第8話 恋文よりまず証拠
登録所を出たところで、ヤスミンはそのまま役所のほうへ歩き出した。
「どこへ行く」
ハッサンが後ろから言う。
「決まってるでしょ。今すぐ聞きに行くの。誰が押したのか、誰が札を通したのか」
「待て」
「待ってるあいだに、また別の札が通る」
階段を下り切る前に、ハッサンが腕ではなく言葉で彼女を止めた。
「今ここで騒げば、相手に証拠を隠す時間を与える」
ヤスミンは振り返った。
「じゃあ、泣いている人を明日まで待たせるの」
「明日までとは言っていない。順番の話だ」
「順番のあいだに暮らしが潰れる人もいる」
「感情だけで突っ込めば、潰れる人数が増える」
言葉のぶつかる音が、石壁に薄く返った。往来の人が一度こちらを見て、すぐ目をそらす。
ヤスミンは分かっていた。ハッサンが怯えているわけではないことも、事を荒立てれば本当に証拠が消えることも。それでも、目の前で震えていたサフィアの手を見たあとでは、足を止める理屈が体に入ってこない。
「紙の順番より、人のほうが先でしょ」
「だから守るために、紙を押さえると言っている」
「その押さえ方が遅いって言ってるの」
パゾスが二人の間へ入ろうとし、入る前にやめた。何を言っても火に油だと分かったのだろう。代わりに、近くの茶屋へ走っていく。
しばらくして戻ってきたとき、後ろにはカミがいた。盆の上に湯気の立つ茶碗を四つ載せている。
「往来でやる話じゃないね」
カミはそれだけ言って、近くの軒下の卓へ茶を並べた。
「まず一口。熱いものを飲むと、人は少しだけ“次に言うこと”を選べる」
ヤスミンはまだ息が荒かったが、茶碗を握ると、自分の手が思った以上に冷えていることに気づいた。ハッサンも同じく黙って茶を取る。カミは二人の間へ座らず、一歩引いた位置で湯壺の蓋を押さえた。
パゾスは空気を変えようとして、無理に明るい声を出した。
「では、ここは恋文相談のときの心得でいこう。怒りのあとには、まず――」
「今その例えを出すな」
ヤスミンとハッサンの声がまた重なった。
「失敗した」
パゾスが即座に白旗を上げる。カミは肩を揺らして笑いをこらえた。
少しだけ、空気がほどける。
その隙に、ハッサンが卓へ記録用紙を広げた。
「必要なのは三つだ」
彼は一本ずつ指を折る。
「第一に、サフィアの札の写し。筆癖、訂正跡、押印位置を後で比較できる形で残す。第二に、受け渡し記録。誰が何時に札を持ち込んだか、どの窓口を通したか。第三に、同種の札の抽出。後見札だけではなく、婚姻札や養子札にも同じ手が入っていないかを見る」
「そんなことしてる間に、ラージン商会が次を出してきたら?」
ヤスミンがなお食い下がる。
「そのために、表向きは何も気づいていないふりをする」
「嫌」
「嫌でも必要だ」
ハッサンは茶碗を置いた。静かな音だった。
「相手は、板一枚、札一枚で少しずつ権利を削るやり方に慣れている。こちらが怒鳴れば、次はもっと見えにくくやる。だから、今は見せたまま泳がせる」
ヤスミンは茶の表面を見つめた。薄い湯気がゆらぎ、その向こうで自分の顔がわずかに歪む。
怒っているのは確かだった。怖いのも確かだった。サフィアだけではない、知らない誰かの札まで、今この瞬間にも別の名へ寄せられているかもしれない。
「……でも」
声が少しかすれる。
「見てるだけみたいで嫌なんだよ」
ハッサンはそこで初めて、少し柔らかい声を出した。
「君の怒りは正しい」
ヤスミンは顔を上げた。
「だが、正しさだけでは守れない」
その一言は、さっきまでの言い合いよりずっと深く刺さった。
正しいと言われたからではない。守れない、のほうが痛かった。自分でも分かっていたからだ。六年前の豪雨の夜、違和感を見ていながら言い切れなかった記憶が、胸の奥で小さく軋む。
言い返す言葉は出なかった。
代わりに、ヤスミンは短くうなずいた。
「……写し、取る」
「私が登録所へ戻って正式に控えを押さえる」
ハッサンが言う。
「君は筆跡と文言の違和感を見てくれ。パゾスは商会の使いについて市場まわりで当たれ。カミ、できれば茶屋に流れる噂の線を拾ってほしい」
「うちの茶は高いよ」
カミが言う。
「あとでツケを怖がらないで払えるならね」
「払う」
「ならいい」
話がようやく段取りの形を取りはじめたころ、ヴィウンタが息を切らせてやってきた。両腕には札の控え写しが抱えられている。
「登録所から、比較用に過去二十件ぶん借りました」
「早いね」
ヤスミンが言うと、ヴィウンタは当然の顔で答えた。
「早く見たほうがいいので」
卓へ写しを並べる。婚姻札、後見札、養子札。書式は違うが、名前の並べ方や余白の取り方には書き手の癖が出る。
ヤスミンは一枚ずつ目で追い、ヴィウンタは定規で行の傾きを測り、ハッサンは押印のずれを見た。
しばらくして、ヴィウンタの指が一枚の札で止まった。
「これ」
「何」
「同じ筆癖があります」
彼女は二枚、三枚と抜き出した。
名前は別、札の種類も別なのに、特定の文字だけ跳ね方が似ている。“シ”の払いが浅く、“ア”の最後の線が少し内へ入る。本人の名をなぞったのではなく、同じ人間がいくつもの札を“それらしく”書いた癖だ。
「他にもある」
ヴィウンタは静かに言った。
「少なくとも五件。同じ手です」
茶の温度が、急に下がった気がした。
サフィアだけではない。
誰かが、同じ手で、別の誰かの人生にも名前を差し込んでいる。
ヤスミンは札の写しへ手を伸ばした。胸の奥の悔しさは消えない。けれど今は、それをそのまま燃やすより、形へ変えるほうが先だ。
役所へ殴り込むのは、まだ先になる。
そのかわり、相手が隠しきれないだけの紙を積む。
そう決めたとき、ヤスミンはようやく茶を飲み干した。




