第7話 赤い認証墨
縁談登録所は、旧市街の中ではめずらしく石造りの正面階段を持っていた。
戸口の上には、雨除けより見栄を優先したような浅いひさしがあり、その下へ婚姻札、養子札、後見札の見本が整然と並んでいる。どれも小ぶりな木札だが、そこへ記される名前ひとつで、人の暮らしの向きは大きく変わる。
受付へ出てきた書記は、目の下に寝不足の影をつくった若い男だった。名をオルハンというらしい。ハッサンが身分札を見せる前から、男は困った顔で言った。
「助けてほしいんです。名前違いの札が三件出ました」
「三件」
ハッサンの声が低くなる。
「受理の前か後か」
「一件は受理前に気づきました。二件は赤い認証墨が押されたあとです」
ヤスミンは思わず一歩近づいた。
「本人は承知してたの」
「少なくとも、一件はしていません」
オルハンは周囲を気にしてから、奥の記録卓へ案内した。卓の上には、種類の違う札が並べられている。
婚姻札は、二人の名と証人名を書く。養子札は、家名と引き受け先を書く。後見札はそれよりさらに重い。財産の管理、居住の同意、身分上の代理が絡むため、赤い認証墨が押されると効力が強い。
「この赤印がついたら、簡単には取り消せません」
オルハンの指が、端の札を示した。
「だから、押す前に本人確認を二度する決まりです。ですが……」
その“ですが”のあとを、誰も急かさなかった。
オルハンは一枚の札を差し出す。
表には、娘の名と、後見先の家名が書かれていた。名はサフィア。後見先はラージン商会の名義人、ラージン・サイフ。
ヤスミンが札へ触れた瞬間、指先の内側がぴりりとした。
赤い糸のような引きつれが、墨の下からうっすら浮く。
恋文に残るためらいとも、迷子札に残る焦りとも違う。これはもっと固く、冷たい。誰かに見られたくなくて紙を握りしめたときの跡に似ていた。
「これ、嫌がってる」
ヤスミンが小さく言う。
ハッサンが横目で見る。
「本人がか」
「うん。承知のうえで書いた札じゃない」
オルハンは息を呑んだ。
「実は、本人もそう言っていました。後見先なんて知らない、と」
「会えますか」
ヤスミンが即座に訊く。
幸い、サフィアはすでに別室で待っていた。乾物屋の帳場から呼ばれてきたらしく、袖口にはたしかに市場組合の織り印が入っている。年はヤスミンより少し下だろうか。顔色が悪いのに、泣き顔を見せまいとして唇をきつく結んでいた。
「私はそんな札、お願いしてません」
席につくなり、彼女ははっきり言った。
「父が死んで、店の名義をどうするかって話はありました。でも、うちは伯母が手伝ってるし、勝手に商会の後見に入る理由なんてありません」
「署名は」
ハッサンが訊く。
「私のじゃないです。似せて書いてあるけど、最後の跳ねが違う」
ヤスミンは写しを見せてもらった。たしかに、名前の最後の線が、不慣れな人間の“似せ方”をしている。本人の癖を写したつもりで、かえって固くなっている。
「誰か心当たりは?」
「ラージン商会の人が、何度か来ました。父の死後は女手だけだろう、帳場も倉も面倒だろう、後見が入れば楽になるって。でも断りました」
サフィアは膝の上で拳を握った。
「断ったら、次は伯母に話を持っていったんです。伯母は怒って追い返しました。それで終わったと思ってた」
終わっていなかった。
誰かが札を書き、赤い認証墨が押されるところまで運んだ。
それは恋愛のもつれでも、家同士の押し引きでもない。後見の名を借りて、店の名義や倉の鍵、住む権利までまとめて動かすための手口だ。
「この札が通れば、何が起きる?」
ヤスミンが振り向くと、ハッサンは事務的な言葉を選びながら答えた。
「後見先が財産の管理に口を出せる。場合によっては店の運営と住居の扱いも左右される。店の土地が抵当に入っていれば、なおさら危ない」
サフィアの喉が小さく鳴った。
「店を取られるってことですか」
誰もすぐには、違うと言えなかった。
オルハンが顔を青くする。
「私は、ただ名違いの札だと思って……」
「名違いで済むなら、まだましだ」
ハッサンは厳しいが、責めるためだけの声ではなかった。
「これは権利の移動だ。赤印が押されている時点で、誰かが手順のどこかをねじ曲げている」
ヤスミンはもう一度、札を見た。
引きつれは短いが深い。無理に入れられた名前は、紙の上で目立たないふりをして、暮らしの根元へ食い込む。
「何件ぐらいありそう」
彼女が問うと、オルハンは答えに迷ったあと、声を落とした。
「確認できているのは三件です。でも、最近、赤印前の見直しがやけに急がされることが多くて……」
「急がせているのは誰だ」
「上から“滞留をなくせ”と言われています。けれど、具体的にどの札を優先しろと書いてくるのは、外から来る使いの者で」
「商会の人間か」
「名乗りません。ただ、布地がいいんです」
パゾスなら“値踏みする歩き方”と言いそうな説明だった。
サフィアは堪えていたものをこらえきれなくなったのか、ようやく目元を押さえた。
「私、父の死んだあと、字だけはちゃんとしなきゃって思ってました。帳場の名も、在庫札も、自分で書くようにして。なのに、こんな札一枚で全部、知らない人のものみたいになるなんて」
ヤスミンはその手の震えを見て、胸の奥が熱くなる。
書くことは守るためにも使える。けれど同じだけ、奪うためにも使われる。
その現実が、目の前で人の暮らしを噛んでいた。
「この札、写しを取らせて」
ヤスミンが言う。
「絶対に元へ戻す」
それは慰めではなく、誓いに近い声だった。
ハッサンはその横顔を一瞬だけ見てから、オルハンへ向き直った。
「記録簿、押印順、受け渡しの控えを確認する。これは役所の中を見ないと追えない」
最後の一言は低く、短かった。
サフィアの札だけでは終わらないと、全員がその声で悟った。




