第一話
夏。
真っ白な積乱雲と、抜けるような青空。
どこか遠くに聞こえる蝉の声と部活動の声。
澄んで響く、金属バットが白球を捉える音。
かすかに届く笑いさざめく声や、吹奏楽部が練習している楽器の音。
今日は夏休み初日。
午前の早い時間帯のため、まだ本格的な暑さにはなっていないとはいえ充分に「夏の日」だ。
部室棟は夏休みに入っても、いや入ってからのほうが活況を呈している。
一方で一般教室棟はそれらの音を遠く聴きながら、静けさに包まれている。
全くの無音よりも、今みたいな状況のほうがより強く「静寂」を感じさせるのは不思議だな、と教室に一人佇む少年は思った。
一年三組。
ここは彼が一学期間通っていた、彼の教室だ。
残念ながらいい思い出はあまり無い。
いやもっとはっきり言えば吐き気がするような記憶しか無い。
中学の頃は目立たないまでも、ごく普通に生活できていたと思う。
陰で何かを言われることはあったかもしれないが、少なくとも自分の生活に具体的な影響を与えられるようなことはなかった。
数こそ多くは無いが、気のあった友人たちと穏やかな中学生活をおくれていた。
「教室」という単位で言えば脇役にさえもなれていないかも知れなかったが、それで充分だった。
高校に入ってそれが一変した。
理由はいまだによくわからない。
たまたま同じ中学からのクラスメイトが居なかったせいかもしれない。
たまたま性質の悪い集団がいるクラスになってしまったのが悪かったのかもしれない。
たまたま担任がまだ大学を出てすぐの女教師で、こういう問題に慣れていない、というよりも見てみない振りをする性格だったのが状況の悪化に拍車をかけたのかもしれない。
でも結局は自分が一年三組の中で最も「いじめ」の対象になり得るような存在であり、「いじめ」を呼吸のようにする連中がクラスメイトの中にいたことが全てを決定付けたというだけの話だ。
何をしたからという訳でもなく、一方的にそういう立場に追い込まれた。
あっという間に。
そうなってしまえば誰も助けてはくれない。
もとより付き合いがあった訳でもない、本当の意味で名ばかりのクラスメイトが手を差し伸べてくれるわけはない。
ドラマや漫画ではないのだ。
「いじめ」をする集団よりよほど圧倒的な何かを持たない限り、いや持っていたとしても。
ただの正義感で、付き合いが深い訳でもない冴えない自分に手を差し伸べるのはリスクばかり高くてメリットなんかない。
それを責める気にはなれなかった。
自分だってクラスメイト達の立場であれば、見て見ぬふりをするだろうと思うからだ。
だけど「いじめ」の現場を見てしまったクラスメイト達が自分に向ける、後ろめたさと、憐れみと、自分でなくてよかったという安堵の入り混じった視線は耐え難かった。
「いじめ」というには表現では生易しい、一方的に加えられる暴力による痛みよりも。
死んでしまいたくなるほどに。
そしてそれよりも「いじめ」に屈し、抵抗もできずみっともなく好きなようにされる自分がなにより嫌だった。
頭ではわかる。
勝てないにしても全力で抵抗すれば、奴らは対象を自分から別に変えるだろう。
逆らわれたことに逆上して、今より過激な暴力に出るかもしれないが、そうなってしまえば学校や警察の介入もある。
奴らの悪意はそこまの「覚悟」をもってはいない。
抵抗しない相手を選んで、ちょっとした憂さ晴らしをしているだけなのだ。
別にこの高校は地域で一番程度の低い学校というわけではない。
地方都市とはいえ県庁所在地の中では、上から数えたほうが良いくらいの高校なのだ。
奴らもこの学校の一年生ヒエラルキーの中で最上位とはとても言えない。
それどころか真ん中よりも下と言えるだろう。
その証拠に、他のクラスメイトに「いじめ」の現場を見られたときは、あわてて「悪ふざけ」の態を取る。
自分たちより上の人間の介入や、教師の介入を恐れている証左だ。
そこまで頭では解っていてなお、自分は奴らに好きなようにされる。
みっともなく「やめてくれよ」と、「洒落になってないよ」と、自らも「悪ふざけ」の態を取ることで惨めさを薄めようとして、その夜に自己嫌悪で吐きそうになる。
だけど抵抗できない。
暴力の前に体が、いや心が竦むのだ。
頭では解っている「必要な抵抗」がまるでできない。
してもしなくても暴力にさらされるなら一矢報いてしかるべきだ。
他人事なら自分もそういうだろう。
なのにへらへらと、限度を超えた「暴力」を我が身に受け続ける日々は一学期の間中続いた。
終業式である昨日はほっとしていた。
これで夏休みの間は、惨めな思いをしなくて済むと。
でも二学期は確実にやってくる。
そうなればまた同じ日々が続くのだ。
ふと、死のうと思った。
自分は簡単な筈の抵抗すら出来ない人間だという事は一学期の間にいやというほど理解できた。
クラスメイトなどの他人の救いも期待できないことも、一学期の間に十分理解できた。
ダメもとで相談した担任も、よくあるテンプレの回答でお茶を濁して介入はしてくれそうもない。
兄弟はいないし、母親ははやくに亡くしている。
父親は忙しく働いていて、自分の息子がいじめられているなんて想像もしていないだろう。
父親は強い人間だ。
相談しても我が子の惰弱さの方を理解できないだろう。
自分自身ですらそう思うのだから、無理もない。
たぶん自分は出来損ないなのだろう。
中学の頃は運よくそれが露呈していなかっただけで、こう言う状況に陥ると顕著にそれが現れる。
それにもう、自分の立ち位置は取り返しがつかないことになっている。
奴らに好きなようにいじめられ、抵抗もできずにへらへらしている蔑みの対象。
悪いのはいじめているやつらだと思うのだが、抵抗もできない自分に対してそういった評価が下されているのは伝わる。
なにより自分自身でもそう思ってしまう。
「やっぱり死んだ方が楽だな」
教室まで来て、奴らの机に何か残してやろうかとも思ったけど何も思いつかなかった。
そういう事が出来るなら、一学期の間に抵抗もできたのだろう。
結局本人たちが居なくても、何もできない。
それが自分の正体なのだ。
だけど心は痛む。
抵抗もできず、へらへらといじめられ、クラスメイトから侮蔑の視線を向けられれば心は血を流すのだ。
他人は「死ぬほどの事か?」というだろう。
だけど自分は思ってしまったのだ。
死んだ方が楽だと。
望むのは復讐でも、今更受け入れてもらう事でもない。
毎日続く地獄のような日々から解放されるなら、それでいいのだ。
なにもいい思い出もなく、死を思いとどまらせる要素の一切ない教室を後にする。
しんとした廊下を歩き、階段を上って屋上へ上がる。
そこから飛び降りればすべてが楽になるだろう。
死ぬ瞬間の痛みは相当なものなのだろうが、おかげさまで痛みには慣れている。
それにそれが永遠に続く訳でもなく、一度で終わると来た。
楽なものだ。
楽になりさえすれば後はもうどうでもいい。
どうでもいいのだ。
一応付いてはいるが、いつからかわからないほど昔から壊されている鍵を外し、屋上への扉を開ける。
その瞬間、遠く聞こえていた蝉の声や部活動の喧騒が強く聞こえる。
目に入ってくる、抜けるような空の蒼と、純白の積乱雲。
強い強い、夏の日差し。
強烈な暑さにあっという間に身体が汗を噴き出すが、緩やかに吹いている風のおかげでそれほど不快ではない。
生命感あふれる、夏の日の一日。
そのまっただ中で死のうとしている自分に妙なおかしみを覚える。
誰が見ている訳でもない、狂言で死ぬふりをする必要もない状況だ。
その瞬間には翻るのかもしれないが、今は間違いなく「死ぬ覚悟」が出来ているつもりだ。
にも拘らず、死に際しておかしみを感じる人間の心というのは不思議なものだと思う。
ここまで来てもったいぶるつもりは彼にはなかった。
フェンスを乗り越えてひょいと飛べばすべてが済む。
遺書だなんだとしたためる気も、もはやない。
フェンスを乗り越えるのは苦でもなかった。
その瞬間にはもっと怖気づくものかと想像していたが、意外とそうでもない。
ちょっと怖いなという位だ。
さて逝くか。
こんなにあっさり死を実行できる自分が、たかがあの程度の暴力に抵抗できず、究極の終わりである死を選ぶ。
それもちょっとおかしいなと思いながら、言うほどの抵抗もなく飛ぼうとした瞬間――
背後から声が聞こえた。
「やめたほうが良い、ばかばかしい。本人たちにとっては取るに足りない悪意をぶつけられたほうが死んで終わりになるなんて。死ぬ覚悟があるのならやれることがもっとあるだろう」
高いトーンの澄んだ声。
女の子の声だ。
さっきまでは間違いなく誰も居なかったはずだ。
屋上へ出た時に一応調べたので間違いない。
自分で思っているよりもずっと長く、飛び降りるのを躊躇していたのかもしれない。
びっくりして振り返ると、制服を身に付けた美少女がじっと見つめていた。
肩で切りそろえたまっすぐな髪が、夏の日差しを艶やかに反射している。
この暑さの中、汗一つかいていない。
整った顔は彼の理想そのものを具現化したような造形。
驚きながらも彼は彼女に答える。
ハプニングがあっても、死のうとする思いは意外なほど揺らがなかった。
会話が終わればすぐに飛べる。
「やれることがないから、死んだ方が楽なんだよ」
「……まあ言わんとしていることは解らなくもないけれど、やめときなさいな。君は楽になる、死なせる覚悟もなしに君をいじめていた奴らはすこし嫌な思いをする。だが……」
「命は大切にするべきって?」
初対面の相手だからか、皮肉めいた言葉も楽に言えた。
制服はこの高校のものだから、別のクラスの娘なのか、あるいは先輩なのかもしれない。
彼は彼女を知らないが、彼女が彼の「飛び降りる理由」を理解している以上は、学校内のどこかで彼がいじめられているのを目撃したことがあるのかもしれない。
それがたまたま死に臨もうとしているところに居合わせた。
まあ止めるのは当然か。
「いや、ぐちゃぐちゃになった君の遺体を回収する人が気の毒だ。それにこのまま死なれてしまったらその場に居合わせながら止められなかった私のトラウマになるかもしれないじゃないか。まあ私の心の問題は置くとしても、居合わせながら止められなかった私に批難が集まる可能性も高い。つまりまあ今は止めておけ。後日になっても変わらないならそれは仕方がない。私が居ないところでなら、私が止める理由もないだろう」
さらさらと辛辣なことを言う。
「なるほど」
妙に納得してしまった。
おためごかしを言われたらそれを聞きながら飛ぼうかとも思っていたが、見ず知らずの自分好みの少女に要らぬ迷惑をかける気もない。
「それに君ひとりでやれることがないのなら、私が付き合ってやってもいい。本人たちにとって他愛のない悪意を一方的にぶつけられた方が死を選ぶというのは私にとっては不快な事なのでな。まあとりあえずフェンスのこちら側に来たまえよ。そこに居られたままだと少々落ち着かない」
こいこいと手招きをする。
自分でも意外なくらい、彼は素直にそれに従った。
というかだいたいこの少女は何者なのだという疑問が今さらながらにわく。
「ところで君は?」
「私が何者であるのかはこの際どうでもいいだろう。私も君が何者であるかはわりかしどうでもいい。私にとって理不尽な死を止められればそれでいいのでな。で、どうする」
無茶苦茶だ。
だいたい手を貸すと言ってどうするというのだ。
こんな美少女に荒事が可能だとも思えないし、もともと自分自身が復讐を望んでいる訳ではない。
楽になりたいだけなのだ。
たとえ彼女が特殊な力を持っていたにしたって、掛け算の基礎数値である自分が0なのだから、何をかけあわせても何にもならない。
「自分に力がないからというのももちろんそうだけど、僕は楽になりたいだけなんだ。いじめてた連中に復讐したいとかそういうのはないんだよ」
「ふむ、君は相当に狂っているな。さっきの死の覚悟が狂言だったとは思えない。私の存在に気がついていなかったようだし、そんなことをする必要もない訳だしな。にも拘らず淡々と受け答えができている。失礼を承知で言うが、いじめの対象になるキャラクターにはとても見えないのだが。その上それを苦にして死を選ぶとは到底信じられない。なんなんだ君は」
なんなんだ君は、はこっちの台詞だと彼は思う。
「暴力を加えてこない相手には僕はこうなんだよ。暴力を振るわれれば君みたいな美少女が相手でもみっともなくびくついて、やめてくれるよう卑屈に懇願するさ。自ら悪ふざけの範疇であることを演出しながら、必死でね」
「まあ私が美少女であることは否定はしないが」
どうでもいい所に反応された。
わずかに誇らしげに胸を逸らしてまでいる。
「そういう自分が嫌になって、死を選ぶというわけか。ちょっと想像がつかないが本人が言うのだから事実なのだろう。これはここで別れれば一人になったら粛々と自殺を再開しそうだな。どうしようか、こまったな」
「なんで困るのさ」
「知ってしまった以上はなあ。知らねば夏休み明けに「我が校の生徒が一人、死を選んだ」というだけで終われる案件ではあるのだが、知ってしまった上に会話もしてしまった。これはさすがの私でもこのまま死なれればトラウマになりかねんしどうにかして止めたいところだ。どうしたものか……」
彼女は彼女で相当に変わっている。
彼の事がどうこうではなく、あくまで彼女にとって彼の死がどういう影響を与えるかが大事らしい。
「ふむ、そうだ。どうせ死ぬなら一日や二日延長したってどうという事はないだろう。幸いにして今は夏休みだ、耐えがたいいじめも行使される心配はない。いじめている連中が夏休みも君の家に押しかけてまでいじめを継続するような情熱の持ち主ならその限りではないかもしれんが、夏休み初日に落ち着いて自殺に臨めている以上、その可能性は低そうだ。どうだろう。数日間延期をして私に付き合ってみるというのは。それでも死の方が楽ならその時は仕方が無かろう。私も君の死を受け入れトラウマとして抱えて生きていくことを受け入れようと思う」
一方的にさらさらとまくし立てられる。
数日間延期して何をしようというのか。
彼の中に、今死を選ぶより興味がわいたのは事実だ。
「どうしようっていうんだ?」
「とりあえず今夜、この学校で逢おう。君が復讐する気がないと言っているいじめている連中が今夜この学校でイベントを企画している。それを見た上でもただ君が死を選ぶというならばそれはもうしょうがないことだと私も諦める。どうだ?」
「……わかった」
少々、いやかなり変わってはいるが、これは高校に入って初めて向けられた善意かもしれないと彼は思う。
しかも彼の状況を理解した上での善意……少なくとも善意に近い何かだ。
付き合ってみてもいいだろう。
死を覚悟した瞬間から何やら心が軽い。
落ち着くところが決まっていればそういうものかも知れない。
だけど彼女を自分のいじめに巻き込むわけにはいかない。
いじめている連中は彼女クラスの美少女になれば尻込みするだろうとは思うが、彼女クラスの美少女だからこそ暴走する可能性もある。
自分のせいで彼女に悪意が及ぶのはどうしても避けたいと、彼は思った。
「ああ、私に迷惑をかける可能性を考慮しているような顔だがそこは気にしなくていい。私は少々変わっていてね。少なくとも君をいじめているような連中にどうこうされる事はない。これは「どうこうされている」君を馬鹿にした発言ではないぞ、念のため。しかしまあ、そういう思考ができる人間がいじめられているというのがやはり私には理解しがたいな。死のうとしている事実を知らなかったら、わざとそういう立ち位置に自分を置いて居るのかと疑う位だ」
エスパーか。
まあ大丈夫というからには大丈夫なんだろう。
信じるしかない。
「いじめられている僕を見たら、一発で理解できると思うよ。「暴力」に対して自分でも異常と思う位恐怖を感じるんだ。それに曝されたら何も考えられなくなるくらいに」
本当に情けないと思う。
だけどどうしようもない。
どうしようもなかった――この一学期の間ずっと。
自分がこんな人間だとは、この状況に置かれるまで思いもしなかった。
「そうなのか。だけど私はそんな君は見たくないな。今後見なくて済むように協力するので一つ前向きに検討してみて欲しい」
見せたくないなと彼も思った。
だけどもう彼女以外の多くの人間がそんな自分を見てしまっている。
見られてしまっている。
それも死を選ぶ一つの理由であることは確かだ。
思い出したら――文字通り死にたくなるのだ。
「まあたかが一クラス分プラスアルファに過ぎない。君が生きることを最優先事項とするなら、見た人間すべてをどうにかすれば事足りるともいえる」
さらっと恐ろしいことを言っている。
こういう思考の人間は、少なくとも奴らの様な連中のいじめの対象にはならないのだろうと思う。
「まあとりあえず今夜ここでもう一度逢おう。その時に私が少々変わっているという証明もしようじゃないか。君はこういう約束は破らないと思うが、うっかり死なないでくれたまえよ。約束を破られるのは寂しいものだ」
それだけ言うと彼女はすたすたと屋上から去って行った。
途端に夏の日の音や日差しや熱を再び知覚する。
彼女と話していた間それらが存在していなかった訳ではないのに、居なくなって初めてそれらを全く意識していなかったことを思い知る。
すこし、いやかなり面白い。
死ぬために上がってきた屋上で、正体不明の彼女と知り合い、夜の学校で逢うことを約束した。
よくわからないが面白いと感じる。
死を延期するには十分な理由だと思えた。
最終的には死に至るとしても、彼は久しぶりに楽しみに思う事を得た。
それがどういう結果につながるのかは、彼にとってどうでもよかった。
楽になれればそれでいいのだ。
もうしわけありません、夏のホラー2015用の投稿小説でしたがまとめきれなくて続きを書くことになります。
早急に続きを投稿する予定です。




