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看板職人ヤスミンは赤い糸を書き換える  作者: 乾為天女


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第4話 図面と路地と食堂の鍋

 その日の午後、ヤスミンは筆ではなく図面を持って歩いていた。


 隣を行くハッサンが紙筒から必要な一枚だけを抜き出し、角が折れないよう指先で支える。反対側にはエドリラがいて、配達袋の口からは巻いた仮札の端がのぞいている。


 三人は橋の入口から横道、水路脇、旧市場前へと順番に見て回った。


 「ここ、先週までは塩屋の札の陰に小さい矢印があった」


 エドリラが言って指したのは、水路脇の壁だった。新しく打たれた釘穴の横に、古い木片の跡が残っている。


 「小さい矢印?」


 「荷車向け。魚屋の箱を運ぶ人はこっちを通るから」


 彼女は歩きながら説明する。何刻ごろにどこが混むか。雨の日はどの石畳が滑るか。昼前に鍋の匂いで人が寄る角はどこか。図面へ載らない町の癖が、彼女の口からぽんぽん出てくる。


 ハッサンは最初、相づちも少なかった。だが橋を一本越えたころから、エドリラの言葉に合わせて図面へ細い書き込みを入れ始めた。


 『午前 荷車多い』


 『洗濯帰り 足止まる』


 『香り流入』


 「香り流入って何」


 ヤスミンが覗き込むと、ハッサンは真顔で答えた。


 「匂いで人が曲がる地点だろう」


 エドリラが吹き出した。


 「役所の図面にそんなこと書く人、初めて見た」


 「必要なら書く」


 「必要だよ」


 ヤスミンがすぐ言うと、ハッサンは一瞬だけ言葉を止めた。


 おそらく賛成されると思っていなかったのだろう。だが彼は何も返さず、ただ次の書き込みを足した。線と数字の世界の中へ、人の匂いと足音が少しずつ混ざっていく。


 橋の北側では、別の案内板も見つかった。位置自体は図面どおりだったが、向きが半歩ずれていて、視線の抜ける先が本来の道ではなく、閉めきった倉庫の壁へ向いている。立ち止まって読み込めば分かるが、流れの中では迷いが生まれる置き方だ。


 「帳尻を合わせてる」


 ハッサンが低く言った。


 「図面どおりに見せたいけど、実地の都合は別って顔してる」


 「誰の顔」


 「局内の誰か、かもしれないし、施工側かもしれない」


 紙を巻き戻す手つきに、いら立ちがにじむ。それは怒鳴る類の怒りではなく、数字の列が合わないときに静かに熱を持つ怒りだった。


 最後に三人がたどり着いたのは、客足の減った食堂だった。


 戸は開いている。けれど昼時のわりに席が埋まっていない。煮込みの匂いはちゃんとあるのに、店の前の空気が薄い。鍋をかき回していた老主人は、三人を見るなり顔を曇らせた。


 「また役所か」


 「今日は違う」


 ヤスミンが先に言った。


 「客を戻すために来た」


 奥から老婦人が出てきた。布巾で手を拭きながら、それでも疑わしそうだ。


 「戻るものかねえ。橋の札が変わってから、初めて来る人がみんな南へ行っちまう。常連は来るけど、常連だけじゃ鍋は守れないよ」


 “鍋を守れない”という言い方に、ヤスミンは目を上げた。


 この店にとって商いは金勘定だけではない。夜になれば、この鍋の匂いで家へ帰る足が決まる人がいるのだろう。だから老婦人は、店ではなく鍋と言った。


 ヤスミンは店先へ出て、通りの真正面から入口を見る。軒の影で札が埋もれ、暖簾の色も曇り空の下では沈んでいる。ここに必要なのは、長い説明ではない。立ち止まるためのひと息だ。


 「板、借りていい?」


 老主人は壁際の白木板を持ってきた。もとは献立を書き出すためのものらしい。ヤスミンは膝の上へ板を置き、しばらく何も書かなかった。


 鍋から立つ湯気。古い木椅子の背に残る擦れ。昼の光が鉢皿の縁で止まる感じ。長く通う客なら当たり前すぎて意識しないものを、通りすがりの人へ一息で渡すにはどうしたらいいか。


 やがて筆が動いた。


 『今日も鍋に火が入っています』


 その下に小さく、


 『橋を渡らず、この角を右へ』


 と添える。


 「“営業中”じゃないのか」


 ハッサンが訊いた。


 「営業中だと、開いてることしか分からないでしょ」


 「鍋に火が入っている、と書く必要が?」


 「ある。この店に入る人は、食べるためだけじゃなくて、あの匂いに帰ってくるんだから」


 老婦人がその文を見て、目の端を指で押さえた。


 「そんな大げさな店じゃないよ」


 「大げさじゃない。毎日火を入れてる店って、町にとっては大ごと」


 ヤスミンは筆を返し、板を入口の脇へ立てた。エドリラが通りの少し手前へ回り込み、見え方を確認する。


 「いい。橋のほうからでも読める」


 ちょうどそのとき、二人連れの男が橋の方向から歩いてきた。一人は通りすぎかけたが、もう一人が板を見て足を止める。


 「鍋だって」


 「匂いするな」


 二人は顔を見合わせ、そのまま食堂へ入っていった。


 老主人の手から、お玉が危うく落ちそうになった。


 「ほら」


 ヤスミンが小さく言うと、老婦人は泣くのをこらえるみたいに笑った。


 その後も、一人、また一人と客が戻った。劇的に行列ができるわけではない。だが、空いていた席へ人が座り、鍋のふたが持ち上がり、湯気が客の顔へ届く。それだけで店の空気が生き返っていく。


 ハッサンは店先から一歩引いた場所で、その様子を見ていた。人の流れが板一枚で変わることを、彼は数字でなら知っていたのかもしれない。けれど、客が椀を受け取り、老夫婦の背中から力が戻る場面までは、まだ計算に入っていなかったようだった。


 「……即効性があるんだな」


 「文は遅いと思ってた?」


 「板に書かれた文で、ここまで目に見えて戻るとは」


 ヤスミンは少し肩をすくめた。


 「だから最初から言ってる。文は板の上で寝てちゃ駄目」


 食堂を出るころには、空はもう傾き始めていた。橋の欄干に西日が差し、図面の紙端を金色に染める。


 ハッサンは局へ戻る前に、立ち止まって工房の方角へ一礼だけした老夫婦を見た。その視線の先に自分はいないと分かっていても、どこか考え込むような顔をする。


 ヤスミンはその横顔を盗み見て、内心で少しだけ訂正した。


 嫌な人だと思っていた。いまも、言い方は腹が立つ。


 けれど少なくとも、この男は面倒な現場を数字の陰へ押し込めて帰る人間ではない。


 逃げない人かもしれない。


 そう思ったとき、風が水路の匂いを運んできた。鍋の湯気と墨の匂いが、その風の中でほんの少し混ざった。



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