表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
看板職人ヤスミンは赤い糸を書き換える  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/9

第8話 恋文よりまず証拠

 登録所を出たところで、ヤスミンはそのまま役所のほうへ歩き出した。


 「どこへ行く」


 ハッサンが後ろから言う。


 「決まってるでしょ。今すぐ聞きに行くの。誰が押したのか、誰が札を通したのか」


 「待て」


 「待ってるあいだに、また別の札が通る」


 階段を下り切る前に、ハッサンが腕ではなく言葉で彼女を止めた。


 「今ここで騒げば、相手に証拠を隠す時間を与える」


 ヤスミンは振り返った。


 「じゃあ、泣いている人を明日まで待たせるの」


 「明日までとは言っていない。順番の話だ」


 「順番のあいだに暮らしが潰れる人もいる」


 「感情だけで突っ込めば、潰れる人数が増える」


 言葉のぶつかる音が、石壁に薄く返った。往来の人が一度こちらを見て、すぐ目をそらす。


 ヤスミンは分かっていた。ハッサンが怯えているわけではないことも、事を荒立てれば本当に証拠が消えることも。それでも、目の前で震えていたサフィアの手を見たあとでは、足を止める理屈が体に入ってこない。


 「紙の順番より、人のほうが先でしょ」


 「だから守るために、紙を押さえると言っている」


 「その押さえ方が遅いって言ってるの」


 パゾスが二人の間へ入ろうとし、入る前にやめた。何を言っても火に油だと分かったのだろう。代わりに、近くの茶屋へ走っていく。


 しばらくして戻ってきたとき、後ろにはカミがいた。盆の上に湯気の立つ茶碗を四つ載せている。


 「往来でやる話じゃないね」


 カミはそれだけ言って、近くの軒下の卓へ茶を並べた。


 「まず一口。熱いものを飲むと、人は少しだけ“次に言うこと”を選べる」


 ヤスミンはまだ息が荒かったが、茶碗を握ると、自分の手が思った以上に冷えていることに気づいた。ハッサンも同じく黙って茶を取る。カミは二人の間へ座らず、一歩引いた位置で湯壺の蓋を押さえた。


 パゾスは空気を変えようとして、無理に明るい声を出した。


 「では、ここは恋文相談のときの心得でいこう。怒りのあとには、まず――」


 「今その例えを出すな」


 ヤスミンとハッサンの声がまた重なった。


 「失敗した」


 パゾスが即座に白旗を上げる。カミは肩を揺らして笑いをこらえた。


 少しだけ、空気がほどける。


 その隙に、ハッサンが卓へ記録用紙を広げた。


 「必要なのは三つだ」


 彼は一本ずつ指を折る。


 「第一に、サフィアの札の写し。筆癖、訂正跡、押印位置を後で比較できる形で残す。第二に、受け渡し記録。誰が何時に札を持ち込んだか、どの窓口を通したか。第三に、同種の札の抽出。後見札だけではなく、婚姻札や養子札にも同じ手が入っていないかを見る」


 「そんなことしてる間に、ラージン商会が次を出してきたら?」


 ヤスミンがなお食い下がる。


 「そのために、表向きは何も気づいていないふりをする」


 「嫌」


 「嫌でも必要だ」


 ハッサンは茶碗を置いた。静かな音だった。


 「相手は、板一枚、札一枚で少しずつ権利を削るやり方に慣れている。こちらが怒鳴れば、次はもっと見えにくくやる。だから、今は見せたまま泳がせる」


 ヤスミンは茶の表面を見つめた。薄い湯気がゆらぎ、その向こうで自分の顔がわずかに歪む。


 怒っているのは確かだった。怖いのも確かだった。サフィアだけではない、知らない誰かの札まで、今この瞬間にも別の名へ寄せられているかもしれない。


 「……でも」


 声が少しかすれる。


 「見てるだけみたいで嫌なんだよ」


 ハッサンはそこで初めて、少し柔らかい声を出した。


 「君の怒りは正しい」


 ヤスミンは顔を上げた。


 「だが、正しさだけでは守れない」


 その一言は、さっきまでの言い合いよりずっと深く刺さった。


 正しいと言われたからではない。守れない、のほうが痛かった。自分でも分かっていたからだ。六年前の豪雨の夜、違和感を見ていながら言い切れなかった記憶が、胸の奥で小さく軋む。


 言い返す言葉は出なかった。


 代わりに、ヤスミンは短くうなずいた。


 「……写し、取る」


 「私が登録所へ戻って正式に控えを押さえる」


 ハッサンが言う。


 「君は筆跡と文言の違和感を見てくれ。パゾスは商会の使いについて市場まわりで当たれ。カミ、できれば茶屋に流れる噂の線を拾ってほしい」


 「うちの茶は高いよ」


 カミが言う。


 「あとでツケを怖がらないで払えるならね」


 「払う」


 「ならいい」


 話がようやく段取りの形を取りはじめたころ、ヴィウンタが息を切らせてやってきた。両腕には札の控え写しが抱えられている。


 「登録所から、比較用に過去二十件ぶん借りました」


 「早いね」


 ヤスミンが言うと、ヴィウンタは当然の顔で答えた。


 「早く見たほうがいいので」


 卓へ写しを並べる。婚姻札、後見札、養子札。書式は違うが、名前の並べ方や余白の取り方には書き手の癖が出る。


 ヤスミンは一枚ずつ目で追い、ヴィウンタは定規で行の傾きを測り、ハッサンは押印のずれを見た。


 しばらくして、ヴィウンタの指が一枚の札で止まった。


 「これ」


 「何」


 「同じ筆癖があります」


 彼女は二枚、三枚と抜き出した。


 名前は別、札の種類も別なのに、特定の文字だけ跳ね方が似ている。“シ”の払いが浅く、“ア”の最後の線が少し内へ入る。本人の名をなぞったのではなく、同じ人間がいくつもの札を“それらしく”書いた癖だ。


 「他にもある」


 ヴィウンタは静かに言った。


 「少なくとも五件。同じ手です」


 茶の温度が、急に下がった気がした。


 サフィアだけではない。


 誰かが、同じ手で、別の誰かの人生にも名前を差し込んでいる。


 ヤスミンは札の写しへ手を伸ばした。胸の奥の悔しさは消えない。けれど今は、それをそのまま燃やすより、形へ変えるほうが先だ。


 役所へ殴り込むのは、まだ先になる。


 そのかわり、相手が隠しきれないだけの紙を積む。


 そう決めたとき、ヤスミンはようやく茶を飲み干した。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ