10、立往生
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中央帝国は、ゲンブルン領から海峡を隔てた北の大陸にある。ゲンブルンから帝国へ向かう船は、クラの北東にある港町からしか今は出ていないらしい。その港町まではクラから二日の距離だ。
海が見えるよりも先に、生臭いような潮のにおいがしてきた。あまり何もない街を抜け、港へ出る。
視界はひらけ、鉛色の空の下、暗緑色の海原が広がっていた。停泊している大きな船舶が一隻見える。わりと広い港だが、船はその一隻しか停まっていないようだ。
赤銅色のツヤがある顔をした人夫らが、忙しそうに桟橋を通り、何かを運び込み続けている。片や、船着き場の隅で木箱に老人が座っていた。髪は半分以上白かったが、日に灼けて若々しい。眉間にシワを寄せて気むずかしそうだ。
帝国行きの便の有無を尋ねた。
「帝国に向かう船はある。だがな、人は運んでない」
「あの船は、どこへ行くのですか?」
ジェンスはしゃがみ、木箱に座っている老人の顔を覗き込んで船を指差す。老人は深いシワの刻まれた顔を上げ、くわえたキセルに火を入れる。
「ああ。帝国へ行くが、皇帝様の荷物を運ぶんだ。人は乗せられん」
老人はチラリとジェンスを見ただけで、遠くを見つめて煙を吐き出した。むっとするような煙のにおいがする。
「人が乗れる船はないのですか?」
「予定は無いな」
停泊している船は、やはり帝国行きだったが、人を乗せていないなら話にならなかった。いくら頼み込んでも皇帝の船に乗せてくれなさそうだった。
老人に一礼して、その場を離れた。
波打ち際に立ってみた。砕けた波に白く煙っている。足元の断崖にびっしり貼りついた貝の類を洗うように、止めどなく荒波が打ち寄せている。
目線を上げると、海原の遥か彼方に霞む島影が見える。おそらく帝国のある大陸だ。アルは数日前、ここを通ったのだろう。もう帝国へ入ってしまっただろうか。
「どうするんだい?」
ジェンスが同じく横に並び遠くを見つめる。冷たい潮風に服や長い髪がなびいている。
「お前は、泳げたか」
ジェンスが超カナヅチなのを分かっていて、わざと聴く。俺がそう言うと、一瞬の沈黙があった。そして、目を丸くして俺の顔を見た。
「…もしかして、ここを泳いで渡るって言うんじゃないだろうね」
うなずいてやると、ジェンスは苦笑いをする。
「ちょっと、それは無理なんじゃないかなぁ。大陸まで、どれだけ距離があると思っているのだい?第一、冬の海で泳いだりしたら、凍え死んでしまうよ」
「あきらめるのか」
「いや、そうじゃないけど…キミも無茶を言う人だなぁ」
俺は泳ぎきる自信があった。凍え死んだなら、その時はその時だ。だが、そもそもコイツは泳げない。
「それなら、そこの板に乗るか」
「それも、イヤだよう。他に何か方法を考えようよ。乗せてもらえるように頼むとか」
考えが甘い。頼んで乗せてもらえるのなら何も苦労はない。…いや、頼まずに乗ることはできるかも知れない。




