表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
看板職人ヤスミンは赤い糸を書き換える  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/9

第9話 閉店の二文字

 同じ日の夕方、ことば屋つばめへ、見覚えのある板が持ち込まれた。


 食堂の老主人が両手で抱え、老婦人が端を支えている。表へ太く二字だけ書かれていた。


 ――閉店。


 戸口へ入ってきた途端、パゾスが「待った」と声を上げた。


 「その二字は重すぎる。せめて“しばらく考えます”ぐらいにできないか」


 「考えたから、これなんだよ」


 老主人は情けないような、照れくさいような笑い方をした。けれど目の下には、朝より深い影がある。


 ヤスミンは板を受け取った。まだ乾ききっていない墨が指先へ少しつく。急いで書いた字ではなかった。何度も筆を置き直し、覚悟を押し込めるみたいに太くなった字だった。


 「どうして」


 老婦人が先に答えた。


 「お客は戻ってくれたよ。あんたの札で、あの昼は本当に助かった。でもね……」


 彼女は食堂の方角を振り返るように顎を動かした。


 「ここ数日、立ち退きの噂が広がってるんだよ。鍋を煮ても、どうせ長くないんだろうって顔で覗いていく人がいる。仕入れ先も、代金は前払いで頼むって言い始めた」


 老主人が言葉を継ぐ。


 「昨日は常連が、心配して来てくれた。ありがたいよ。ありがたいけど、その帰り際に“終わる前に一度寄れてよかった”なんて言われちまってな」


 その一言が堪えたのだろう。老主人は笑いながらも、手の節だけ白くなるほど板を握っていた。


 ハッサンは工房の隅で資料を見ていたが、顔を上げると静かに尋ねた。


 「立ち退きの正式通達は出ていません。誰がそう言い始めたか、心当たりは」


 「ないよ。ないけど、噂ってのは鍋の湯気より回るのが早い」


 老婦人が言う。


 ヤスミンは板を長机へ置いたまま、食堂へ行く支度を始めた。


 「見に行く」


 「今からか」


 「今のうち。鍋の匂いがまだ残ってる時間じゃないと分からない」


 老夫婦を連れ、ヤスミンとハッサンは食堂へ向かった。エドリラが途中で合流し、パゾスは「看板が必要な夕方こそ宣伝人の出番だ」とついてくる。ヴィウンタは「寸法が分かったら呼んでください」と工房に残った。


 食堂の戸を開けると、空席が先に目へ入った。


 鍋はちゃんと火にかかっている。豆と肉を煮た匂いも、柔らかく漂っている。けれど椀のぶつかる音が少ない。壁の上のほうには長年の湯気でできた染みがあり、いちばん奥の席の木は常連の肘で角が丸くなっていた。戸口近くの床板だけ、少し艶がある。そこは毎朝、最初の客が必ず立つ場所なのだろう。


 ヤスミンはゆっくり見回した。


 「ここ、しまう店の匂いじゃない」


 老主人が困ったように笑う。


 「鍋は、癖で火にかけちまうんだ」


 「癖じゃないよ。今日も食べさせる気でかけてる」


 ヤスミンは壁の染みを見、棚の椀を見、戸口の床板を見た。店が長く積み重ねたものは、帳面より先に壁へ残る。誰がどこに座るか、どの時間に湯気がいちばん濃いか、入口で何の匂いが最初に当たるか。その全部が、この店の文になる。


 ハッサンが板へ視線を落とした。


 「現実は厳しい。希望だけを書くと、失望も大きくなる」


 「知ってる」


 ヤスミンは即答した。


 「だから、“頑張ってます”なんて書かない」


 彼女は店先の小卓を借り、板を横向きに置いた。閉店の二字は水を含ませた布で消す。墨が溶けて、黒い筋が木目に沿って流れた。


 パゾスが横から覗き込む。


 「ここはひとつ、“終わる終わる詐欺の店”でどうだ」


 「帰って」


 「帰らない」


 「じゃあ黙って」


 老婦人が吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。その顔にさっきよりわずかでも色が戻ったのを見て、ヤスミンは筆を取る。


 最初の一行は、すぐ決まった。


 『今日もあの鍋を火にかけています』


 老主人が小さく息を呑んだ。


 「あの鍋」


 「うん。知らない人には何のことか分からなくても、知ってる人は分かる」


 ヤスミンはさらに下へ短く添えた。


 『いつもの席、空いています』


 ハッサンがその二行を見つめる。


 「説明が少なすぎる」


 「ここは役所の掲示じゃない。読む前に、思い出してもらう板」


 「客は思い出だけで来るわけではない」


 「でも、最初の一歩は思い出で動く人がいる」


 言いながら、ヤスミンは文字の間を少し広く取った。急かさない間隔。帰ってきてもいい、と言うための余白だった。


 板が乾くのを待つ間、老婦人は黙って鍋の火加減を見に戻り、老主人は戸口の柱を磨き始めた。閉めるつもりで持ち込んだ板が、開けて待つための板へ変わっただけで、二人の手つきまで変わるのが分かる。


 夕闇が落ちる前、ヤスミンは新しい板を入口の脇へ立てた。戸口から二歩離れた場所。道を歩く者が真正面から読まなくても、視界の端へ入る位置だ。


 最初に足を止めたのは、白髪の仕立て屋だった。板を見て、食堂の中を覗き、それから照れくさそうに入っていく。


 「まだ椀、残ってるかね」


 老婦人の返事は裏返った。


 「あるよ。あるに決まってるだろう」


 次に、背の高い荷運びの男が立ち止まった。板の前で少し笑う。


 「“あの鍋”か。ずるいな」


 彼も入る。その後ろから、若いころ通っていたらしい夫婦連れが来て、「懐かしいね」と顔を見合わせた。


 店の中へ灯が戻っていく。大勢ではない。けれど、空席のあいだから人の声が立ち上がり、湯気が客の顔に触れ、老主人の背が少しずつ伸びていく。


 老婦人は椀を並べながら泣き、泣きながら「熱いから気をつけて」といつもの調子で言った。仕立て屋は「泣くなら塩を入れすぎるなよ」と笑い、老主人が「今日はお前の椀だけ豆を減らす」と言い返す。


 笑い声のある食堂は、それだけで町の灯りだった。


 ハッサンは戸口の外で、その様子を最後まで見ていた。人の出入り、板の位置、読んだ者の反応。いつものように整理して見ているはずなのに、どこか見入ってしまっている顔だった。


 「君の文は、実際に人を戻すんだな」


 ぽつりと、初めて認める言い方でそう言った。


 ヤスミンは板の端を撫でながら答える。


 「だから、消されると困るんだよ」


 そのとき、通りの向こうで誰かが立ち止まって、食堂の営業許可掲示のほうを見た。


 暗くて顔までは分からない。ただ、様子を見るというより、場所を確かめる視線だった。


 ハッサンもそれに気づいたらしく、わずかに目を細めた。


 けれど、こちらが動くより先に、その影は路地の奥へ溶けた。


 食堂の中では、椀の音がまたひとつ増えていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ