第2話 冷たい文とあたたかい文
ハッサンが黙ったのは、ほんのひと呼吸だけだった。
「私が局内で受け取ったときには、すでにその文面だった」
「じゃあ、最初に作った人は別にいるのね」
「広報文の起案は複数部署を経る」
「便利な言い方。誰の手を通ったかは分かる?」
「追えば分かる」
「最初からそう言ってくれれば、こっちも嫌味を減らせるんだけど」
ヤスミンが言うと、パゾスが横から小さく「今ので減ってるのか」とつぶやいた。ヴィウンタは聞こえないふりで板寸を測っている。
ハッサンは原稿束を机へ置き直した。
「問題の有無は別として、依頼は依頼だ。納期は三日後。設置場所は橋の入口、水路脇、旧市場前、それから中央へ抜ける坂道の下」
ヤスミンはその場所の並びを頭の中へ広げた。橋の入口なら荷運びの人間が足を止めずに読む。水路脇なら洗濯女たちの会話に紛れて目へ入る。坂道の下は夕方の帰り客が流れる場所だ。
「板の前を通るのが誰か、最初に言ってよ」
「掲示文にそこまで必要か」
「必要。魚籠を肩に担いでる人と、帳面を胸に抱えてる人と、子どもの手を引いてる人は、同じ速さで同じところを見ない」
ハッサンは少しだけ眉をひそめた。理解できないからではなく、理解する前に手順を求める顔だった。
「では聞こう。橋の入口に置く文なら、どう変える」
ヤスミンは墨を磨り、紙片を一枚引き寄せた。
「まず見出しを短くする。『水路工事中 橋の渡り方が変わります』。その下に、『南へ急がず、白い矢印に沿ってください』」
「“急がず”は感情を誘導する表現だ」
「急ぐと見落とす場所なんでしょ」
「そうだが」
「なら必要」
パゾスが待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「私ならもっと景気よくやるぞ。“この先、うっかりさん禁止”」
「却下」
ヤスミンとヴィウンタの声がきれいに重なった。
「なぜだ」
「役所の板にからかわれたくない人がいる」
「文字数の無駄も多いです」
パゾスは両手を上げたが、机の上に置いた試案紙をそっとヤスミンのほうへ寄せる。そこには大きな字で『今のうちに覚えると、帰りが楽』とあった。派手ではあるが、人の足に寄り添う気配もある。ヤスミンはそれを見て、ふっと息だけで笑った。
ヴィウンタは定規の先で板図を示す。
「橋の入口板は横長。見出し七字、本文二行、各行十字前後なら読みやすい。旧市場前は立ち止まる人が多いので、説明を一文増やしてもいい」
「ほら。文字は寸法と仲良くしないと、板の上で喧嘩するの」
ヤスミンはそう言って、ハッサンの原稿へ赤い補記を入れていく。言い回しを削り、主語を入れ替え、硬すぎる言葉の角を落とす。『立ち入りを禁ずる』は場所によって『ここから先は入れません』に変えた。『通行者は指定の迂回路を利用すること』は『白い矢印の道へ回ってください』になった。
ハッサンは腕を組んで、その作業を見ていた。
「意味がやわらかくなりすぎる」
「意味は変えてない」
「受け取り方が変わる」
「変わるようにしてる」
「それが危険だと言っている」
ヤスミンは筆を止め、正面から返した。
「伝わった気になる文が危ないって言いたいんでしょ」
ハッサンはわずかに目を見開いた。
「……そうだ」
「じゃあ、見て確かめよう。寝てる文と起きてる文、どっちが人を動かすか」
結局、試し書きを二種類作ることになった。ひとつは役所案に近い整然とした文。もうひとつはヤスミンが場所に合わせて書き換えた文。ヴィウンタが同寸の板へ仮貼りし、パゾスが「実地検証だ」と騒ぎ、ハッサンは不本意そうな顔のまま同行した。
旧市場前は昼前のいちばん忙しい刻だった。野菜籠を抱えた女たち、干し魚を吊るした棒を肩に載せた男、走り回る子ども。ざわめきの中に、試し書きの板を順に立てる。
先に役所案の板を見せると、足を止めたのは帳面を持った二人だけだった。しかも片方は途中で読むのをやめ、もう片方は最後まで読んでから首を傾げた。
次にヤスミン案を出す。
『橋の渡り方が変わります』
その下に白い矢印と、『荷車は左、人は右の通りへ』。
今度は、魚籠を肩にかけた男がひと目で進路を変えた。女の子を連れた母親が子どもへ「あっちだって」と言い、その後ろの年寄りまで自然に流れた。文を全部読み終えた者ばかりではない。けれど板の前で迷う時間は明らかに短かった。
ハッサンは板の前に立ち、通り過ぎる人の目線の高さを確認するみたいに、少しだけ身をかがめた。
「偶然では」
「二十人くらい見てから言って」
ヤスミンは涼しい顔で答えた。
さらに十数人が通った。やはり、短い見出しと具体的な案内のほうが歩きを止めない。ハッサンは認めたくなさそうだったが、見ないふりもできない様子だった。
「伝わりやすいのは認める」
「でしょ」
「だが、安心させすぎる文は危うい」
「怖がらせすぎる文も危うい」
「君は極端だ」
「そっちも」
二人がにらみ合っていると、パゾスが勝手に拍手し始めた。
「いやあ、実にいい。冷たい文とあたたかい文の決闘だ。どっちも負けてないのがなおいい」
「騒がしい」
ハッサンが一言で切ると、パゾスは肩をすくめた。
納品の段取りが決まり、板は工房へ戻された。ハッサンは局へ経路図を取りに戻ると言い、ヤスミンは別口の札の届け物を抱えて橋のほうへ出た。
昼の日差しが水面で砕け、路地の壁にちらちら反射している。橋へ近づいたとき、ヤスミンは思わず歩みをゆるめた。
橋のたもとに、見慣れない板が一本立っていた。
古い石欄の色とも、周囲の店先の木肌とも合わない。新しい板なのに、そこだけ妙に町へ馴染もうと急いだみたいな、落ち着かない浮き方をしている。
矢印は南を向き、文字は整っている。整っているのに、紙で見たあの一文と同じ、喉に細い棘が引っかかるような違和感があった。
ヤスミンは届け物を抱え直し、その板の前で立ち止まった。
水面の反射が白く揺れ、墨の黒がそのたびに痩せて見えた。
「……これ、誰の字」
答える者はいなかったが、板の上をなぞるように、見えない赤い糸がごく薄くきしんだ。




