていたが、想像していた以上だった。
ごく落ち着いた声で会話が交わされている。
今度は「しー」いう声はなく、ゼスチャーだけでこちらを見上げている。
会話に集中しろという事だろう。
「それはわかるんだけどな……どうしても僕は悪意を持ってやった事にはそれなりの報いがあって然るべきだと考えてしまう。そもそも今回のこれも僕が僕のクラスでいじめなんてものが発生しているのが嫌という自分の都合でしていることだしな」
「それも間違っているとは思いません。ですけど、私たちがすっきりしたことと引き換えに事が大きくなり、いじめそのものはなくなっても加害者はともかく被害者も居場所がなくなるようなことは避けるべきだと思うんです。大丈夫。凜に任せておけば上手く行きますよきっと」
「たしかに僕は人の心の機微には疎い。君らに従った方がより良い解決になりそうだから従う事にするよ。どうにもならなければその時にまた考えればいい」
「そういう考え方は好きですよ」
「……君には敵わん」
そう言う会話を交わしながら、教室にたどり着いた証拠なのか黒板に自分の名前を書いて教室を出てゆく二人。
黒板の真ん中、寄り添うように書かれた二人の名前が酷く羨ましく感じた。
今はもう、窓からの月明かりしかないからはっきり見えないが。
「ふむ、すばらしいクラスメイトが居たものだね。少々上から目線かも知れないがそれを自覚し、君のためなどとのたまう事をせず「自分たちが嫌だから無くす」という立脚点をきちんと持っている。その上で自分がどうすれば一番すっきりするかを理解しつつそれを優先することなく「被害者」の立場を慮り、大事にならないように処理しようとしている。大したものだと言わざるを得ないな。まあ私が居なければ遅きに失した愚策となるところであったわけではあるが」
ふむふむと頷きながら謎の少女が感想を述べる。
言われなくても彼にもわかっていた。
この「肝試し」とやらは、一年三組というクラスから「いじめ」を無くすためのイベントであったわけだ。
夏休みを利用して「大事」になる前に処理する。
大騒ぎになって、結局「いじめ」の存在が表沙汰になるだけで加害者はもちろん被害者まで精神的な居場所を失うことを避けるための手段。
そのためにまず加害者たちを「弾劾」以外の方法でいじめをしないように方向付ける。
小規模とはいえ教師に許可を取り、参加者を募り、実行するのは骨が折れる。
自分たちが楽しみたいという欲求が前提ならまだ頷けもするが、自分が何を得するわけでもない、彼らにとっては取るに足りないいじめの被害者を救済するためだと聞くと俄かには信じがたい。
自分の知らないところで「救いの手」が準備されていたことに、ちょっとどう表現していいかわからない驚きを得る。
一方で謎の少女が言うように、そんなことを知らずに自分は今日の昼死んでいたかもしれなかったのだ。
いやそれこそ少女の言うとおり、彼女が現れなければ死んでいただろう。
「上から目線で「救われる」のは気に入らないかい?」
覗き込むようにして聞いてくる。
「いや、驚いただけでそんなことはない。まさかそんなことをしてもらえるなんて考えてもいなかったものだから」
上から目線であろうが、自分のためであろうが結果として自分が救われようとしていたことに、正直な驚きを得る。
不快感などは本当にない。
「正直に言えば自分の惨めさが情けないけれど、それは自業自得だしね」
とはいえ、一方的に救われる立場にいることに対する情けなさを全く感じないわけでもない。
「ふむ」
目を逸らさずにじっと見つめてくる。
「君が見せたかったのはこれって事か。くだらないやつらにいじめられて死ぬ前に、手を差し伸べてくれている存在がいることも知れ、と?」
楽になりたいから死ぬ。
それは今でもそう間違っている事とは思っていない。
だが自分が死ねば、救おうとしてくれていた人たちに「遅かった」「間に合わなかった」という悔恨を残すことになるのは確かだろう。
正直知った事かという気持ちがないでもない半面、素直にうれしいことも否めない。
それに自分が死を選ぶことになった直線の原因が取り除かれるというのであれば、死ぬ必要などないという主張も理解できる。
「いや? 違うが?」
何を馬鹿な事を、という表情で彼女が否定する。
「え? 違うのか?」
なるほどもっともらしい理由だと勝手に得心していたのだが、どうやらそうではないようだ。
「ああ違う。最初に言っただろう、死を思いとどまるべきだと私が思う理由は、「本人たちにとって取るに足りない悪意をぶつけられた方が死を選ぶ」というのがどうにも納得できないからだ。そして君に死を選ばせるほど追いつめた連中の悪意がどれほど本人たちにとって「取るに足りないか」を知ってなお、無抵抗で死ぬことを君が選ぶかどうかを見たいというのもあった。私が見て欲しいのはむしろこの後だね。だが君が今のすばらしいクラスメイトの行動を知って死を思いとどまるというならば、私のとにかく君を死なせないという目的は果たせたともいえる。思いとどまったかい?」
「わからない。今はびっくりしていてうまく考えがまとまらない」
何よりわからないのは、彼女が自分の死をこれほどまでに止めようとしている事だ。
今日の昼、まさに死の直前に初めて会った相手にしては関わりすぎだと思う。
いろんな理由を述べてはいるが、どうしても自分に死んでもらっては困る理由があると考えた方が自然なくらいに。
いや普通の人であれば、狂言ではなく死のうとしている相手に会えば、こうなるのか?
厄介ごとに巻き込まれるのを厭って距離を置くのが普通だと思うが、この肝試しが自分を救うために企画されていることを思い出す。
余裕のある人間、というのはそういうものなのかもしれない。
余裕なんて欠片も無い自分には理解できないだけで。
「なるほどそういうものか。まあ私に言わせればわからないという事はすでに思い止まっているとは思うがね。まあいい、そんな手間でもないし、本来私が君に見てもらいたかったものも見てくれればいい。そのうえでも君の反応がそんなものであるならば、私はそういう宿主なのだと理解するとしよう。君が変わっている様に、どうやら私も相当変わっているようだしな、同時に目覚めた眷属の行動を鑑みるに」
「なんのことだ?」
考えがまとまらないところへ、訳の分からないことを言われる。
宿主?
眷属?
「まあそれもすぐわかる。ほら来たぞ、私が君に見せたかったものが。声をひそめたまえ」
疑問の言葉を紡ぐ前に、再び沈黙を強いられる。
確かに二組目が教室に入ってきている気配があった。
問答をしていては気取られる。
自分を救うためのイベントを、当の本人が隠れてみているというのは相当にばつが悪い。
しかもクラスメイトでもない美少女と一緒に。
そんな思いが沈黙を選ばせた。
ばつが悪いなどと考えるという事は、もう死ぬ気はないのかな、などと自分の事にも拘わらず間抜けな思考が頭をよぎる。
「いや違うんだって。誤解、誤解。俺らはあいつとじゃれてただけで、凜さんが思ってるような事じゃないんだって」
――奴だ。
顔を見る必要もなく、声だけで分かる。
自分をいじめている中心的な存在。
重ねて情けないことに、その声だけで自分の身体か強張るのが理解できる。
何で自分はこんなに情けないんだろう。
体格的に見てもどうにもならない相手ではけしてない。
三対一という数的な不利があったとしても、それこそ死ぬ気で挑めば「気軽にいじめるには厄介なやつだ」と思わせるくらいは十分可能なはず。
頭ではそんなことを十分に理解しながらも、一学期の間中自分は抵抗することもなくいじめられてきた。
その果てに「死の方が楽だ」と思ってしまうまで。
決死で抵抗を試みるよりも、死んで楽になることを選んでしまう。
それも狂言ではなく本気で。
だからこそ、そういう自分をいじめのターゲットに選んだのだろう奴らは。
本当に自分は情けないんだという事あらためて自覚する。
さっきまでの自分があっさりとかき消え、「暴力」に怯える本当の自分が顔を出す。
やっぱり死んだ方が楽だよな。
こんな自分、誰も面倒見切れないだろう。
たぶん今肩に頭を預けている謎の彼女も、今の自分の反応であきれ返っているはずだ。
さっきまで死を決意しながらも落ち着いていた自分が、みっともなく取り乱している。
心拍数が上がっていることも自分でよくわかる。
「……いじめているわけじゃないって?」
凜さんと呼ばれた少女が問い返す。
誤魔化しを許さないような、名前の通りに凜とした声。
奴が言葉を濁すことを許さず、はっきりと「いじめ」と口にする。
一年三組の中核メンバーと目されている三人の最後の一人。
ポニーテールがトレードマークとなっている、少し釣り目気味のきつめの美貌と引き締まった身体を持つ少女。
中学時代から剣道を続けており、得物を持たれてしまえばそこらの男が束になってかかってもかなわないと噂だ。
親友である先のお嬢様には及ばぬまでも、かなりの人気を誇っている。
確固とした相手がいるお嬢様とは違いフリーであることから、交際を申しこんだ相手はかなりの数に上る。
かなりの数に上るという事は誰も了承を得てないという事を指し示すわけだが。
一学期の間に申し込んだ先輩を含むすべての男子生徒は「私より弱い人と付き合う気はない」という、取りつくしまもない一言で玉砕している。
実際何人かは異種格闘技戦を申し込んだらしいが、全て彼女の竹刀に打ち据えられたらしい。
「そ、そうそう。なんなら本人に訊いてみてくれたっていいよ。俺達はそんなことしてない。本人も間違いなくそういうって」
この期に及んで「そんなこと」
決して自分の口からいじめという言葉を出すことはない。認めることはない。
そう言う連中なのだ。
とはいえ、いじめの主犯格の言葉も上擦っている。
それはそうだろう。
彼女が本気で怒っているならば奴にはどうしようもない。
その上、このグループ主催のイベントに呼ばれて浮かれていたら、自分たちのやっていることをとがめられているという事は馬鹿でも理解できたはずだ。
つまり言い訳をするしかない。
よくわかる。
取るに足りない「弱者」で憂さ晴らしをしていたことが原因で、自分たちではどうにもならない「強者」に目を付けられ、正しく迫害される。
そんなことはあってはならない。
――なあに問題はない。
あいつだって自ら少し度を越した悪ふざけの態を取っていたじゃないか。
ああ、あれ以上追いつめていなくてよかった。
あいつのくだらない自尊心と、それを見逃していた自分たちに救われた。
俺達がもうああいうじゃれ合いはやらない、といえば大喜びで話を合わせるに違いない。
完全な誤解という事にして俺達がこのグループの一員になれるなら、あいつと本当の友達になってやったって充分おつりがくる。
そうすればあいつも泣いて喜ぶだろう。
誰も損はしない。
いや仲間とまではいかなくとも、あいつに明確に否定させればこの「強者」に「疑った」という貸しを作る事は最低限できる。
誤解をした負い目から少しでも遠慮されれば、「強者」から一目置かれる存在として振る舞う事も不可能じゃない。
ここは誤解の一手で押し通して、終わればさっそくあいつに連絡を取ればいい。
なんならやり過ぎを謝ってやったっていい。
――今日からは本当に友達だ。
主犯格のいいわけを聞いた瞬間から真っ白になっている頭に、奴の思考が流れ込んでくる。
気のせいか。
被害者意識が生み出す、拗ねた考え方か。
――違う。
まさに自分が奴らにじゃれ合いとやらをやられている時のように、きょどきょどと落ち着かない目を見ていればわかってしまう。
今自分の頭に流れ込んできているのは、間違いなく今、奴が考えている事そのものだ。
何故そんなことが起きているのかは理解できないが、それだけはわかる。
「全君と静は判断を保留している。だけど私はいじめだと思ってる。不覚にも直接見たことはないけれど、聞いた話から私はそう判断した。だけどアンタは違うと?」
「だから誤解だって。高校生にもなってそんなくだらないことしないよ。だけど俺らのじゃれ合いが見る人によってはそういう誤解を与えるっていうんなら自重するよ。だから……」
「いじめは私達の誤解、直接話して見たらそんなことはなかったと、全君と静に伝えてくれって?」
証拠がある訳でもない。
なにより追い詰めて断罪することが目的な訳でもない。
親友が言うとおり、大事になる前に問題をなかったことにするために今日のイベントを用意したのだ。
その意味では効果覿面であったと言っていい。
目の前の言い訳に終始している男子生徒が、今後同じことを続ける可能性は限りなく低いと見て良いだろう。
自分の正義感と嫌悪感を押し通す場面ではない。
目的を間違えてはならないと、凜と呼ばれる少女は自重する。
ため息をついて、頭を一つ振る。
「まあいいわ。誤解を招いた行動が今後一切なくなるって言うならそれでもいい。ただし二度目はないと思っていてね。その時は全君にも静にも相談しないで、私は私の判断で動くから」
「わかった、誓うよ。二度と誤解されるような行動はとらない。……そうだ、なんなら今からあいつに電話してこっちに来てもらうよ。本人から誤解だって言ってもらうのが一番はやいだろ? それにこういうイベントにはあいつも呼んでやったほうが喜ぶよ」
目論み通りいいわけが通用――したと思った奴が、ごそごそと携帯を取り出す。
ああ、そういえば携帯の電源切っていないな、とぼんやり思い出す。
こういう時は何も言われずとも切っているのが当たり前だろうに。
いや本来であれば友達もいない自分は、お約束として肝心な時に携帯が鳴って存在がばれるという事もないのか……と愚にもつかないことを考える。
真っ白になって、今まで経験したことの無い感情に思考の大部分を支配されているせいか、頭がぼうっとしている。
「――嘘だね」
白濁したような思考の中に、稲妻のように彼女の言葉が突き刺さる。
何も考えられなくなっている中、それだけが唯一無二の真実であるかのように。
「あれはそんな約束は守らない。この期に及んで「誤解」などと自己保身に走っている卑怯者が強者に無理やり守らされた約束を守ったりするものか。確かに君に対するじゃれ合いとやらはなくなるだろう。それが拙いという事はあの卑怯者にも理解できている。くだらんいじめをするよりも楽しい日々が始まるというのなら、自分たちがしていたことなど忘れて楽しむだろう。だが状況が変わればまたぞろ同じことを繰り返す。その対象が君にならないというだけで、どこかの誰かが、一学期の君の立場に立たされる。そういう存在だ。――クズだ」
そうだな。
間違いない。
あれだけの事をしておいて。
死ぬ方が楽だという思いを自分に強いておいて。
その自覚もありはしない。
それどころか誤解という事にして、「強者」に取り入るためにそういう思いをしていた相手とすら本当に友達になれると思っている。
クズだ。
「まあ百歩譲ってそれはいいとしよう。自分の事すら満足にできない君が、他者にまで気を回すのは傲慢とも言える。だが許せるのか?」
肩のあたりから覗き込む目が、爛々と輝いている。
そして間違いなく笑っている。
「君は奴らにこう呼ばれるぞ」
背伸びをして、顔がくっつくくらいの位置から瞳を覗き込んで言う。
『よう、親友』
――ピルルルルルルル。
――ピルルルルルルル。
味も素っ気もない、携帯の着信音が教室の隅、掃除用具入れから響く。
――キィ
着信音に押されるように、掃除用具入れの扉が開く。
中から確かに人の形でありながら、どこか異形なものが一人、のっそりと出てきた。
――ピルルルルルルル。
――ピルルルルルルル。
呼び出し音が鳴り続ける携帯を
くしゃり
と出ることもないままに握りつぶす。
物言わぬまま、二つの紅い目が携帯を持ったまま呆然とする男を見据える。
「お、おまえ……」
一学期の間中、絶対的に優位にいたはずの男の喉が、明確な恐怖にごくりと鳴る。
一目見た瞬間からのどかからからに干上がり、しゃがれた声しか出ない。
一学期の間、気が向いた時に小突き回していた相手のはずだ。
決して抵抗をしない、暴力というには生ぬるい仕打ちをしてもへらへらと笑っていただけの「弱者」のはずだ。
間違いない。
別に屈強な大男が突然現れたわけではない。
それは誰も居ないと思っていたところへ、その話題の中心である相手が突然現れれば驚きもするし、言葉をなくしたりもする。
だが今自分が驚いている、いや怯えているのはそういう真っ当な理由ではない。
一目見て、絶望的に自分よりも「強者」であることを理解してしまう。
心や理性ではなく、身体が。
何の変哲もない細腕が、携帯を紙細工のように「くしゃり」と潰す。
それがどれほどの力が必要なのかがピンとこない。
彼女らの仕込みなのか、とさっきまで自分を弾劾していた少女を見やる。
だが残念ながらそういうわけでもないようだ。
常に凛々しく、堂々としている――実際つい先刻まではいじめをするような男と一対一でありながらそうであった――凜と呼ばれていた少女が、明らかに怯えた声を出す。
それほどに、いま目の前に突然現れた「守ってあげるべきいじめの被害者」は異質な空気を放っている。
「……~君……角、生えてるよ?」
肝試しの驚かせ役などではけしてない。
そんな微笑ましい存在であるはずがない。
その額には、少女の言葉通り冗談のような一本角が生えており――
次の瞬間、人に出せるとは到底思えぬ声をひしりあげた。




