4. エピローグ
「ツユは大丈夫でしょうか」
サヌキ王国、城の奥の一室。
宰相は湯気の立つうどんを前にしながらも珍しく手をつけずにいた。
「大丈夫でなくとも問題はない」
国王はうどんを啜る手を止めることなく、淡々と答えた。
「あの娘が切られれば、ムラカミがセップクせねばならんのだ」
宰相は黙った。
この王の言葉に嘘はない。それが恐ろしかった。
あの娘――ツユ。
その出自を知る者は、この国に二人しかいない。
十数年前、ムラカミ帝国と六代魔王オダノブの海戦。
セトウチの海を血で染めたあの大戦の最中、一隻の小舟がサヌキの浜に流れ着いた。
舟の中には瀕死の男と、まだ目も開かない赤子がいた。
男は息絶える間際、こう言い残した。
「この子は俺の子で、名前は――」
その男を知らぬ者はセトウチには存在しない。
モーリ。
ムラカミ帝国にとって最大の恩人であり、大戦を共に戦った盟友。
その忘れ形見がサヌキの浜に流れ着いたのだ。
国王はこの赤子を密かに引き取り、宮中で侍女として育てた。
五月に降る龍の雨――梅雨。
赤子が流れ着いた地、サヌキ。
国王はその二つを重ねて、この国では誰もうどんの出汁としか思わぬ名をつけた。
ツユ、と。
「ムラカミにとってツユという影武者は毒。恩義あるモーリの子を切ったとあらば、義理堅いムラカミはセップクするだろう」
うどんを啜りながら言う国王に、宰相は難しい顔で返事をする。
「だからこそ、影武者などという危うい立場で送り出したのですか」
「ああ……。出自がバレてもツユを保護した恩を売れる。サヌキにとって痛手はない」
国王は遠い目をしながら返した。
そんな国王の心中を慮って、宰相が静かに口を開いた。
「ツユを姫の侍女として近くで見守ってきました。あの娘は聡明で、口は悪いが人の心がわかる。こんな使い方をしていいものかと」
サヌキは王族と民の距離が近い国。
ツユのことは宰相も国王も我が子のように接してきたのだ。
国王のうどんを啜る音が、一瞬だけ止まった。
「……わかっている」
短い沈黙の後、国王は言った。
「だが、ムラカミ一強のこの時代にサヌキが生き残るにはこうするより他になかった。恨まれるのは承知の上だ」
宰相は反論できなかった。
この王は、名君であり、同時に非情な策士だった。
「……しかし耄碌じじいとは言ってくれたものだな。あの娘のことは、身勝手だが少し楽しみでもあるのだ」
国王はふっと笑った。
その顔は、策士のものではなかった。
娘を送り出した父親の顔だった。
「あの度胸があれば、帝国の地でも何かを為してくれるのではないか、とな」
宰相もまた、小さく笑った。
「ええ。僕も、少しだけ楽しみです」
宰相は冷めかけたうどんにようやくフォークを入れた。
城の窓からは、セトウチの海が遠く光っていた。
宰相がうどんを食べ終える頃には、二人の顔にはもう憂いはなかった。
――これは影武者として送り出された娘が、やがて『五龍姫』としてセトウチに名を轟かす物語である。
第1章 完




