第9話 閉店の二文字
同じ日の夕方、ことば屋つばめへ、見覚えのある板が持ち込まれた。
食堂の老主人が両手で抱え、老婦人が端を支えている。表へ太く二字だけ書かれていた。
――閉店。
戸口へ入ってきた途端、パゾスが「待った」と声を上げた。
「その二字は重すぎる。せめて“しばらく考えます”ぐらいにできないか」
「考えたから、これなんだよ」
老主人は情けないような、照れくさいような笑い方をした。けれど目の下には、朝より深い影がある。
ヤスミンは板を受け取った。まだ乾ききっていない墨が指先へ少しつく。急いで書いた字ではなかった。何度も筆を置き直し、覚悟を押し込めるみたいに太くなった字だった。
「どうして」
老婦人が先に答えた。
「お客は戻ってくれたよ。あんたの札で、あの昼は本当に助かった。でもね……」
彼女は食堂の方角を振り返るように顎を動かした。
「ここ数日、立ち退きの噂が広がってるんだよ。鍋を煮ても、どうせ長くないんだろうって顔で覗いていく人がいる。仕入れ先も、代金は前払いで頼むって言い始めた」
老主人が言葉を継ぐ。
「昨日は常連が、心配して来てくれた。ありがたいよ。ありがたいけど、その帰り際に“終わる前に一度寄れてよかった”なんて言われちまってな」
その一言が堪えたのだろう。老主人は笑いながらも、手の節だけ白くなるほど板を握っていた。
ハッサンは工房の隅で資料を見ていたが、顔を上げると静かに尋ねた。
「立ち退きの正式通達は出ていません。誰がそう言い始めたか、心当たりは」
「ないよ。ないけど、噂ってのは鍋の湯気より回るのが早い」
老婦人が言う。
ヤスミンは板を長机へ置いたまま、食堂へ行く支度を始めた。
「見に行く」
「今からか」
「今のうち。鍋の匂いがまだ残ってる時間じゃないと分からない」
老夫婦を連れ、ヤスミンとハッサンは食堂へ向かった。エドリラが途中で合流し、パゾスは「看板が必要な夕方こそ宣伝人の出番だ」とついてくる。ヴィウンタは「寸法が分かったら呼んでください」と工房に残った。
食堂の戸を開けると、空席が先に目へ入った。
鍋はちゃんと火にかかっている。豆と肉を煮た匂いも、柔らかく漂っている。けれど椀のぶつかる音が少ない。壁の上のほうには長年の湯気でできた染みがあり、いちばん奥の席の木は常連の肘で角が丸くなっていた。戸口近くの床板だけ、少し艶がある。そこは毎朝、最初の客が必ず立つ場所なのだろう。
ヤスミンはゆっくり見回した。
「ここ、しまう店の匂いじゃない」
老主人が困ったように笑う。
「鍋は、癖で火にかけちまうんだ」
「癖じゃないよ。今日も食べさせる気でかけてる」
ヤスミンは壁の染みを見、棚の椀を見、戸口の床板を見た。店が長く積み重ねたものは、帳面より先に壁へ残る。誰がどこに座るか、どの時間に湯気がいちばん濃いか、入口で何の匂いが最初に当たるか。その全部が、この店の文になる。
ハッサンが板へ視線を落とした。
「現実は厳しい。希望だけを書くと、失望も大きくなる」
「知ってる」
ヤスミンは即答した。
「だから、“頑張ってます”なんて書かない」
彼女は店先の小卓を借り、板を横向きに置いた。閉店の二字は水を含ませた布で消す。墨が溶けて、黒い筋が木目に沿って流れた。
パゾスが横から覗き込む。
「ここはひとつ、“終わる終わる詐欺の店”でどうだ」
「帰って」
「帰らない」
「じゃあ黙って」
老婦人が吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。その顔にさっきよりわずかでも色が戻ったのを見て、ヤスミンは筆を取る。
最初の一行は、すぐ決まった。
『今日もあの鍋を火にかけています』
老主人が小さく息を呑んだ。
「あの鍋」
「うん。知らない人には何のことか分からなくても、知ってる人は分かる」
ヤスミンはさらに下へ短く添えた。
『いつもの席、空いています』
ハッサンがその二行を見つめる。
「説明が少なすぎる」
「ここは役所の掲示じゃない。読む前に、思い出してもらう板」
「客は思い出だけで来るわけではない」
「でも、最初の一歩は思い出で動く人がいる」
言いながら、ヤスミンは文字の間を少し広く取った。急かさない間隔。帰ってきてもいい、と言うための余白だった。
板が乾くのを待つ間、老婦人は黙って鍋の火加減を見に戻り、老主人は戸口の柱を磨き始めた。閉めるつもりで持ち込んだ板が、開けて待つための板へ変わっただけで、二人の手つきまで変わるのが分かる。
夕闇が落ちる前、ヤスミンは新しい板を入口の脇へ立てた。戸口から二歩離れた場所。道を歩く者が真正面から読まなくても、視界の端へ入る位置だ。
最初に足を止めたのは、白髪の仕立て屋だった。板を見て、食堂の中を覗き、それから照れくさそうに入っていく。
「まだ椀、残ってるかね」
老婦人の返事は裏返った。
「あるよ。あるに決まってるだろう」
次に、背の高い荷運びの男が立ち止まった。板の前で少し笑う。
「“あの鍋”か。ずるいな」
彼も入る。その後ろから、若いころ通っていたらしい夫婦連れが来て、「懐かしいね」と顔を見合わせた。
店の中へ灯が戻っていく。大勢ではない。けれど、空席のあいだから人の声が立ち上がり、湯気が客の顔に触れ、老主人の背が少しずつ伸びていく。
老婦人は椀を並べながら泣き、泣きながら「熱いから気をつけて」といつもの調子で言った。仕立て屋は「泣くなら塩を入れすぎるなよ」と笑い、老主人が「今日はお前の椀だけ豆を減らす」と言い返す。
笑い声のある食堂は、それだけで町の灯りだった。
ハッサンは戸口の外で、その様子を最後まで見ていた。人の出入り、板の位置、読んだ者の反応。いつものように整理して見ているはずなのに、どこか見入ってしまっている顔だった。
「君の文は、実際に人を戻すんだな」
ぽつりと、初めて認める言い方でそう言った。
ヤスミンは板の端を撫でながら答える。
「だから、消されると困るんだよ」
そのとき、通りの向こうで誰かが立ち止まって、食堂の営業許可掲示のほうを見た。
暗くて顔までは分からない。ただ、様子を見るというより、場所を確かめる視線だった。
ハッサンもそれに気づいたらしく、わずかに目を細めた。
けれど、こちらが動くより先に、その影は路地の奥へ溶けた。
食堂の中では、椀の音がまたひとつ増えていた。




