第七話「決意の昼寝」
正社員になって、一週間が経った。
試用期間の終了である。
猫の試用期間に、更新手続きはない。書類もない。印鑑もない。ただ、セバスが朝食の席で「ネコチャンの食器を、銀のものに替えましょうか」と言っただけだ。それがこの家の、辞令だった。
銀の食器。
俺は前世、十年近く、プラスチックの弁当箱で飯を食ってきた。百均の、蓋のしまりが悪いやつだ。リンスの香料が染みついて、梅干しが微かにフローラルだった。それが今や、銀である。猫用の、小さな、しかし紛れもなく銀の食器。刻印入りだ。家の紋章が彫ってある。
(……福利厚生が、桁違いだ)
この世界に来てから俺は、毎日のように福利厚生の話をしている気がする。考えてみれば当然で、飼い猫というのは福利厚生だけで構成された職種だ。
採用市場にこの案件を出したら、人間が何百人殺到するか分からない。倍率、猫だけに、跳ね上がる。
さて。
正社員となったからには、正社員の仕事がある。
正社員の仕事とは――縄張りの確立だ。
(本日の業務:昼寝スポットの最終選定)
俺は朝食を済ませると、屋敷の見取り図を頭の中に展開した。
一週間の夜間巡回――職業病――によって、フィロパトール邸の構造はほぼ把握済みだ。東棟は客用、西棟は家族の私室、南に庭、北に厨房と使用人区画。
そして庭には噴水と、樹齢百年はありそうな大樹が一本。
昼寝スポットの選定基準は、研究者らしく項目化する。
一、日照。
午前中に日が当たり、午後は木陰になること。猫は体温調節を場所移動で行う。スポット内で完結するのが理想だ。
二、視界。
屋敷の玄関と庭の両方が見渡せること。情報は力なり。昼寝しながら情報収集できるのが最高級の昼寝だ。
三、騒音。
使用人の動線から外れていること。パティの探索範囲から、ほどよく外れていること。見つかりすぎず、見つからなすぎず。愛され猫の適正距離。
四、緊急避難路。
何かあった時に逃げ込める茂みがあること。何か、とは具体的には決まっていないが、備えあれば憂いなし。
候補地は三ヶ所あった。
第一候補:東棟の窓辺。日照良好。
だが来客の目につきやすい。客人に「まあ、猫!」と指を差されるリスクがある。猫は指を差されると撫でられる。撫でられるのは構わないが、知らない人間に撫で回されるのは福利厚生の範囲外だ。却下。
第二候補:厨房裏の物置の上。
食事に近い。最高の立地に見えるが、使用人の動線の真ん中だった。昼寝のたびに「まあ、こんなところに」とどかされる。どかされる昼寝は昼寝ではない。中断された睡眠は、無駄に魂を削る。却下。
第三候補:庭の大樹の、根本の南側。
木漏れ日。芝生。噴水の水音がかすかに届く距離。玄関が見える。パティの部屋の窓からは――ちょうど幹が邪魔をして、直接は見えない。だが呼ばれれば十秒で駆けつけられる。
(……ここだ)
俺は大樹の根本に辿り着き、芝生の上で三回転した。
猫は寝る前に回転する。なぜ回転するのかは、猫も知らない。知らないが、回転しないと寝られない。体の仕様とはそういうものだ。
人間だって、布団に入ってから変な体勢を経由しないと眠れない。あれと同じ、儀式である。
回転。整地。着座。横転。
――とろん。
世界が、優しくなった。
木漏れ日が、黒い毛の上で揺れている。芝生の匂い。土の温もり。噴水の、しゃあ、という水音。遠くで鳥が鳴いている。風が通り抜けて、葉が擦れ合う音がする。
(ああ……)
ああ、としか言いようがなかった。
ああ、である。
社畜時代、俺の昼寝は全部、机の上だった。肘をついて、手のひらで額を支えて、寝ているように見せかけて「考え事をしている」顔をする、あれだ。
十五分で腕が痺れる。起きた時に頬に袖の跡がついている。あれは昼寝ではない。昼寝の模擬訓練だ。本番は永遠に来ない。
本番は、ここにあった。
転生先の、公爵家の、庭の、大樹の下に。
(……分かったよ)
俺は半分うとうとしながら、心の中で頷いた。
(俺はこのために死んだんだ。納得した。異議なしだ)
意識が、ふわりと溶け始める。
最高の昼寝が、始まろうとしていた。
――その時だった。
「――――ぁぁん!」
遠くで、小さな叫び声が上がった。
パティの声だ。
(……ん?)
猫の耳が、自動で向きを変える。ハードウェアの命令だ。断れない。
「ちがうもん! パティ、わるくないもん!」
声は、屋敷の南側――庭園の方向からする。俺は渋々、体を起こした。最高の昼寝は、開始四十秒で中断された。だが、これは業務だ。飼い主の異常検知は、飼い猫の唯一の定期業務である。銀の食器は、ただではもらえないのだ。
茂みの影から、様子を窺った。
庭園の花壇の前に、パティが立っていた。その足元には――倒れた花瓶。割れている。水が広がって、摘まれたばかりの花が散乱している。
そしてパティの前には、家庭教師の女性が立っていた。眉根を寄せて、腕を組んで。
「パトリシア様。今のは、どういうご様子ですか」
「だから、ちがうの! パティは、お花に水をあげようとしただけなの!」
「水をあげるにしては、花瓶が割れておりますが」
「そ、それは……とどかなかったの! パティの手が、ちいさいから!」
なるほど。事情が読めた。
花壇の花が気に入って、自分で水をやろうとして、花瓶を持ち上げて、届かなくて、落とした。
五歳児にとって有り得る事故だ。やろうとしたこと自体は、むしろ褒められるべき行為だ。
だが家庭教師の顔は、厳しい。
「パトリシア様。出来ないことは、お傍の者に頼むのが、貴族というものです。何でもご自分でなさろうとするのは、身分に相応しくありません」
「……でも」
「それに、出来なかったことを『出来ない』と認められないのは、もっと相応しくありません。さあ、謝りなさい。『わがままを言って、花瓶を割ってしまいました』と」
パティの顔が、悔しさで赤くなった。
目が、うるうるしている。だが、頭は下げない。
「……わがまま、じゃないもん」
「パティ様」
「お花、かわいそうだと思ったの! それだけなの!」
(……あー)
俺は茂みの中で、状況を分析した。
これは少なくとも大事件ではない。花瓶ひとつ、公爵家の資産からすれば誤差だ。誤差の中の誤差だ。
だが、気になるのは、構造だった。
パティの行動の出発点は「花がかわいそう」――つまり、善意だ。
それが手の届かなさによって事故になり、事故が態度によって「わがまま」に変換され、変換された罪名が、そのまま記録されようとしている。
(……悪役令嬢って、こうやって作られるのか)
背筋が、少しだけ冷たくなった。
昼休みに読んでいた、あの小説を思い出す。悪役令嬢は、たいてい幼少期の描写で「わがままに育った」と一行で処理される。
だが実際に現場を見ると、こうだ。善意が、不器用さと、周囲の短絡によって、わがままに翻訳される。その翻訳が十年間蓄積されて、断罪イベントの罪状になる。
翻訳は、毎日、行われている。
誰かが訂正しない限り、誤訳のまま、積み上がっていく。
「パトリシア様。聞こえていますか」
「…………」
パティは唇を噛んで、黙っている。謝らない。謝れない。だって、わがままじゃないから。
五歳児なりの、精一杯の誠実さで、黙り込んでいる。
家庭教師が、小さくため息をついた。そのため息に、俺は見覚えがあった。
リコライ製薬の会議で、若手の提案が潰される時に、年配の課長がついていた、あのため息だ。「分かっていない子だ」というラベルを、ため息と一緒に貼りつける。
あれは暴力ではない。暴力よりずっと始末が悪い。記録に残らないから。
(……仕方ない)
俺は、起き上がった。
最高の昼寝は、完全に死んだ。供養してやりたいが、あとにしよう。
茂みから、ゆっくりと、姿を見せる。
そして、猫の全力で――だらしなく、間抜けに、愛らしく――転がった。ごろん、と。芝生の上で、へそ天だ。
「にゃーん」
「……ネコチャン?」
パティの目が、こちらに向いた。
家庭教師の目も、向いた。
「にゃん、にゃん」
俺はへそ天のまま、背中をくねらせ、前足をぷらぷらさせた。猫のへそ天に緊張感のかけらもない。
これを三十過ぎの男の姿でこれをやれば、通報されて社会的に終わるが、猫の姿なら最強の「クッション」として機能する。
場の空気が、物理的に和む。
「……ぷ」
パティが、吹き出した。
そして駆け寄ってきて、俺を抱き上げた。
「ネコチャン! きてくれたの!」
「にゃ」
「ねえ、きいて! パティね、わるくないの! おはなに、おみずあげようとしただけなの!」
「にゃあ」
(知ってる。見てた。お前は悪くない。悪いのは手の長さだ。成長すれば解決する問題だ)
家庭教師が、呆れたように、しかし少しだけ緩んだ顔で言った。
「……パトリシア様。猫を抱いている場合では」
「ネコチャンがね、パティを、なぐさめにきてくれたの」
「慰めてなど――」
「――失礼致します」
その時、別の声がした。
振り返ると、庭園の入口に、セバスが立っていた。いつの間に。あの老人、足音がない。執事のスキルツリーは、隠密に全振りされているに違いない。
「先生。奥様がお呼びです。午後のお茶会の段取りについて」
「あら、そうでしたか。……ではパトリシア様、続きは後ほど。花瓶の件は、きちんとお話しいたしましょうね」
家庭教師は、屋敷へと戻っていった。
庭に残ったのは、パティと、俺と、それからセバスだ。
セバスは、割れた花瓶を眺め、それからパティを見て、静かに言った。
「パトリシア様。お花に水をやりたくなったのは、よい心がけでしたな」
「……セバスは、そう思う?」
「思いますとも。ですが、届かぬ時は、誰かをお呼びなさい。それが貴族の――いえ、人間の、正しい助け方です。人を頼ることは、恥ではありません。頼まれて嫌な顔をする者の方が、恥ずかしいのです」
パティは、少し考えて、それから小さく頷いた。
五歳児の脳に、新しい仕様が書き込まれたようだった。
「……ネコチャンを、よんだら、いい?」
「ネコチャンは、どうでしょうな」
セバスは、俺を見た。
「水やりは、少々難しいかと」
(無茶を言うな。俺の前足を見ろ。ジョウロは持てない)
「にゃ」
「だそうです」
セバスは花瓶の破片を拾い集め始めた。俺はパティの腕の中で、その背中を見ていた。
この老人は、分かっているのだろう。パティの善意を、誤訳せずに受け取れる、数少ない大人の一人なのだ。
だが、セバスは一人しかいない。屋敷にはメイドがいて、家庭教師がいて、兄がいて、両親がいる。
その全員が、毎日、パティを翻訳している。その翻訳の精度を、一人の老執事がすべて担保できるかと言えば――無理だ。人数が足りない。
(……なるほど)
俺は、ぼんやりと、しかしはっきりと、理解した。
この仕事には、もう一人、要る。
誤訳が発生するたびに、現場にいて、訂正する者が。人目を気にせず、昼寝の合間に、そっと動ける者が。
つまり――猫が。
(はあ)
心の中で、ため息をついた。
分かっていた。分かっていたんだ。転生して五日目の朝、銀の食器を見た時から、薄々は。こんなに待遇のいい職場の業務内容が「存在」だけのはずがない。
世の中、そんなに甘くない。甘かったら、俺は人毛の山で死んでいない。
飼い猫の真の業務内容は、こうだ。
――飼い主の善意が誤訳されないよう、常時監視s、、必要に応じて現場に介入すること。
業務名をつけるなら、『飼い主品質管理業務』。略して、飼い主QC。
(……やってやるか)
パティの腕の中で、俺は小さく鳴いた。
これは追加業務ではない。
昼寝を守るための、保全作業だ。この令嬢が断罪されれば、屋敷は荒れ、銀の食器は失われ、大樹の下の昼寝スポットは、無粋な誰かのものになる。それだけは、あってはならない。
昼寝は、守るものだ。
昼寝は、待っていても守られない。
昼寝は、自らの前足で、切り拓き、防衛するものなのだ。
「ネコチャン?」
パティが、俺の顔を覗き込んだ。
俺はとびきり無垢な顔で、鳴き返した。
「にゃあ」
(――というわけで、今後ともよろしく頼むよ、飼い主。お前の破滅フラグは、俺がこっそりへし折る。お前は何も知らなくていい。のんきに、気儘に、わがままに――いや、わがままはほどほどにな)
「えへへ。ネコチャン、なんかいい顔してる」
「にゃ」
いい顔、か。
そうかもしれない。守るべきものが見つかった男の顔は、たぶん、少しいい顔をしている。
その日の午後、俺は大樹の下で、昼寝の続きをした。
中断された昼寝の続きは、案外、悪くなかった。いや、正直に言おう。最高だった。
一度中断されて、業務を済ませて、戻ってきた昼寝は、中断されていない昼寝より深い。
これは受験勉強の合間に食べるカップ麺。仕事帰りの一杯のビールに匹敵する真理かもしれない。
――その夜、西棟の塔では、一頁が書き加えられていた。
『黒猫観察日誌』
“本日、被験体は昼寝を放棄して令嬢の元へ赴き、場の空気を意図的としか思えない精度で転換させ、その後、昼寝に復帰。
――昼寝を捨てる判断と、昼寝に戻る判断。この猫の意思決定には、一貫した基準があるように見える。要観察”
エピソードタイトル、七話目にして早挫折……。




