第八話「令嬢の素顔」
飼い主品質管理業務を始めて、一週間と少し。
俺は、パティという生き物の観察記録を、頭の中のノートに蓄積していた。
ユリウスが『黒猫観察日誌』をつけているのなら、こちらも対抗して『公爵令嬢観察日誌』をつけてやろうじゃないか。観察される側から、観察する側へ。これは意地だ。猫と令嬢、どちらが先に相手を理解するか、静かな競争である。
では、記録を公開しよう。
対象:パトリシア・テア・フィロパトール。五歳。公爵令嬢。俺の飼い主。
観察記録・一 【朝の支度】
パティは、メイドに服を着せてもらう。
これ自体は貴族の幼児として標準仕様だ。問題は、その態度である。
「もっと早くして」
「かしこまりました」
「リボン、曲がってる」
「失礼いたしました」
「今日はあっちのワンピースがよかったのに」
「こちらは奥様のご指定で」
「ふーんだ」
ふーんだ、は、この令嬢の口癖の一つだ。
意味は「納得していないが、引き下がってやる」。
五歳児の妥協としては高度な部類に入るが、発音があまりに不遜なため、受け取った側の心証は最悪になる。メイドの頬が、微かに引きつるのが分かる。
だが、ここで注目すべきは、パティが一度も怒鳴らないことだ。
貴族の子供というのは、怒鳴るのがデフォルトらしい。セバス談。となると、パティの「ふーんだ」は、引き算の結果なのだ。
腹は立っている。だが、怒鳴るのは何か違う気がしている。そこまでの判断が、五歳の脳で既に動いている。
ただ、引き算の仕方が横柄なのである。
素質はある。加工がひどい。原料は良いのに、製造工程がずさんな製品みたいな子だ。
観察記録・二 【勉強の時間】
家庭教師の授業、開始三分。
「パトリシア様、文字の練習を」
「ねむい」
「始まったばかりです」
「でもねむいの」
開始十分。
「パトリシア様、ペンを持ってください」
「てがつかれた」
「まだ一字も書いていません」
「書く準備でつかれたの」
開始十五分。
「パトリシア様」
「ネコチャン! あっちいこ!」
逃亡した。授業を、放棄した。十五分で。
これが週に四回繰り返される。
記録しておくが、この令嬢は馬鹿ではない。むしろ逆だ。一度集中した時の飲み込みは、俺が隣で見ていて「あれ?」と首を傾げる速さだ。
この前も、難しい綴りの単語を一度目にしただけで、翌日には正確に書いていた。
つまり、能力はある。持続がない。
甘やかされ慣れた、歳の離れた末っ子に往々にしてあり得ることだ。
上質なエンジンを積んでいるのに、アクセルを踏むのが面倒で、誰かに押してもらって動いている車だ。
しかも本人は、そのことに気づいていない。「パティ、天才だから」とか言いながら。
天才は自称するものではない。そう、八年前の俺も思っていた。――結果が出る前から名乗ると、後で必ず、首を絞められる。それはリンスの研究でも、何でも、同じだ。
観察記録・三 【歩行】
パティは、廊下の真ん中を歩く。
堂々と。顎を上げて。胸を張って。
すれ違う使用人は、全員、端に寄って頭を下げる。それが当たり前だという顔で、パティは通り過ぎていく。
お辞儀へのお返しは、ない。目線すら、合わない。
(……これは、まずい)
初めて見た時、俺はそう思った。
悪意がないのが、一番まずい。
悪意があって無視するなら、誰かが注意できる。だがパティの場合、「挨拶を返す」という概念そのものが、仕様に搭載されていないのだ。搭載されていない機能は、発動しない。
そして周囲にはこう見える。「公爵令嬢は、私たちを虫けらと思っている」と。
搭載漏れは、外からは悪意と区別がつかない。
バグと仕様は紙一重で、どちらも炎上する。
観察記録を整理すると、パトリシア・テア・フィロパトールという令嬢の輪郭が、おぼろげながら見えてくる。
態度はでかい。努力は嫌い。謙虚さの搭載が漏れている。
だが、怒鳴らない。嘘をつかない。そして――
その、「そして」の部分を、俺は今日、目撃した。
午後、庭。
俺は大樹の下で、定例の昼寝に就いていた。途中で目が覚めて、欠伸をして、目の前の光景をぼんやり眺めていた時のことだ。
庭の隅、生け垣の向こうに、小さな人影が二つあった。
一つはパティ。もう一つは――見慣れない子供だった。七つか八つ。くたびれた服。洗いざらしのエプロン。手には雑巾。どうやら、使用人の子供らしい。庭仕事の手伝いに来ているのだろう。
その子供が、生け垣の前で、固まっていた。
足元に、倒れた籠。中身の落ち葉が、風に舞っている。
(……ああ。集めた落ち葉を、こぼしたのか)
子供の顔が、みるみる真っ青になった。
この屋敷で仕事をしくじることが何を意味するか、子供なりに分かっているのだろう。肩が震えている。今にも泣き出しそうだ。
そこに、パティが気づいた。
(さて)
俺は耳を立てた。
ここが観察の本番だ。恵まれた五歳児が、泣きそうな年上の子供を見て、どう動くか。無視するか、叱るか、それとも。
「――あなた」
パティが、子供の前に立った。
いつもの、顎を上げた姿勢で。
「なに、しくじってるの。おそうじの意味がないじゃない」
(おい)
「い……いえ、その……」
「はあ」
パティは、大きくため息をついた。家庭教師仕込みの、あのため息を、五歳児が完コピしたやつだ。そして、ひらひらのワンピースの裾をつまんで――かがんだ。
拾い始めた。
落ち葉を。自分の手で。一片ずつ。
「…………ぇ?」
子供が、声を上げた。
「なにぼさっとしてるの。早くひろうの」
パティは顔も上げずに言った。
子供も慌てて、落ち葉を拾い始める。
風が吹くたび、落ち葉が逃げる。パティはそれを追いかける。小さな手で、一枚。また一枚。
やがて、パティは顔も上げずに言った。
「風が強い日は、カゴに石を入れるか、だれかに押さえててもらうの」
「え……?」
「自分だけで何とかしようとしたら、シッパイするの」
パティは、落ち葉を拾いながら続けた。
「……パティ、お花やった時、それでシッパイしたから知ってるの」
(……出たな、花瓶の教訓。セバスの言葉、ちゃんと生きてるじゃないか)
「で、でも、パトリシア、さま……が、こんな……」
「は? あなた一人でひろったら、日がくれるでしょ。日がくれたら、パティのおやつの時間がおくれるの」
理屈が、めちゃくちゃだった。
落ち葉拾いとおやつの時間の間に、いかなる因果も存在しない。
だが、俺には分かった。
これは――言い訳だ。
この五歳児は、人助けを素直に「手伝ってあげる」と言えないのだ。言えないから、横柄な理屈を自分に科して、それを免罪符にして、かがんでいる。
ワンピースの裾が土に触れるのも気にせず、ちいさな手で、一片ずつ拾っている。
心根は、優しい。
行動は、正しい。
ただ――言語化が、絶望的に下手だ。
やがて落ち葉は拾い終わり、子供は何度も頭を下げて、籠を抱えて走り去った。
パティは、手についた土を払って、無意識に、自分のワンピースで手を拭い――
(あ、それ、メイドさんが泣くやつ)
――何事もなかった顔で、歩き去った。
と、生け垣の陰から、声がした。
「……パトリシア様が、落ち葉拾い、ですって?」
振り返ると、庭師の若者が、同僚に囁いていた。こちらの様子を、遠目に見ていたらしい。
「手伝ってたのかしら」
「まさか。指示してたんじゃないか」
「でも、自分で拾ってたように見えたけど」
「はは。お前、甘いよ。あのお嬢様がだよ」
男は肩をすくめた。
「きっと、拾い方が悪いとかで、怒鳴りつけてたんだって。顔、怖かったぜ。さっきの」
「……そうよね。あのパトリシア様だものね」
会話は、笑い声と一緒に流れていった。
俺は、大樹の下で、じっとそれを聞いていた。
(……なるほど。こういうことか)
今日、パティがやったことの事実関係は、こうだ。
一、泣きそうな子供に気づいた。
二、自分から手伝った。
三、相手に余計な借りを作らせないよう、変な理屈までつけた。
四、誰にも言わずに去った。
そして、庭師に伝わった内容は、こうだ。
『パトリシア様が、仕事をしていた子供を怒鳴りつけていた』だ。
――真逆である。
目撃者がいて、善意があって、結果があって、それでも、真逆の噂が生まれる。
なぜか。
答えは簡単だった。パティの日頃の言動が、悪い方の解釈を引き受ける土壌になっているからだ。
「ふーんだ」が。「は?」が。廊下の無視が。
全部、誤解を育てる肥料になっている。
悪役令嬢なんてものは、本人一人で完成するものじゃない。
性格と。周囲の解釈と。それが積み重なる時間。
その三つが揃って、初めて出来上がる。
そしてこの令嬢は今のところ、断罪ルートを、歩幅ぴったりに歩いている。何なら少し小走りだ。
「にゃあ……」
(……はあ。分かってたけどさ)
俺は、芝生の上で、ゆっくりと体を丸めた。
心根は優しい。それは今日、確認できた。
態度は横柄。それも確認できた。
問題は、その二つが同居していることだ。
このまま放っておけば、善意はすべて悪意に翻訳される。
やがて、それが噂になり。噂が評判になり。
評判が、「パトリシアという人間」の評価になる。
そして十年後。
見知らぬ誰かに、罪状として突きつけられる。
あの昼休みに読んだ小説の、あの巻きの甘い縦ロールのように。
(その頃には、俺はもう、この屋敷の常連だ。大樹の下の席も、銀の食器も、パティの寝息も、全部が日常になってる)
その日常が、崩れるのは。
――嫌だ。
俺は、そう思った。
福利厚生のためだ。昼寝のためだ。定年なき安定雇用のためだ。
そういう理由なら、いくらでも説明できる。
でも。たぶん、それだけじゃない。
あの小さな手が、落ち葉を拾っていた。誰にも褒められようともせず。誰にも感謝されようともせず。ただ、泣きそうな誰かのために。
それを知ってしまった以上。俺はもう、見なかったことにはできない。
(……嫌なんだよ)
パティが、悪役令嬢なんてものにされるのが。
これは義務感ではない。防衛だ。俺の、昼寝の、防衛戦だ。
今度こそ、失う前に動く。
動く、と言っても、猫だ。
できることは限られる。吠えられない。説明できない。手紙も書けない。前足にペンは握れない。出来ても肉球スタンプを押すことくらいだ。
だが、猫には猫の仕事がある。
(まず、観察を続ける。それから、この屋敷のすべての目と耳を、俺のものにする。……鳥か。ネズミか。どっちから手をつけようかな)
遠くで、雀がちゅんちゅんと鳴いていた。
その鳴き声が、今日はなんだか、少しだけ、言葉のように聞こえた。
――まあ、それは、また明日の話だ。
「ネコチャーン! どこー!」
パティの呼ぶ声が、庭に響いた。
俺は一度だけ伸びをして、大樹の下を離れた。
昼寝の続きは、飼い主の膝の上で取ることにしよう。あそこも、なかなかの一等地だ。家賃は、無料。対価は、今後十年がかりで払う。
(行くぞ、飼い主。お前の「ふーんだ」を、俺が世界から守る)
駆け寄る俺を、パティが両手で迎えた。
笑顔だった。土で汚れた手のままの、五歳児の無防備な笑顔だった。
(……やれやれ。器用なのか不器用なのか、はっきりしてほしいもんだ)
本日の飼い主品質管理業務、総評。
対象は、素材品質は最上級、ただし精製過程に重大なバグあり。
要・継続観察および現場への直接介入。
結論:断罪イベントという名の「不良品回収」は絶対にさせない。
以上。
その夜、西棟の塔。
『黒猫観察日誌』
“本日、被験体は令嬢の庭での一件を、生け垣越しに終始観察していた。観察の姿勢が、猫のそれではない。あれは監査だ。猫が監査をするな。
なお、被験体は本日、雀と長時間見つめ合っていた。……まさか、言葉を。
いや、ないない。猫と鳥。捕食者と獲物が会話を交わすわけがない”
ユリウスは、そこで筆を止めた。しばらく考えたあと。
余白に、小さく一行を書き足した。
“でも、もし話せたら、すごい”




