第5話 モノ書く人々、路地へ出る
翌朝、ことば屋つばめの長机には、紙より先に人が並んだ。
パゾスはいつものように椅子へ斜めに座っているが、今日は妙に背筋だけが立っている。ヴィウンタは受注帳と納品控えを机の端から端まで積み上げ、すでに三色のしおりを差していた。奥では、木工場帰りのバレールが板切れを三枚抱えて入り、遅れてインクのしみた指をしたクリストフが刷り見本の束を持ってくる。
「なんで朝から全員いるの」
ヤスミンが言うと、パゾスが両手をひろげた。
「旧市街を守るためだ。こういう朝は、少し胸を張って座ったほうがそれらしく見える」
「座り方で守れたら楽なんだけど」
「楽ではない。だから胸を張っている」
まったく答えになっていない。だが、その軽さのおかげで、張っていた空気が少しだけほぐれる。
ハッサンも、いつものきちんとした上着で入ってきた。机の上へ図面筒を置く手つきに無駄がない。だが、昨日までの“役所から来た依頼人”の顔ではなく、調べものを持ち込む仲間の席に座る人間の顔をしていた。
「昨日の配置ずれを整理した」
彼が広げた紙には、橋、水路、横道、倉庫の位置が細かく書き込まれていた。赤い印が案内板の不自然な位置、黒い印が図面どおりの位置、その脇へ時間帯ごとの人の流れまで追記されている。
パゾスはそれを覗き込み、すぐ指を鳴らした。
「変な札が立ってる通り、芝居帰りの客が流れる筋と重なってる」
「芝居帰り?」
ハッサンが目を上げる。
「うん。泣いた客は近い道を選ぶし、笑った客は遠回りしてしゃべる。芝居小屋前からどの通りへ人が抜けるか見てると、札の置き方で流れが変わった場所がよく分かる」
パゾスはそう言いながら、紙の上をなぞった。芝居小屋から西へ抜ける細道。そこから食堂のある角を避けるように、人の線が曲がっている。
「この曲がり方、自然じゃない。誰かが“こっちへ行け”って押した流れだ」
ヴィウンタが受注帳を開いた。
「板材の発注記録を見ました。先月から今月にかけて、旧市街西区で追加発注された板は二枚だけです。片方は寺子屋の時間割。もう片方は洗い場の注意札。ところが、実地では新しい板が少なくとも六枚増えている」
「四枚ぶん、記録の外で動いてるってことか」
ハッサンが言うと、ヴィウンタは静かにうなずいた。
「しかも、釘と塗りの費用も帳面に見当たりません。局から正式に出た数ではありません」
「じゃあ、どこかが勝手に」
ヤスミンが言いかけたところで、バレールが抱えてきた板を机へ置いた。
木目の出た古板と、新しい白木板。その二つを重ね、さらにもう一枚、穴の並びが妙に細かい板を横へ置く。
「板ってのはな、表だけ見てると騙される」
バレールは節くれ立った指で、裏の釘穴を示した。
「これ、古い穴の上へ新しい穴を打ってる。位置を半寸ずらして上から別板を載せた跡だ。急いで差し替えたときによく出る。古い札を外して丸ごと替えるより、上から載せたほうが早いからな」
ハッサンが身を乗り出した。
「現地で見た案内板も、そんな形だったのか」
「全部じゃないが、少なくとも二枚はそうだろうな。木口の削れ方が同じだ」
「つまり、元の札を消さずに覆った」
「消すと証拠が残るからな。上から蓋をした」
その言い方に、ヤスミンはぞっとした。
言葉に蓋をする。
ただ見えなくするだけでなく、本来そこにあったはずの道や権利や呼び名ごと、上から別の板で押さえつける行為だ。
「刷り屋のほうも変だ」
今まで黙っていたクリストフが、見本紙の束を机へ広げた。小柄で、眼鏡の端にいつも紙粉をつけている男だ。声は小さいが、紙の厚みが半分違うだけで気づく。
「ここ十日で、急ぎの刷り物が増えた。局の公印が必要な控えじゃなくて、見本用だとか仮配布だとか、やたら曖昧な名目の小刷りだ。しかも受け取り人の名が毎回違う」
「どんな内容」
「水路案内、営業掲示のひな型、登録札の控え用紙。つまり、あとから差し替えるときに形だけ整える紙だ」
工房の机の上で、ばらばらだった話が一本ずつ寄ってきた。
案内板の位置ずれ。
発注記録にない板。
古い札の上へ載せられた別板。
急ぎで増えた仮の刷り物。
ヤスミンは皆の顔を見回した。書く者、測る者、削る者、刷る者。ふだんはそれぞれ別の得意で町の用事を回している人たちが、今日は同じ机の上で同じひずみを覗いている。
「書く仕事ってさ」
彼女はゆっくり言った。
「売るためだけじゃないんだよね。芝居小屋に客を呼ぶのも、食堂に火を戻すのもそうだけど、それだけじゃない。守るためにも書くんだよ」
パゾスが珍しく口を挟まず、クリストフも視線を紙から上げた。
ヤスミンは続ける。
「迷子札は子どもを家へ戻すし、後見札は家を奪うこともある。看板は客を呼ぶし、同じ板で店を潰すこともある。だったら、書くほうが“ただの紙です”“ただの板です”って顔してたら駄目」
ハッサンはその言葉を受け止めたまま、少し遅れて口を開いた。
「願いだけでは堤防は守れない」
工房の中が、しんとした。
昨日までなら、ヤスミンはすぐに言い返していただろう。今日も胸の奥では反発が跳ねた。だが、ハッサンの声にあったのは冷たさではなく、崩れたものを何度も見てきた人間の固さだった。
それでも、黙って飲み込める言い方ではない。
「誰も願いだけで守れるなんて言ってない」
ヤスミンは机へ手をついた。
「でも、堤防を守る図面の横で、誰の店が消えても同じ顔をしてたら、守ってるものの中身が空になる」
「だから私は帳簿を追っている」
「追ってるだけで間に合わなかった人が、もう何人もいるかもしれない」
「証拠もなしに騒げば、相手は隠す」
「隠される前に止めたいって言ってるの」
パゾスが「ほら来た」とでも言いたげに天井を見たが、今日は口を挟まなかった。ヴィウンタは帳面を閉じ、バレールは腕を組み、クリストフは刷り見本の端を揃えたまま、二人の声の間に入る隙を探している。
やがてハッサンが、少しだけ息を吐いた。
「明日も現場を見る」
それは譲歩というより、決定事項を置く言い方だった。
「橋の周辺だけじゃなく、登録所と営業掲示も当たる。局の文書庫番に話を通す。ミスラフという男だ。口は重いが、記録の抜けにはうるさい」
「役所の中で味方になりそうな人?」
ヤスミンが訊くと、ハッサンは少し考えてから答えた。
「味方というより、記録が嫌いじゃない男だ」
「それ、役所ではかなり貴重なんじゃない」
パゾスがようやく茶々を入れると、ハッサンは無視した。
ヴィウンタが、明日の回り順を短く整理する。
「朝に登録所。昼に水路脇の小店。夕方に文書庫前。人の流れを見たいなら、その順がいいです」
「異議ある人」
ヤスミンが言うと、誰も手を上げない。
「じゃあ、それで行く」
会議らしいものが終わったあとも、机の上には板と紙と見本刷りが残っていた。ばらばらの職人の手から出たものなのに、不思議と同じ方向を向いている。
ハッサンは図面を巻き直しながら、低い声で言った。
「願いを軽んじたわけじゃない」
「分かってる」
ヤスミンは答えてから、わざと少し間を置いた。
「でも、そういう言い方は腹が立つ」
「君の言い方も大概だ」
「知ってる」
そこで二人とも、ほんのわずかに口元をゆるめた。
完全に重なることはまだない。けれど、明日も同じ道を見る約束だけは残った。




