表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
看板職人ヤスミンは赤い糸を書き換える  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/7

第6話 褒めてばかりのパゾス

 「本日の名称は、路地裏大捜索である」


 朝いちばんにそう宣言したのは、もちろんパゾスだった。


 工房の戸口で片足を石段へ乗せ、風にでもなびかせるつもりなのか肩布をひるがえしている。だが肩布は短く、風も弱いので、見た目としては洗濯物が少し迷っただけに近い。


 「ただの聞き込みでしょ」


 ヤスミンが言うと、パゾスは胸の前で手を組んだ。


 「聞き込みなどという地味な言葉では、人の足は前へ出ない。大捜索と言え。せめて半歩は楽しくなる」


 「楽しくなるのはあんただけだよ」


 エドリラが呆れ顔で荷車の柄を押す。今日は配達の途中を抜けて、案内板の立つ通りを見て回るつもりらしい。


 ハッサンは最初から反対する気も起きないのか、記録板を抱えたまま「勝手に呼べ」とだけ言った。ヴィウンタは人数分の覚え書き用紙を配り、クリストフは「汚したら返してください」と紙のほうを心配している。


 こうして始まった“路地裏大捜索”は、驚くほど役に立った。


 理由の八割は、パゾスが行く先々で人を褒めるからだ。


 洗い場の女たちには、「この時間にここまで水音が揃ってるの、腕がいい証拠だ」と言う。魚売りの男には、「その声量なら橋の向こうまで鯖が売れる」と言う。芝居小屋の裏口番には、「あんたが立ってるだけで、今日の芝居は転ばなさそうだ」と言う。


 褒められたほうは最初こそ眉をひそめるが、二句三句も交わせば口が軽くなる。誰がどの通りで迷っていたか、どの札が最近替わったか、見慣れない男がいつ頃歩いていたか。噂とも記憶ともつかない細い話が、少しずつ糸のように手元へ集まった。


 ヤスミンはその様子を見ながら、半分あきれ、半分感心していた。


 「調子がよすぎる」


 「町の人は、急に“何か変わりましたか”と聞かれると身構える」


 パゾスは胸を張る。


 「でも、“その包丁さばき、いいねえ”のあとなら、三つぐらい余計に話してくれる」


 「褒める場所、そこなんだ」


 「包丁さばきは嘘がつけないからな」


 ハッサンは最初、そのやり方を明らかに胡散臭いと思っていたらしい。だが、二軒目、三軒目と回るうちに、記録板へ書き込む量が増えていった。相手の肩が下りたあとに出る言葉のほうが、通り一遍の返事より役に立つと分かったのだろう。


 昼前、一行は水路沿いの茶屋へ入った。


 茶葉を煎る香りの奥に、薄荷と干し柑橘の匂いが混ざっている。店の奥で湯を見ていたカミは、顔を上げるなり言った。


 「大捜索なら、まず茶を飲んでからにしなよ。乾いた喉で集めた噂は、角が立つ」


 どうやら表でのやり取りを聞かれていたらしい。


 「その名前、もう広まってるの」


 ヤスミンが頭を抱えると、カミは小さく笑った。


 「広めた本人が一番びっくりする顔をしてるね」


 卓へ茶碗が置かれる。カミの茶は、熱いのに口へ入れると妙に落ち着く。急がせず、黙らせすぎない温度だ。


 「で、今日は何を拾いたいんだい」


 カミが問う。


 ハッサンが簡潔に答えた。


 「最近、書き換えや差し替えが続いている札と掲示についてです。見慣れない動きがあれば」


 「役所言葉だねえ」


 カミは肩をすくめ、それでも思い返す顔をした。


 「案内板の向きが変わったって話は、もう耳に入ってるんだろう?」


 「うん」


 ヤスミンがうなずく。


 「じゃあ別のを言うよ。最近、縁談が変だって話が増えてる」


 卓の上で、パゾスの茶碗がぴたりと止まった。


 「変って、どのへんが」


 「断ったはずの話が進んでるとか、決まってないはずの後見先の名前が出てるとか。娘本人が知らないうちに、周りだけ話を済ませてるみたいな」


 ハッサンの目が細くなる。


 「登録所の札か」


 「たぶんね。こないだも、赤い認証墨がついた札を握って泣いてた娘を見たよ。茶も飲まずに、そのまま帰っちゃった」


 ヤスミンの指先がわずかに動いた。


 赤い認証墨。


 ただの受理印ではない。後見や婚姻の成立に近い、公的な重みを持つ印だ。あれがついた札は、本人の暮らしの場所まで動かしかねない。


 「どこの娘だったか分かる?」


 ヤスミンが前のめりになる。


 カミは首を横に振った。


 「名前までは聞いてない。でも、袖口に市場組合の織り印があった。乾物屋の娘じゃないかって話してる人はいた」


 「乾物屋……」


 エドリラが記憶をたぐるように眉を寄せる。


 「西の小市場に、娘ひとりで帳場を回してる店があったな」


 「それと、もうひとつ」


 カミは茶壺の蓋を閉めながら言った。


 「泣いてた娘の札を持ってた男が、妙に身なりのいい書記風でね。役所の人間かと思ったけど、歩き方が違った。帳面を持つ歩き方じゃなくて、値踏みする歩き方だった」


 ハッサンが無言でその一言を書き留める。


 パゾスは珍しく軽口を挟まず、真面目な顔で茶碗を置いた。


 「商いの顔をしてたってことか」


 「そう。人じゃなくて、棚を見るみたいな目だった」


 店の外では、水路を渡る風に乾いた布が鳴った。


 噂だけなら、いくらでも流れる。だが、案内板、営業掲示、そして縁談登録札まで同じ方向を向いているなら、それは偶然では済まない。


 小さい店を削る。


 娘本人の承知しない名前を札へ載せる。


 人の足と権利を、少しずつ別の場所へ押す。


 「ありがとう、カミ」


 ヤスミンが立ち上がる。


 「登録所に行く」


 「行くのはいいけど、怒鳴る前に一回は息を吸いな」


 カミが湯呑みを下げながら言う。


 「分かってる」


 「分かってる顔じゃないね」


 その通りだった。ヤスミンの胸の中では、昨日まで案内板の問題だったものが、急に別の重さを持ちはじめていた。


 道を曲げるだけなら、店が困る。だが、札で誰かの名や後見先を変えれば、暮らしそのものが奪われる。


 店を出るとき、パゾスが小さく言った。


 「私、褒めてばっかりの男だけどさ」


 「うん」


 「泣いてる娘が出る話は嫌いだ」


 ヤスミンはそれに返事をしなかった。代わりに、足を速めた。


 その横でハッサンも歩幅を合わせる。何も言わないが、向かう先は同じだ。


 登録所の屋根が遠くに見えたとき、ヤスミンは自分の顔から血の気が引くのを感じた。


 赤い認証墨。


 その言葉を聞いた瞬間から、胸のどこかで嫌な糸が張っていた。


 今度は案内板ではない。もっと近くて、もっと人の人生に刺さる文字の話だ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ