第3話 橋の先にいない客
翌朝、ことば屋つばめの戸は、開ききる前に叩かれた。
「ヤスミン! いるだろ、開けて!」
声の主はエドリラだった。配達袋を斜めにかけ、額へ張りついた前髪もそのまま、息を切らせている。
ヤスミンが戸を大きく引くと、エドリラは工房へ半歩踏み込みながら言った。
「食堂へ行く客が、みんな橋の向こうへ流れてる。朝の鍋がまだ半分も減ってないって、じいさんもばあさんも真っ青だ」
「昨日の板」
ヤスミンが言うと、エドリラはうなずきもせず手首をつかんだ。
「見れば分かる。来て」
パゾスが後ろから顔を出す。
「なんだなんだ、朝から疾走感があるな」
「あるのは迷惑です」
ヴィウンタが受注帳を閉じながら返した。ヤスミンは筆を置き、腰紐を締め直して外へ出る。
旧市街の朝は、店ごとの匂いが道を作る。焼き菓子の甘さ、乾物屋の塩気、染め物屋の湿った薬草の匂い。その中で、食堂の鍋の匂いだけが妙に薄い。橋へ向かう途中ですでに、客の流れがいつもと違っているのが見て取れた。いつもなら食堂の煙突のほうへ曲がるはずの人が、矢印に従って南側の通りへ吸われていく。
橋のたもとに立っていたのは、昨日ヤスミンが見つけたあの板だった。
『市場・仮橋方面はこちら』
その下に、細い文字で『食事処は南通り経由が便利です』とある。
「便利じゃない。南通りからだと二つ先の路地で曲がらなきゃならないし、初めて来た人は別の店へ入る」
エドリラが矢印の先をあごで示した。配達人の目は、道の曲がり方まで体に入っている。彼女は自分の足で毎日、町の癖を覚えているのだ。
橋を渡ってきた夫婦が板を見て立ち止まり、少し相談したあと、そのまま南側へ折れた。エドリラが「あれだよ」と吐き捨てるように言う。
ヤスミンは板へ近づいた。木肌は新しい。けれど釘穴の位置が妙だった。いまの板を留めている穴の横に、古く黒ずんだ小さな穴が二つ並んでいる。前にも別の板があったか、下に別の板が重なっていたか。彼女は板の端へ指をそえた。
文字は揃っていた。揃っているのに、墨の流れが不自然だった。線の止まりが浅く、跳ねの最後が急いでいる。見た目だけを整え、乾く前に急いで立てた字だ。
そして、昨日よりはっきり見えた。
行間の奥を、赤い細い引きつれが一本、斜めに走っている。
「急いで書いてる」
ヤスミンがつぶやくと、エドリラが横から覗いた。
「分かるのか」
「字の息が浅い。夜に灯りの少ないところで急いで書いた字。しかも、誰かに見つかりたくない手つき」
エドリラは板をにらみ、すぐさま言った。
「役所の人、呼べる?」
「呼ぶ。昨日の人なら」
ヤスミンは近くの乾物屋へ走り、店先の小僧に整備局への走りを頼んだ。名を告げると、小僧は「顔の怖い人だね」と余計な感想をつけたが、足は速かった。
待つ間にも、客は流れていく。南通りへ曲がった者のうち何人かは、目的の食堂へたどり着けるだろう。だが、朝の空腹は迷っているうちに別の匂いへ負ける。店は、一度それで流れを失うと戻すのが難しい。
「じいさんたち、板なんて外しちまえって怒ってたけど」
エドリラが言う。
「外したら、外したで“営業妨害だ”って騒ぐ人が出るかもしれない」
「じゃあどうする」
「正式な図面と違うって証明する」
ヤスミンが答えたとき、背後で靴音が止まった。
ハッサンだった。上着の前を留める暇もなかったのか、胸元の留め具がひとつ外れている。息は乱れていないのに、来るまでの速度だけが分かった。
「板はどこだ」
「ここ」
ヤスミンが指すと、ハッサンはまず周囲の流れを見た。次に板、その次に石欄、最後に自分の携えた筒から図面を引き抜く。広げた紙のうえへ朝の光が落ち、細い線と番号が浮かび上がった。
「設置位置が違う」
彼は低く言った。
「南側案内板は、本来なら橋を渡ったあと、分岐の手前に置くはずだ。ここではない」
「じゃあ、ここに立ってる時点でおかしい」
「おかしいだけでは済まない」
ハッサンは石欄の基部までしゃがみ込み、板柱の差し込みを確かめた。新しい土が根元へ浅く盛られている。踏み固め方も雑だ。
「施工記録の固定深さと合わない。正式配置のあとで抜き、差し替えたな」
エドリラが目を細める。
「誰が」
「それをこれから調べる」
ハッサンはすぐ立ち上がったが、顔色はよくなかった。図面が間違っていたなら、まだ訂正の余地がある。だが図面どおりに立てたものをあとから動かされたのなら、役所の外か、中か、どちらにしても意図がある。
ヤスミンは板の字へもう一度目をやる。
矢印の先で、朝の客がまた一組、迷って曲がった。
その光景に、ハッサンの顎が固くなる。
「食堂までの正規経路を書いた仮札を出せるか」
「できる」
「すぐに」
ヤスミンは「言われなくても」と返しかけて、飲み込んだ。代わりに小さくうなずく。エドリラがすぐさま配達袋を下ろした。
「板、運ぶよ。私が」
工房へ戻る途中、ヤスミンは振り返った。問題の板は朝日に照らされて、妙にまっすぐ立っている。善意のふりをした顔で、人の足だけを少しずつ逸らしていく。
工房で仮札を起こす間、ハッサンは配置図と既設板の一覧を書き出した。ヴィウンタが横で控え帳を開き、どの板が工房経由で発注されたかを照らし始める。パゾスは事情を聞くと、「なるほど、道そのものじゃなく、道を読む文が悪さしてるのか」と珍しく真面目な声を出した。
ほどなくして、簡潔な仮札が二枚できた。
『食堂はこちら 橋を渡らず右へ』
『煮込みあります』
下の一行に、ヤスミンは少しだけ迷った末、食堂の鍋に湯気の印を描き添えた。矢印だけではそっけない。けれど一目で分かる目印は要る。
仮札を立てに戻ると、ハッサンは正式図面を板の前へ広げたまま、通行人に事情を聞いていた。誰がいつからこの板を見たか。昨日の夕方にはなかったと言う者が二人。夜更けに物音を聞いたかもしれないと言う洗濯女が一人。
ヤスミンはその板の前へ立ち、ゆっくりと言った。
「この字、夜に急いで書き直されています」
エドリラが息を呑み、ハッサンが顔を上げる。
「断言できるのか」
「できる。昼の商いの合間に書いた字じゃない。灯りの足りないところで、見つからないうちに急いで仕上げた字」
ハッサンは板とヤスミンの顔を見比べた。信じるとも疑うとも言わない。ただ、その言葉を記録として頭へ置いた顔をする。
橋の下では、水が静かに流れていた。
だが橋の上では、たった一枚の板が、朝の客足と店の火加減を狂わせていた。




